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第四話
結局のところ、リュカが倒れてしまったことで肝心のアルベールの縁談がどうなったのかは聞けずじまいだった。
しかしそれ以上にリュカにとってあの日その身に起こった出来事は、心に大きな変化をもたらしていたとも言える。
それまでもリュカにとってアルベールは、言葉を交わせば胸の中に灯りをともしてくれるような存在だと言えた。たとえ手紙であっても彼と交わす言葉はあたたかで、文字であれば指で辿ってもそれを感じるほどだ。
しかし先日受け取った言葉は、これまでの中でも際立ってリュカの心を温めて癒してくれたと言える。その理由の一つは、あの時リュカがオーギュストの機嫌を損ねるいたらない愛妾ではないことをはっきりと告げられたことにもあるだろう。
だがそれ以上に、リュカはアルベールの誠実な態度や振舞い、心のにじむ言葉を自分に向けてくれるところが嬉しくて仕方なかったのだ。
だからなのか、体調が戻って後宮内で普段通りに過ごし中で周囲からひそひそと陰口を叩かれていても、以前のように気に病むようなことはなくなった。それほどに心持ちが強くなり始めているとも言えるだろう。
しかしそんな自身の嬉しい変化を実感しているリュカの許に、またあの男が訪ねてきた。
「随分と具合が良さそうだな、ルシアン」
先日の縁談騒動から一週間ほど経ったある晩、珍しくオーギュストからの指名を受けてリュカは広間に出ていた。
そこではいつものようにくつろいだ様子のオーギュストが長椅子に座っていて、リュカにそんな言葉をかけてくる。
(あの時素っ気なくされたように思ったのは、ただわたしの体調の悪さによる思い違いだったのかもしれない)
体調が悪ければ言葉を悪い方へとらえがちになるものだ。しかも直前にはアルベールの縁談話を目の当たりにしていたのだから、頭が混乱していたのかもしれない。そうリュカは思い直し、オーギュストの言葉ににこやかに答える。
「ご心配痛み入ります。お陰様でもうすっかり良くなりました」
水差しからワインを注ぎながら微笑みかけるリュカに、オーギュストは満足そうな顔で肯いている。どうやら今宵はいまのところ機嫌を損ねていないようだ。
「今宵はどのようにお過ごしになりますか?」
「そうだな……お前、歌は唄えるか?」
「ええ、少しだけなら。母に教えてもらった、子守歌や昔ながらのものばかりですが……」
リュカは歌を本格的に習ったことはないし、人前で披露したこともない。それでも幼い頃母親に教えられた歌ぐらいならそらんじられるため、そう答えた。気の利いた流行りの歌など、屋敷で疎まれて過ごしていたリュカに知るすべがないのだから。
とは言え、これまで基本的にリュカはオーギュストの酒宴に呼ばれることはなかったし、あったとしてもアルベールとの睦み合いという無茶な命令を下されてばかりだった。こうして落ち着いて酒を楽しむ夜など初めてとも言える。その上歌を唄えるかという愛妾に求められやすい要求をされたこともなかった。
ああ、ようやく一人前の愛妾として扱えってもらえるようになったのだろうか。そう少し喜びを覚えていると、それまでゆっくりとワインを味わっていたオーギュストがグッと残りを飲み干した。
「よし、聞かせてみろ」
「はい、仰せのままに」
オーギュストの声を合図に後宮専属の室内楽団が呼びこまれ、早速演奏が始まる。曲はヴェルミエ国に古くから伝わる王をたたえる歌だ。
多少の緊張を覚えながらも、リュカの歌声は繊細な高いメロディーをつむぐ。それは静かに広間に響き耳に心地いい。歌に秀でた愛妾は他にもいるが、リュカの歌声は心に響く音色をしている。
王をたたえる歌に続き、豊かな国土を喜ぶ歌を歌い、リュカは深々と礼をする。それに対しオーギュストは満足そうに微笑んで拍手を送ってくれた。
「なかなか良い歌声だな、ルシアン」
「お褒め頂き、光栄でございます」
「特に高く伸びる歌声、かなりの聞きごたえであったぞ」
鳴りやまない拍手と賛辞に、リュカはいつになく持ち上げられた状況への若干の戸惑いを覚えていた。それでも、初めてのまっとうと思われる誉め言葉が嬉しくないわけがない。
思えば後宮に召し上げられた初日から、オーギュストに対しては不興を買うようなことばかりしてきていたと思う。王のための後宮でありながら、ほかの男――アルベールと睦み合って快楽を覚えてしまうなど、不敬にも匹敵しそうなことばかりしてしまっている。
