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第五話

 護衛と睦み合えというオーギュストの命令に背いてからのリュカの日々は惨憺(さんたん)たるものだと言える。  まず、明らかにオーギュストの態度が冷たくなったのだ。それまでも決して寵愛を受けていたとは言えない立場ではあったが、それでも名を呼び、声をかけてくれることはあった。衣装を用意してくれたこともあった。だからこそリュカも礼を尽くしていたのだが、あの晩以来オーギュストはまるで視界にリュカなど見えていないように振舞うようになったのだ。 「なにか飲み物を持ってこい」 「は、はい、ただいま……」 「こちらをどうぞ、オーギュスト様」  リュカの目の前で何か些細な用事を言いつけるのだが、リュカが動こうとすると阻むように他の愛妾が割り込んでくる。それをオーギュストは咎めもしない。押しのけられるように除けられ、リュカは広間でも小さくなっているしかない。  うつむいてたたずむリュカに対し、それを見ている愛妾たちはいままで以上に冷ややかな目を向けてくる。 「厚かましいよねぇ、オーギュスト様の求めには応じない上にご命令にも背くなんて」 「どういうつもりでここにいるんだろうか? ただ飯食いは目障りなだけなのに」  聞こえよがしに囁かれる陰口は、きっとオーギュストにも聞こえているに違いない。もちろんそれに対しても何の咎もなく、リュカは針に(むしろ)に座っているような心地だ。  王命に背いてしまったのは、自分の落ち度だ。しかし、どうしてもあの時アルベールでない他の誰かに触れられることも、肌を合わせることも耐えがたい苦痛だった。もしあのまま命じられるままに従っていたらと思うと、リュカは腹の底が冷える思いがする。  もしあのままあの男とまぐわっていたのなら――きっと自分はいまここにいられないほど心も体も壊れてしまっていただろう。それだけは、確かだ。  自分は間違っていない。何故なら自分にとっての特別はオーギュストではなく、アルベールだと確信してしまっているから。 (でもそのアルベール様は縁談があるだろうから、もうお会いできないかもしれない……それでも、私はあの方を想い続ける)  それだけをたよりにして、リュカはなんとか針の筵のような環境に身を置きつつも平静を保とうとしていた。まさにアルベールの存在こそがリュカの希望の光だからだ。  大丈夫、何があろうとも自分はここで生きていくしかないんだ……そう言い聞かせるように小さく拳を握りしめていると、「おい、なぜここにいる」と、不意に声をかけられた。  顔を上げた先には、酷薄な笑みを浮かべるオーギュストがじっとこちらを見つめている。冷たく、まったくのぬくもりを感じられない笑みに、リュカはぎゅっと臓腑が縮まるような思いがした。 「あの、えっと……オーギュスト様の、おもてなしに……」 「私の命令に背くようなお前がか?」 「…………ッ」  どう見ても先日の件を許しているように思えない言葉に、リュカはどう答えれば良いかわからず言葉に詰まってしまう。後宮とは言え、王命に背いている事態は重く、許されることではないからだ。 「……先達ては、大変申し訳ございませんでした。少し、気が動転してしまいまして……」 「では、正気ではなかったというのだな?」 「えっと……なんと言いますか……」  正気であったからこそ、あのような拒否反応が出たのだろうと、いまになっては思える。しかしそれがオーギュストをはじめとする後宮の人間に通じるのだろうか。ここではオーギュストの言動がすべてなのだから、それに逆らった者の方が咎受けるのが道理なのだ。  それを改めて問われているのに、リュカはオーギュストの言葉にうなずくべきか否かに迷いが生じる。いまここで首を縦に振ってしまえば、何か取り返しがつかないのではないかと思えてならないからだ。  ジリッと責めるような視線を受けて気持ちばかりが煽り立てられていく。自分は間違っていないと思うのに、本当にそうなのかと問い詰めるに向けられるオーギュストの眼差しが痛みを生じさせる。  息苦しさを覚え、小さく息を吐いたその時、「もうよい」と冷めた声が響く。 「お前はどうも私に思うところがあるようだな、ルシアン。そしてここがどのような場所であるかも理解していないようだ。気が動転していた? そんなことで私が納得するとでも思っているのか?」 「……オーギュスト様?」  長椅子にくつろぐオーギュストが傍らにたたずむリュカを見上げる。その視線は冷たく射貫くように鋭い。