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第三話

「どうだ、アルベール。選び放題だぞ」  テーブルに広げられた手紙を矢継ぎ早に突きつけながら、オーギュストは嬉々としてアルベールの縁談を進めようとしている。 「これなんかどうだ? 東の果てにある黄金の国だそうだ」 「ええ、そうですね……」 「ほう、こちらは南国の花の国だそうだぞ。見ろ、ルシアン」  そう、リュカにも手紙を突きつけられるが、どう答えていいかわからず曖昧にも笑えない。いま自分はどんな顔をして、どうオーギュストらの前に立っているのかすらも想像もできないでいた。  息が、苦しい――――いくら口をハクハクとして喘いでも酸素が体に入ってこない。喉元を抑え懸命に吸おうとすればするほど、リュカの周りの空気はどんどん削り取られていくように薄くなっていく気がした。  後宮に囲われている自分は王であるオーギュストのものであるのは揺るがない事実だ。しかしだからと言って、自分の胸の中に灯りをともしてくれるような相手の伴侶選びを目の当たりにさせられても構わない存在だとは思えなかったし、思いたくなかった。  だが、現実は厳しいものばかりを突きつけてくる。徹底的にリュカの手の届かない所へアルベールが行ってしまうかもしれないというこの上ない厳しい事実を前に、リュカは太刀打ちできるすべがない。立ち向かう心さえも折られ踏みにじられているとも言えた。  アルベールを窺おうにも、オーギュストがいる手前あからさまに目を向けることもはばかられ、伏し目がちになってしまう。いや、もはや向き合う気力さえないと言える。  足元がふらつき、立っているのもやっとな状態のリュカの様子を気にかけることもなく、オーギュストはアルベールに縁談を進めている。 「こちらの姫君などどうだ? 近隣諸国でも評判の美人だそうだぞ」 「はあ……ですが陛下、私は……」  困惑の色がにじむアルベールの声が不意に途切れたその時、リュカの視界が揺らいだ。手にしていたポットが床に落ちて音を立てて割れ、そのわきにリュカが崩れていく。 「リュカ!!」  暗転した視界が渦巻いて焦点が定まらない。どこかでアルベールが叫んでいる声が聞こえた気がするが、それも定かではない。  呼吸が苦しい。体が重たくて冷たくて、指の一つも動かすことができない。まるで鉛や岩にでもなってしまったかのように硬くなってしまったリュカの体は、自分の意思とは無関係に震えて止まらない。  ガクガクと震える細い肩に、何かがふわりと掛けられる感触がした。温かいと思ったその時、ふわりとリュカの体が浮く。 「しっかりしろ、リュカ!」  アルベールの声が耳に響く。では抱えてくれているのはアルベールなのだろうか。まぶたが重くて開けることもままならないリュカは、大丈夫だと答えたくても答えられないでいる。  四肢に力が入らないなか、それでもどうにか意識を保とうとしているリュカの上で氷のような冷たい声が聞こえた。 「おい、医師を呼んでおけ。流行り病のようなら後宮から出すな」  オーギュストの言葉が、意識が朦朧とするリュカを貫くように刺さり、それこそ息が止まりそうになる。ああ、またしてもオーギュストから不興を買ってしまった……後宮に囲われている身でありながら、自分はいっかなオーギュストの機嫌を取ることができないままだ。  ならばこの状況は罰なのだろうか。王命で睦み合った相手の縁談話に目を回して倒れるなど、情けないにもほどがあると言えよう。  だけどどうしても、いま目の前で放たれたオーギュストの言葉を、すんなりと受け入れる気になれないでいる。悲しみと拒絶が入り混じり、心の奥底の深いところでふつふつと怒りのような感情が芽生え始めていた。そんな感情など、(あるじ)であるオーギュストにいだいていいはずがないのはわかっているのに。 「陛下! ルシアン殿を案じておられないのですか?」  倒れたリュカに対し、慰める言葉の一つもかけずに去ろうとしているオーギュストにアルベールが食って掛かるように声をかけるのが聞こえる。声色から、普段よりも感情が――それも怒りの――露わになっている気がし、リュカはぼやけた意識の中で驚いていた。  確かにオーギュストの言動が引き金になってはいるかもしれないが、それに対してリュカが勝手に倒れて具合が悪くなっているだけに過ぎない。それなのにアルベールがオーギュストの振る舞いに対して意見するなど、普段の忠誠心に厚い彼からは考えられない言動と言える。  