それなのに、今宵は手放しで拍手まで送られている。ようやく、オーギュストの機嫌を取ることができ、名実ともに一人前の愛妾となれたのではないか。そう、リュカは確信していた。
頬を染め、はにかむように微笑んで喜んでいるリュカに対し、オーギュストはすかさずさらりとこう続ける。
「人間の高音域の声は睦み合いの最中の声によく似ていると言うが、まさにそうだな。お前の先ほどの歌声はアルベールとのまぐわいの時のものとよく似ておる」
「…………ッ!?」
全く思ってもいない言葉を投げつけられ、冷や水を浴びたような心地になった。薄桃に染まっていた頬は冷め、微笑みは凍り付いていく。それでも辛うじて笑みは絶やさなかったが、何と言葉を返せばよいと言うのだろうか。ようやく認められたという思いを実感していたのに、それはあっさりと無残に崩されていく。
驚きと衝撃で目を見開きオーギュストを見つめていると、若き王である彼はゆったりと微笑んでこう提案してきた。
「だから今宵もその声を聴かせろ、ルシアン」
「それは……どういうことでしょうか……?」
「わからんか? 私の前でまたまぐわえというのだ」
ゆったりと微笑みを浮かべながら、なんの衒 いもなく述べるオーギュストに、リュカはどう答えればいいのかわからなかった。
容体を心配され、歌声を誉められ、これでやっと一人前になれたと思っていた。ようやくオーギュストの機嫌を損なうことも、不興を買うこともなく今宵を過ごせると思っていたのに――彼の口からついて出たのはいままでと何一つ変わらない命令。リュカは衝撃で言葉も出ないままオーギュストを見つめていたが、もちろんオーギュストに悪びれる様子はない。
「な、何故そのようなことを……今宵は御酒をお召し上がりになって過ごされるのではないのですか?」
「お前の歌声を聞いていたら気が変わった。もっとあの時の声を聴いてみたくなった」
「そんな……! で、ですが今宵はオーギュスト様以外にはどなたもいらっしゃらないようですが……」
広間にいるのはくつろぐオーギュストと、彼にまぐわいを見せるよう命じられたリュカ。その他には護衛の兵士が入り口に二名立っており、今宵に限って他の愛妾の姿はない。
いやな予感がする……そう、リュカが冷や汗をかいて青ざめているなか、オーギュストはこう言い放った。
「おいそこのお前。そうだ右のお前だ。こちらへ来い」
「え、は、はい」
そう言って手招きして呼び寄せたのは、護衛の一人。背はオーギュストより高く、体格はアルベールよりも頑強そうな筋肉をしているのが鎧 越しでもわかる。
オーギュストも護衛の体格の良さを実際に触れて確かめており、「よく鍛え上げておるな」と、満足げにしている。しかもオーギュストは何やら護衛に耳打ちをし、彼をにやけさせるようなことを囁いているようだ。
一体何がこれから行われると言うのだろう。オーギュストが言い放った命令を、きっとこの護衛も聞いているだろう。その上でこちらに手招きされているのだとすれば……リュカは最悪の事態を想像し、どんどん青ざめていく。
「さあルシアン、いまからこいつとここでまぐわうが良い」
「こ、この方と、ここで、ですか……?」
「ああ、そうだとも。さっさと服を脱げ。それとも、脱がされていく方が好みだったか?」
悪びれる様子は欠片もないオーギュストの口ぶりに、リュカはそれ以上抗うのは無駄なのだと悟った。そして同時に、オーギュストにとって自分はやはりそのような対象でしか見られていないのだと言うことも。
ようやく認められたのかと思っていた悦びは無残に踏みにじられたばかりではなく、さらに新たな傷口を作る刃となって差し向けられる。
心が絶望に叩きつけられ血を流しているのに、それを止めるすべがわからない。
何をどうしたら、この絶望から救われるのだろう――そう呟くことさえも許されない。
「どうした? お前は私と致すよりも、致している自分を見られている方が好みのようだからな。存分に見てやるから、遠慮なくまぐわうといい」
さあ、と促されて護衛の男が身に着けている鎧をひとつひとつ脱ぎ捨てていく。緊張もあるのだろうが既に興奮状態にあるらしく、荒い呼吸が聞こえてくる。それはまるで飢えた野獣のようで、リュカはますます体を強張らせていく。
「お前はアルベールと随分よさそうだったからな。より屈強な男を用意してやったぞ」
そうオーギュストは言うものの、リュカはその言葉に大きな違和感を覚える。確かに誰かに好意を見られることは、倒錯的な雰囲気になり興奮を伴うかもしれない。しかしそれが果たして誰が相手であってもそう言えるのだろうか?