喉元に(やいば)を向けられているかのような心地がしているリュカに対し、オーギュストは更にこう命じてくる。 「お前には反省が必要なようだな。正気ではなかったというのならなおのことだ。しばし部屋にこもっておれ」  つまりは自室に謹慎(きんしん)せよということなのだろう。オーギュストの声を合図にリュカの周りには護衛が二人歩み寄り、あっという間に水差しを取り上げられてしまった。そして半ば引きずられるようにして広間から連れ出されていく。 「二度と私の(めい)に背く気など起こさぬようになるまで、出てくるな」  弁明をする隙も、説明を受ける間もなくリュカは自室へと連行されていく。部屋に辿り着き、床に投げ出されてようやく、オーギュストが相当に怒りを覚えていることを改めて実感させられたのだ。  愛妾らの部屋の鍵は外からしか開けられないようになっている。そのため鍵をかけられてしまったリュカは、自らの意思では部屋を出ることが許されなくなってしまったと言える。  固く閉ざされた扉は厚く強固で、壁のように立ちふさがっている。それはまるで世界から背を向けられて拒まれているように感じられた。 「そんな……わたしはそんなに憎まれなくてはいけないのか……?」  自分に対して無茶苦茶なことばかりを命じるオーギュストの意図がわからない。だからこそ余計にアルベールの存在が恋しくなる。あの声が紡ぐ言葉に触れ、暗く沈む胸に灯りをともしたい。でもいまは、部屋の外に出ることすら叶わない状態だ。  高くそびえるように立つ扉を前に、リュカは床にうずくまるようにしてうな垂れるしかなかった。  それからどれぐらい経っただろうか。はじめこそ扉を叩いたり声を上げたりして開けてくれと請うてみたのだが、返事すらない。人が扉の向こうに立っている気配は薄っすらするのに。  頑なにリュカの求めには応じるなというオーギュストから厳命されているのか、馴染みの侍従を呼んでも答えがなかった。  リュカたち愛妾の部屋には、高い位置に小さな窓しかない。脱走を図らぬようにしているのだろう。そこから窺う空は青く澄んでおり、どうやら今は日付が変わった昼間、恐らく午後ぐらいだと思われる。  数時間前に食事を運ばれてきたが、運んできた侍従は扉のわずかな隙間から押しやる風に差し入れるばかりで、こちらから話しかける隙もなかった。自分はこれからどうなるのか、オーギュストは何か言っていないのか、それすらも知ることができない。 (オーギュスト様は、反省が必要だと仰っていた。正気を取り戻せ、と。だから私はここに閉じ込められているのだろう)  それは一応の理解はしているが、問題はその先の処遇だ。一体いつまでここに閉じ込められていて、それが終わってからリュカはどういう扱いをされるのだろう。たとえ正気とやらになったとして、オーギュストがリュカをどう扱う気なのかは全くわからない。 「まさか……斬首、とか……」  王命に逆らった者に待ち受けているものと言えば厳罰だ。いくら愛妾とは言え、爵位も与えられている以上それ相応の処罰が下されることは想像に難くない。そうなると真っ先に浮かぶのは斬首、もしくは絞首と言った死を持って償わされる刑だ。  想像すると背筋が凍り、ぎゅっと手足を握りしめて耐える。本当に、このまま殺されるのを待つしかないのだろうか。ようやく、ろくでもない日々ばかりだった自分の胸に、やさしく灯りをともしてくれるような特別な存在の大切さを知ることができたというのに。  死を持って償えと宣告されるかはわからないが、とにかく今のリュカの命はオーギュストの機嫌ひとつで如何様にもなってしまうということだ。後宮の愛妾である以上、こういった王の機嫌に左右される存在では元々あるとはいえ、その中でも抜きんでてリュカの現状は弱くもろい。  仮に命は奪われないのだとしても、いま以上の苦境に追いやられることは容易に想像できる。下手をすれば、それこそ城外の売春宿に売り払われる可能性だってなくはないのだ。  ここにいても、次という機会は自分にはもうないのかもしれない――そこまでの結論に至った途端、きゅっと心臓が締め上げられるように痛んだ。 「……逃げなくては。ここにいたところで、死を待つだけだ」  呟きは自身を奮い立たせる決意となって響き、リュカはスッと立ち上がる。部屋を見渡しても出入り口である扉の向こうには護衛が配置されており、他には容易に手の届かない位置に設けられた小さな窓しかない。  正面からここを突破することはリュカにはきっと不可能だ。