8 / 21
第三話
後宮に籍を置く愛妾たちは、元は由緒正しき伯爵家などの令息や令嬢であるため、立場上はそれぞれに爵位が与えられている。それゆえ各人に従者がそれぞれ付けられてはいるのだが、リュカの場合は人を使うということに不慣れなため、一人で行動することが多い。
(それに、従者たちも何だかわたしの傍にいづらそうだからな。元が平民の主人なんてやりづらいだけだろう)
誰かが傍にいないと服も着られないほど箱入りで育っていないリュカにとっては、こちらの方が何かとやりやすくはある。
とは言え、後宮でずっと過ごしているのも気づまりがするのは確かなので、リュカはたいてい図書室に出向くことが多かった。
性技に関する知識を得たのもここだ。あの時はただ不甲斐ない自分が情けなく、一人になりたくて入ったのがこの図書室で、そしてたまたま気分が落ち着くまで眺めていた書架 の中に見かけたのが性技に関する書物だったというのもある。
「えーっと、昨日はこの棚まで読んだから……今日はここからだな」
ベルニエの屋敷にいるときは読み書きをするのがやっとな状態で、家族が手放した新聞や誰も手を付けていないような本を手に取って独学で学んでいた。学ぶ機会を与えられなかった以前に比べ、ここでは自由に本が読めるのでリュカはひたすらに本を読みふけっている。特に興味があるのはヴェルミエ国に伝わる歴史の読み物で、国の成り立ちや王家の歴史などを紐解いていく物語に心を惹かれるのだった。
そして読書をするようになってから気付いたことなのだが、リュカは何かに熱中すると周りが見えなくなってしまう性質 のようなのだ。
だからこの日も、図書室の閲覧席に座って読みふけるリュカの隣に誰かが座ってこちらを見ているのに全く気付かなかったほどだ。
「随分と熱心だな」
「……へ?」
笑い含みの声をかけられてやっと我に返り顔をあげると、呆れたような感心したような顔をして苦笑をしているアルベールがすぐ隣に座っていた。
まさか公爵が城内の図書室に出入りするなんて思いもしなかったリュカは、返事をしなかった無礼に冷や汗をかき、慌てて立ち上がって頭を下げた。
「も、申し訳ございません!! つい、夢中になってしまって……」
「いいんだ。リュカが熱心に読みふけっているのを邪魔になるところだったからな」
思いがけず、久方ぶりに自分の名――貴族名ではない方の名前を呼ばれたので驚き目を瞠ると、アルベールは少し照れ臭そうに顔を背ける。
「どうしてその名をご存じなんですか? わたしは、陛下からルシアンの名で呼ばれているのに」
「あなたは忘れてしまったかもしれないが……俺とあなたは後宮であのようなことになる前に、一度会っているんだ。三カ月ほど前の夜会を、憶えていないか?」
三カ月ほど前の夜会と言えば、リュカがオーギュストに後宮へと召し上げられた時でもある。それまで一度も社交界に顔を出したことがなかったので、夜会に出席したことがあると言えばそれしかない。そしてあの晩、アルベールという名の貴族とわずかに言葉を交わしたこと、それがリュカの中に灯りをともしてくれたことを忘れるわけがない。
でもまさかあの一瞬だけしか口にされなかったリュカの名を覚えていてくれたなんて、思いもしなかったのだ。聞き流していてもおかしくないささやかな言葉だったはずなのに、いまこうして名を呼ばれる奇跡を、リュカは無意識に頬を緩めて受け止める。その様子を、アルベールもまた目を細めて見つめている。
「憶えています。忘れもしません。あの晩はわたしにとって様々な節目となりましたから」
「そうだな……あの時俺が陛下に何か進言していれば、あなたがあのような事をするような目には遭わなかっただろうに」
何故アルベールが悔やむような事を言うのだろうか。リュカの両親でさえもリュカが後宮に召し上げられたことを喜んでいたというのに。
「い、いえ……後宮とはそのような場所でしょうから」
「しかし、先達ての晩だってあなたに陛下は優しい言葉も労いの言葉すらかけなかった……」