(わたしはアルベール様しかお相手したことがないからわからない……でも、どうしてこんなに不快な気分になっていくのだろう)
まるで吐気のように胸がむかむかとして、いつの間にかすぐ傍まで近づいてきていた護衛の指に触れられたところが泡立ってしまう。兎に角、不快で仕方がないのだ。向けられる視線も、どんどん近づいてくる気配も、何もかもに嫌悪を抱いてしまう。
愛妾は王の命令に背かず従うもの――その鉄則でさえ、いまのリュカは守ることが難しいほどの不快感と嫌悪感が募っている。
「オレは男とヤるのは初めてだが……あんたは慣れてるんだろう?」
吐息を感じるほど近づいてきながら、護衛が囁く言葉に、嫌悪感がどんどん大きくなっていく。そういうわけじゃないと言い返したいのに、恐怖心の方が大きく体が動かない。
その内に乱暴に腕をつかまれて引き寄せられ、抱きしめられていた。そうして無理矢理に上向かされて唇が近づいてきて――
「ッいや! ッやめ……! 放して!」
近づいて重なろうとしてくる影に、体の奥底から悲鳴が上がるような拒絶感が湧き上がって来た。触れられたところからふつふつと感じていた嫌悪の気持ちも同時に爆発し、気が付けば男を突き飛ばしていた。
護衛はリュカのよりもはるかに体付きがたくましく鍛え上げられているはずだが、まさかリュカが全力で抗うとは思ってもいなかったのだろう。不意を突かれて突き飛ばされるままに転がり、唖然としている。
そして身をよじるようにして起き上がったリュカは、そのまま広間を飛び出していく。込み上げてくる涙と吐き気を堪えながら、それでも懸命に広間より一歩でも遠くへ行きたくて仕方がなかった。
そうして飛び込んだ自室の寝台に潜り込み、頭から毛布をかぶってリュカは震えて呼吸を整えようとする。胸を掻きむしるように喘いでも呼吸は苦しいままで、息ができない。
そんな混乱する脳裏に過ぎるのは、護衛をリュカに当然のようにあてがって満足げに笑っているオーギュストの姿と言葉だ。
リュカのことを他人に見られていると善くなるのだと言っていた。そうすれば歌声と同じような声で喘ぎ、オーギュストを愉しませるものだ、と。
(そんなのまるで……わたしはただのオーギュスト様の玩具みたいなものではないか……)
最愛の証しである服の一揃いを贈っておきながらも、人として扱われている気がしないのは何故なのか。オーギュストが言う通り、自分は王ではない誰かと睦み合うことでしか快感を得られないのだろうか。それは自分が後宮の愛妾だからだろうか? 他の者はこのような扱いなどただの一度もされていないのに?
それとも自分は飛びぬけて出来が悪いから、だからこんな扱いを受けて当然なんだろうか――考えるだけで身を焦がすような感情が湧き立ち、涙があふれてくる。
「ッは、ッはぁ……ッぅく……アルベール、さま……」
不意に口をついて出たのは、リュカを光の人と呼んで幸いを願ってくれる彼の名前。ただ一人、この後宮でリュカのことを丁重に扱い、誠実に接してくれたアルベール。リュカの胸の奥に灯りをともしてくれる彼だからこそ、リュカは睦み合うことで初めて絶頂出来たのだろう。
「それはきっと……アルベール様がオーギュスト様と全く違うからだ……」
口にする言葉も、触れてくる手付きも、向けてくる眼差しでさえすべて違う。アルベールは、リュカをリュカとして扱ってくれるただ一人の光だ。他の誰でもない、彼だけがリュカを本当に光に導いてくれる特別な存在なんだとはっきりとリュカは悟った。
「アルベール様……逢いたい……」
祈るように、願うように呟いた言葉は、涙に濡れた毛布の中に沈み込んでいく。届かないままの祈りの言葉は、やがて涙に濡れて重さを増していくばかりだった。
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