それはおそらくオーギュスト自身も同じ思いをしているのか、彼から向けられる気配がピリリと鋭いものに代わった気がした。 「案じておるから医者の手配をした。それ以上に何をせよと言うのだ?」  目の当たりにせずとも、オーギュストから向けられる眼差しが氷のようであることは大いに察せられ、アルベールよりもリュカの方が身の縮む思いがしている。もうこれ以上王であるオーギュストに、自分なんかのことで食い下がらないでほしい。そうでなければ、アルベールに(とが)が及んでしまうだろう。 (アルベール様……もうおやめください……もう、十分ですから……)  そう言葉を発したくても呼吸がままならない中では難しく、リュカはただアルベールの胸元を縋るようにつかむしかできなかった。  しかしそれだけでも何か伝わるものがあったのだろう。それ以上アルベールがオーギュストと何か言い交わすようなことはなく、そのままオーギュストは珊瑚の間を出ていってしまったようだ。  オーギュストの気配が消えた途端、リュカの仲での緊張の糸が切れてしまったのか、そのままリュカは意識を手放してしまった。  意識を失っている間、リュカは夢の中にいた。  夢の中で、リュカはベルニエ伯の屋敷に引き取られて間もない五歳ごろの姿をしていた。そして辺りは薄暗く、どうやら屋敷の裏手にいるようだ。  ――ここは、たぶんわたしがあの頃よく一人で過ごしていた所だ。  メイドであったリュカの母親のことは屋敷の中で知らない者はなく、それによりリュカは常に周りから冷たい目で見られていた。「旦那様をたぶらかした女の子ども」というのが当時のリュカの通り名であり、それを聞こえよがしに言われる日々だったのだ。  幼かったリュカは耐えかね、当時唯一誰の目にもつかない屋敷の裏手にある薪割りをする場所のあたりで一人うずくまっていることが多かった。人目につかなければ、悪口を言われることも耳にすることもないからだ。  そこでリュカは屋敷で拾った新聞を広げ、薪割り場に落ちていた枝で地面に見よう見まねで文字を綴っていた。何とか読み解ける単語を書き留めることで習得しようとしていたのだ。  夢で綴っていた文字は『リュカ』。唯一空で書けるものは当時のリュカにはそれだけしかなかった。  リュカが黙々と地面に名前を書き綴っていると、ふとそこに一筋の光が射してくる。まるでリュカの綴る文字をなぞるようにして射し込むそれが降って来る方へ顔を上げると、大きな人影がたたずんでいた。  父親だろうかと慌てて立ち上がり、言いつけが何かを尋ねようとした。しかし、影は一向に用を言いつけてくる気配がない。  ――だぁれ?  恐る恐るリュカが窺うように尋ねると、その影はふわりとリュカを抱きしめてきた。温かでやわらかなそのぬくもり――いや、熱とも言えるほどの体温の高さを感じるそれには、どこか懐かしさを覚える。  あなたは誰? そう、リュカが尋ねようとした時、影は囁いた。 「リュカ。俺の光の人よ、目覚めてくれないか」  聞き覚えのある声に導かれるように、意識が段々とはっきりとしていく。  何か冷たいものが額に宛がわれている感じがし、そっとまぶたを押し上げると、不安げな顔をしたアルベールの姿が見えた。 「……アルベール様?」 「ああ、気が付いたかリュカ」  何故ここにアルベールがいるのだろう。見覚えのある天井はどうやらリュカの自室のようだが、そんなところに彼を招いた記憶はない。確か自分は、珊瑚の間で給仕をしていて――  思い返そうとすると胸が詰まるような痛みを覚え、うずくまりそうになる。その様子を見たアルベールがリュカに寄り添い、背をさすってくれる。 「気分はどうだ、リュカ。胸が痛むのか?」 「いえ……何でもありません。大丈夫です。それより、何故アルベール様がここに……」 「憶えていないか? 客間で俺の給仕をしている時に倒れたことを」  憶えていないわけがない。いやでも記憶に刻み込まれているのはオーギュストが用意したアルベールの縁談のことだ。山のような候補者の中から好きなだけ選べと言われて憮然としているアルベールの様子を見ていて、目眩を覚えて……倒れてしまったのだ。 「申し訳ございません。わたしはまた大変な失礼をしてしまいました。しかもアルベール様に介抱をさせてしまうなんて」 「良いんだ、気にすることはない。俺がしたくてやっていたのだから」  公爵に一介の愛妾の介抱をさせるなどあってはならないことだろう。拒むどころか優しく微笑みかけてくれるアルベールの優しさに、リュカは胸がいっぱいになってしまう。  ああ、また優しくされてしまった……それが嬉しいのに申し訳なく思えてしまうのは、自分が後宮に囲われている立場だからだろう。