「仕方ありません。元はと言えば、わたしが陛下との夜伽をお断りするなんて無礼をはたらいてしまったのがいけないのですから。後宮を追い出されないだけ有難いと思わないと」
アルベールとの睦み合いを命じられ、その行為のあとのオーギュストの態度を思い返すと、確かにリュカの胸はちくりと痛む。だがそれは自分が至らないからであるから、そう振舞われても仕方がない。そう、リュカはどうにか微笑んで返すのだが、アルベールの表情は険しいままだ。その表情に、リュカはまたうつむいていく。
ああ、なぜ自分は人を不快にさせてしまうのだろう……そう、恥じ入っていた。
しかし、アルベールはリュカが想像するような反応を示さず、強い口調で問うてくる。
「だからと言って、あなたがああまでさせられるいわれはないのでは?」
アルベールはきっと、オーギュストの気まぐれでリュカが後宮に取りたてられ、愛妾になったことで自分と見世物のように睦み合う羽目になったことを悔やんでくれているのかもしれない。実の父でさえもリュカの後宮入りを大出世だと言わんばかりに喜んでいたと聞いたのに、どうしてアルベールが苦いものを含んだような顔をするのだろう。
やはり、王城が管轄する後宮において自分のようなものに相手をされるなんて、思ってもいない屈辱だったということなのだろうか。
「……すみません、わたしなんかが相手で、お嫌でしたよね」
姿形もよく、若き公爵として名をはせているアルベールから見れば、きっとリュカなど相手に宛がわれるのも畏れ多いのかもしれない。性技も未熟で、そもそもオーギュストとの夜伽も満足にできないような自分など抱かれるに値しないのだろう。
それなのにリュカ自身は、あの後宮での出来事を忌まわしいものとはとらえていない。それはただアルベールという由緒正しい相手であったからというだけではない。
(イヤだったと言うよりもむしろ……アルベール様との睦み合いの方が、陛下よりも優しくて気持ちが良かった……)
決して言葉にしてはいけない感情が湧き、リュカは慌てて唇をかみしめる。これではまるで、オーギュストに非があると言っているのも同然だからだ。
そんなことを思うのは畏れ多い不敬であろう。でもどうしても湧き上がってくる気持ちを打ち消そうとしても、アルベールとのひと時に甘さを感じてしまう。そんなこと、許されるわけがないのに。
だからこそリュカは自分の相手をさせてしまったことを詫びたのだが、アルベールは違った言葉を返してきた。
「そんなことはない。あなたは誰よりもきれいだった。穢れのないあなたは、何よりも美しかった」
「そ、そんなことありません! わたしなんて、陛下も満足に心地よくできないし、余計なことばかり言ってしまうし……」
「それは、ベルナール公爵のことか? あれは陛下を想ってのことであろう?」
「そうですけれど……でも……」
「ならばあなたの心もきれいだということだ。光を意味するあなたの名にふさわしい行いだと言える」
「え……? 光?」
自分の名にそんな意味が込められているなど、考えたこともなかった。むしろ自分は影の存在で、日の当たる場所などに出てはいけないのではないかとすら思っていた。
それなのに――アルベールはまるでリュカをまばゆい光を見るように目を細めて見つめてくる。深い闇色の瞳に見つめられてしまうと、どうにも惚けたように見つめ返してしまう。
対するアルベールはそんなリュカの様子を咎めるでもなく、まばゆいものを見るようにやさしく見つめ返している。
「古代語で『光の者』『光をもたらす者』という言葉から来ているのがリュカと言われている」
「そんなこと、初めて言われました。わたしの名前には光という意味があるんですね」
自分の名をつけてくれたのは母親なのか誰なのか、もはや知るすべはない。それでも自分が誰かの光であったのかと思うと、小さな喜びが、それこそ胸に灯るように湧いてくる。
「光を意味する名前は他にもある。例えば、アルベール。俺の名前も光に由来していると言われている」
「アルベール様も、光……」