ならば残された手立ては――そうして見上げた窓をにらみ付け、リュカはただちに準備に取り掛かった。  寝台のシーツを縦にちぎり、結んで長い紐状にする。それからその片方の端に食事の時に添えられていた水差しを結び付け、リュカは立ち上がった。  部屋の窓は明り取りと換気用のもので、ガラスは嵌められていないはずだ。その向こうには何があり、そもそもどれほどの高さがあるかはわからないが、ここから抜け出すしか方法がない。 「上手くいってくれ……!」  祈るようにしてリュカが水差しのついた紐を高く放り投げると、うまい具合にそれが窓の外へと消えていく。途中何かに当たるような音が聞こえ、紐を引くと引っ掛かりを覚えた。  だらりと窓から下がった紐を辿るようにして、リュカは懸命に這い上がっていく。壁に足をかけ、時折手でつかむようにしながら、時間をかけて一歩一歩上を目指していき、やがて窓の縁に指がかかった。 「ッえい……ッしょ、っと」  窓は思っていたよりも大きく、なんとかリュカが屈めば外に出られなくはない。外を見ると先程の水差しは壁に設けられた国旗を掲げる突起に引っ掛かっているのが見えた。  高さは人の上背の倍ほどはあるが、飛び降りられないことはない。幸い下は土のようで、ケガの心配もないだろう。  辺りはいつの間にか夕暮れ時を迎え、闇が広がり始めている。これならば闇に紛れて城を出ることができるかもしれない。  あとはひと息に飛び降りるだけ……そう、リュカが窓枠に手をかけて身を乗り出そうとしたその時だった。 「ルシアン殿! 何をされているのです!」  どうやら夕方の食事を運びに来たらしい侍従が部屋に入ってきたようで、リュカが窓に上っている姿を見咎められてしまったのだ。しかもまだ昇ってきた紐は垂らしたままで、リュカはそれを手繰り上げる暇もなく、慌てて窓枠を蹴って飛んだ。 「誰か! ルシアン殿が脱走を図った!!」  背後で侍従が騒ぎ立てる声がするのが聞こえたが、停まってなどいられない。一刻も早くこの場を離れなくては。  よろけつつもどうにか地面に降りたリュカは、ホッと息をつく間もなく走り出した。後宮は王宮の奥に位置しているため、向かう方向次第ではより多くの人に出くわしてしまうだろう。  ならば、とリュカは後宮の裏手へと回る。そこは深い森が広がり、明かりすらない。身を隠すにはもってこいだろう。  とにかく今は遠くへ行かなくては。その一心でリュカは全力で走る。しかし背後からは遠くこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえ始めていた。 「探せ! 栗色の髪に緑の目の若い男だ!」 「見つけ次第後宮に引っ立てていけ!」  リュカを探す声がかすかにあたりに響き、リュカの足が速度を上げていく。室内から裸足のまま抜け出したため、舗装されていない剥き出しの地面に落ちる枝葉が容赦なくリュカの足を傷つけていく。それでも構うことなく走り続け、やがて追手の声は聞こえなくなっていた。 「ッはぁ、ッはぁ……どこへ行こう……とりあえず、ベルニエの家へ……」  そう呟きながら足をベルニ絵の屋敷のある方角へと向けて駆けだしていく。方角としては森を抜けて西へ向かえばいいはずだ。  しかし駆けていく内に、ふとリュカは後宮に入った当時のことを思い返した。  元より自分は父の庶子であり、養子として引き取られたがベルニエの家で居場所があったとは言い難い。なによりベルニエの両親はリュカが後宮に入ったことで多額の支度金を得られて喜んでいただろう。 そんな彼らが、リュカが王の不興を買って命が危ういかもしれないから脱走してきたと知ったところで、果たして屋敷に入れてくれるだろうか。 「……あの父上と義母上(ははうえ)が……わたしを受け容れてくれるはずが……ない……」  ならば他の親戚の家や知人の家があるのかというと、社交界にデビューできないままに後宮入りしたリュカにそんな伝手があるわけがない。  改めて突き付けられる現実を前に、それまで駆けていたリュカの足がのろのろと停まっていく。  親戚や知人はおろか、家族すら自分を歓迎してくれない。そんな現実に気付かされたリュカは、ただ茫然と立ちすくむ。 「わたしのことは……誰も、助けてくれないのか……」  呟いた自分の言葉が胸を締め付け、苦しくなっていく。突き付けられた現実はあまりに無慈悲で、ようやくの思いで後宮を抜け出してきたリュカを絶望の淵に叩き落としていた。

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