しかしそれがなければ、いまこうしてリュカはアルベールと向き合えてもいなかっただろう。忌々しくもどかしい想いはリュカの心に圧し掛かり、締め付けていく。  どうしてこんなにアルベールにされることを嬉しいと思うたびに苦しくなるのだろう。痛みと苦しみを覚えるのに、そこに甘さや喜びも感じてしまうのは何故なのだろう。答えの見えない問いかけは、リュカを一層苦しめてうつむかせる。 (でも、いまはここに二人きりなのか……いつも周りに人がいるのに、不思議な感じがする)  しかしあたりを見る限り部屋にはアルベールしかおらず、他の侍従も、オーギュストもいない。  きっとまた、オーギュストの機嫌を損ねてしまったのだろう。意識を失う間際も、「医者を呼んでおけ。流行り病なら部屋から出すな」と言い放っていた気がする。そうまで言われてしまうと、徹底的に嫌われているとしか思えない。  リュカは自分がつくづく後宮勤めに向いていないことを痛感し、弱く笑い嘆く。 「……また、陛下を怒らせてしまいました。わたしはダメな愛妾です。それでなくとも、わたしは陛下から嫌われているようですし」  努めて明るく口にしては見たものの、言葉にするほど空元気であることを如実になって虚しくなる。アルベールも何と答えれば良いかわからないと言った顔をしているし、何も言わない所から察するにきっと呆れているのだろう。 (アルベール様はかつて私を浅はかではないと仰ってくれたけれど……それももう今回の件で帳消しになるのだろうな)  何よりアルベールは先程オーギュストから縁談を進められており、断っている感じでもなかった。だから今回を最後に、こうして会うことも言葉を交わすことも出来なくなるだろう。もちろん、手紙をやり取りすることも叶わないはずだ。  お別れなのだな……そう、一つの考えに行き着いてうつむくリュカの視界が揺れてにじんでいく。せめてアルベールが部屋を出ていくまでは堪えていなくてはと思うのに、胸がつかえたように苦しくて痛くて仕方ない。瞬くたびに目元が熱くなっていき、堪えられなくなっていた。  そんなうつむいたままでいるリュカの手に、そっと大きな手が重ねられる。褐色のたくましい指先は、アルベールのものだった。  驚いて顔を上げると、その拍子で堪えていた波が頬を伝っていく。アルベールの手はその伝雫を拭ってくれた。 「陛下は気まぐれな方だ。きっと今回のこともしばらくしたら許してくださる。なによりあなたに落ち度はない」 「そう、でしょうか……」 「あなたは優しすぎる。後宮にいるのが惜しいほどに心がやわらかで清いのだろう」  そう囁くアルベールの声は低く優しく、そっとリュカの痛む胸を撫でてくれるようだ。優しい感触を覚える声に惚けるようにアルベールを見つめていると、一瞬だけアルベールがリュカの手を取りそこに口付けた。手の甲への口付けは、敬愛の証し。公爵ともあろう者が愛妾にするには大袈裟とも言える仕草だ。  思いがけないアルベールの振る舞いにリュカが驚き言葉を失っていると、アルベールは立ち上がり、もう一度小さく微笑んでこう言った。 「あなたの光が失われることがないよう、祈っている」  それだけを言い置いてアルベールはリュカの部屋を去っていった。  残されたリュカはアルベールから受け取った言葉を噛み締めるように胸中で唱え、そっとそこに手を添える。  鼓動を打つ心臓がいつもより強く感じられるのは、きっといま受け取った言葉に特別な意味を見出しているからだろうか。そしてそれはリュカにとって唯一無二の思いでもあるように感じられる。  リュカの中に光があるとすれば、それは彼がくれたものだ。(あるじ)である若き王ではない、いまリュカのことを祈る言葉をくれた彼だけだ。 「わたしの光は、あなた様です、アルベール様……」  特別に輝くリュカの光。それに対していだく想いはいままでに覚えたことがないほど熱く甘いものだ。 それを何と呼ぶのか、リュカは習ってもいないのに知っている気がする。  初めて覚える感情のはずなのに、甘く懐かしくさえある。ただそれは生まれたてで儚くもろく、リュカはそっと宝物のように呟く。 「アルベール様……わたしの愛しい光」  胸に灯る灯かりは綺羅星(きらぼし)のように光を放ち、傷んでいたはずのリュカの胸を癒していく。傷つけられて痛む胸に溶けていく言葉をそっと閉じ込めるように抱きしめながら、リュカはいつまでも芽生えた感情の芽を撫でていた。

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