思いがけない共通点に気付かされ、リュカはまた胸の奥に灯りが点ったような気がした。ホッと息をつくようなあたたかなそれは、アルベールから向けられる眼差しや声にも込められているようだ。だからなのかつい、リュカは頬を緩めて微笑んでいた。
「なんだかここでお知り合いができたようで嬉しいです。どこにいても一人になりがちなので、心強い限りです」
「やっと笑った。あなたはやはり笑みを浮かべている方がより美しい」
アルベールの言葉に思わず胸が鳴り、そっと抑える。鼓動が静かに速くなり、大きくなっていく気さえする。
リュカにそう囁くアルベールもまたやわらかく微笑みを浮かべており、そっとこちらに手を伸ばしてくる。触れそうなほどの距離まで近づいてきたのだが、アルベールの手はためらうように停まり、戻された。
それでも闇の色だが深い情を感じる瞳には、包まれるように彼を見つめている自分の姿があり、まるで夢見るような眼差しを向けている。誰かに対してこんな無防備な顔をするなんて、思いもしなかった。
「……アルベール様、あの……」
「うん?」
「また、お話しすることは叶いますでしょうか」
爵位はあれど一介の愛妾という立場であることに変わりはないリュカが、公爵のアルベールとの逢瀬を取り付けて良いものとは言えないだろう。後宮にある物はすべてオーギュストのものなのだから。
だからせめて、またこうして偶然出会った際にでも言葉を交わせないだろうか。一言でも二言でもいい。ただそれだけでリュカは胸の内の灯りをともし続けられるだろう。
(でもどうしてそれをアルベール様に思うのかは、わからない。だからこそ、またお話がしたい)
言葉を重ねれば何かがわかるかもしれない。肌を重ねるよりも確かな何かが、きっとそこにはある気がするのだ。
リュカのそんな胸中を汲んでくれたのかはわからないが、アルベールはしばし考えたのち、小さく微笑んで答えてくれた。
「そうだな……またどこかでこうして会えるのであれば、叶うかもしれない」
強く拒絶する言葉ではなかったが、快く応じてくれたとも言い切れない。でも、拒まれたとは感じはなかったので、リュカはパァッと顔を輝かせて大きく頭を下げる。一筋の希望のような言葉に、心がほどけていく。
「ありがとうございます!」
それを確認すると、アルベールは「では俺は陛下に用があるので」と言い残し、図書室を出て行った。残されたリュカは去って行く大きな背中を見つめながら、先程の言葉を胸の中で反芻 する。思えばこれは、リュカが初めて自分のためにしてもらった約束とも言えた。
「アルベール様にまたお会い出来れば、お話しできるかもしれない……」
絶対の逢瀬の約束ではないかもしれない。でも、再会を拒まないという言葉はもらえた。それだけでも、味方がいないリュカには心強いお守りとも言える。
「アルベール様……」
宝物のようにアルベールの名を呟き、そっと胸を両手で抑えて封じ込めるようにする。そうしていると先程の彼の声がリュカの胸に響くような気がしたのだ。
アルベールの言葉はリュカの中でまばゆい光となって点り、胸の中を明るく照らしてくれる。まさにリュカにとっての希望という名の星とも言えよう。
誰かに名を呼ばれること、そして当たり前に言葉を交わしてもらえること、その何気ないやり取りこそが今のリュカにとっては幸福を覚える喜びとも言えた。
たったそれだけのやり取りの記憶を胸にしまったリュカは、夕餉 の鐘が鳴り響く城内を一人歩いていく。
もう数時間もすれば今宵もオーギュストが後宮にやってきて、リュカ以外の愛妾たちを侍らせて過ごしていくのだろう。先日の一件以来また酒宴に呼ばれなくなったリュカは、いよいよ後宮では立場がない状況だ。
(でもわたしは平気だ。わたしにはアルベール様と同じ光が点っているのだから)
光を由来とする名を持つ彼との共通点が、今宵の孤独なリュカを照らし温めてくれるだろう。いまはそれだけを頼りに、ただ懸命に生きていくしかないと思うばかりだ。
うつむきがちだったリュカはまっすぐに前を見つめ、訪れる夜に備えて気持ちを切り替えていくのだった。
ともだちにシェアしよう!

