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第六話

 頼る先がないことに気付いた途端、それまで感じなかった疲労がどっと押し寄せて足を重くしていく。まるで鉛でも付けられたかのように重たい歩みで、リュカはとぼとぼと当てもなく暗いところを歩いていた。  いまは逃げおおせているが、きっとそれも時間の問題だろう。何よりもう逃げる体力もない。底を尽きそうな体力を振り絞り歩み続けるにも限界がある。 「もう、歩けない……」  それは終わりを宣言するかのようなか細い声で、あっさりと闇に呑まれていく。辺りは森を抜けてしまったようだが暗いままで、ひと気がない。何かの建物の裏のようだが、ここは一体どこだろうか。  歩き続ける体力すらなくなり、リュカは暗がりにうずくまり膝を抱える。そうしていると幼い頃に屋敷の裏で一人文字の勉強をしていた時のことを思い出す。いまの孤独は、あの時よりもうんと深く暗い。  本当に、自分はこの世界でひとりぼっちなのだろうか。誰ひとりとして味方もなく、頼れる先すらない。これからどうやってどこで生きていけばいいのかさえ――いや、生きていけるのかさえリュカには見当もつかなかった。  そんな折に、ふと服の上着の胸元から一つの手紙のような紙を取り出す。唯一後宮から持ち出した物である、アルベールから贈られたクローバーの押し花だ。  窮屈な後宮暮らしの慰みにという口実であったが、これをもらった時は、確かにリュカは幸せだと思っていた。そしてまたいつか、アルベールとそのようなひとときを過ごせるのではと思っていたのだ。  それなのに――いまのこの状況は何と言えばいいのか。 「ッふ……ッく、うぅ……アルベール様……」  泣くなと自分を奮い立たせようと思うのだが、立ち上がることもままならないほど疲弊している今のリュカには難しい。愛しい彼の名を呟きながら、もうこのままいっそ、ここで土に返ってしまえればいいのに。そんなことすら過ぎり始めていた。 「そこにいるのは誰だ?」  うずくまるリュカの頭上で声がし、顔を上げるとぼんやりとした灯かりに人影が浮かぶ。そのぼんやりと見える姿に、リュカは息を飲んだ。  それは相手も同じだったのか、互いに目を見開いて瞠目し、見つめ合う。 「……リュカ? そこにいるのはリュカなのか?」 「アルベール様……?」 「どうしてこのようなところに……その姿は……」  アルベールに驚きを隠せない声で問われてようやく、リュカは自分の姿がとてもひどいものだと気付かされた。服は破れ、裸足の足は傷だらけで、爪が取れている所もある。ほの明るい|蝋燭《ろうそく》の灯りでさえもわかるほどにひどい姿であるらしい自分の姿をどう言い訳しようかと考えていると、ふわりとそれがアルベールの腕に包まれる。 「あ、あの……」 「なにも言うな、リュカ。とりあえず俺の屋敷へ行こう」 「ですが……」 「案ずるな、ひと気のない入口がある」  リュカは何故いまここにアルベールがいるのかもわからないまま、手を牽かれるままリュカはアルベールと共に屋敷へ向かうことになった。  アルベールの言うとおり、通された場所は屋敷の裏手でひと気がなく、誰にも会うことなく屋敷の中へ入ることができた。しかも通されたのはアルベールの私室らしく、そこは掃除の行き届いた清潔で書物がたくさんある部屋だった。  リュカは部屋のソファーに座らされ、アルベールが用意した洗面器のお湯に足を浸けている。小さな傷がチクチクと沁みたが、お湯のあたたかさが強張っていた心と体をほぐしていく。 「風呂に入れてやりたいのだが、家の者に見つかると厄介だからな。すまないが今はこれで勘弁してくれ」 「……いいえ、十分です。ありがとうございます」  アルベールはあたたかなミルクも用意してくれ、リュカはそれをゆっくりと飲み干していく。ようやく心が落ち着いたところで、何故リュカがここに辿り着いたのかを話さねばならないだろうと思った。しかしどう切り出せばいいかがわからない。  それでなくともアルベールはリュカが後宮の外にいることを受け容れているかのように落ち着いており、騒ぎ立てる様子もないのが不思議だ。 「アルベール様はお聞きにならないのですか? 何故わたしがここにいることを」 「聞かなくてもわかる。あなたは陛下の許から逃げ出したのだろう? 先程城から捜せという命令が下ったからな」  やはりそういうことであったのか。だからリュカがうずくまっていた所を探しに来たのだろうし、特に今ここにいることを問詰めてくることがなかったのだろう。それを温情と受け取ってよいのかはわからないが、いまは責められないことが有難くはあった。  だがそれも、リュカの逃走の理由を聞けば崩れてしまうかもしれない。想像するだけで胸が苦しくなり、リュカはうつむく。 「どうして後宮を逃げ出したのか聞いてもいいか、リュカ」  リュカの傍らに座り、そっと手を重ねながらアルベールが訪ねてくる。温かで大きな手に触れられることをあれほど焦がれていたはずなのに、いまはただ苦しさを増長させていく。  何故ならリュカが後宮を抜け出したのは、アルベール以外の男と関係を持たされそうになったからで、その根幹にあるのは彼への思慕があるからだ。  そんなことを、いまここで伝えるわけにはいかない。そうしてしまえばきっと、アルベールでさえもリュカの味方ではなくなってしまうかもしれないのだから。 「……お聞きしたらきっと、あなた様はわたしを軽蔑なさいます」  リュカがそっと目を反らしながら答えても、アルベールは手を放すことも席を立つこともなかった。それどころか強く手を握りしめ、引き寄せようとしてくる。その強さに思わず顔を上げると、深い闇色の目が痛みを堪えるようにゆがめられてこちらを見つめていた。 「あなたのどんな話でも、俺は聞きたい。あなたの身に何かが起こったのであれば、俺はすべて知りたいんだ」  言葉に比例するように指先を握りしめてくる力が強くなり痛いほどだ。しかしそれがリュカにとっては後宮での出来事を打ち明けられる唯一の安心材料にもなる。  それでも一瞬本当のことを話すべきか迷う。オーギュストにされたことは、口にするのもおぞましい事ばかりなのだから。  ためらいうつむいていると、「リュカ」とアルベールに名を呼ばれ見つめられる。そのあたたかな眼差しは久方ぶりにリュカの胸に灯りをともし、ためらいは次第に溶けていった。 「……陛下に、アルベール様ではない男性と、目の前でまぐわえと言われました。その方が、わたしが良さそうだからということで……」 「な……もしやそれであなたは……」  リュカの告白にアルベールは言葉を失う。顔色が一気に気色ばむが、それでも感情のままにならないのがアルベールの胆力なのだろう。そのことについても、リュカはオーギュストとは大きく違うと実感していた。  アルベールの怒りを鎮めるかのようにリュカは首を横に振り言葉を続ける。 「でもその方とはどうしても出来ませんでした。陛下の言うとおり、わたしは陛下と夜伽ができませんから、他の方と致せと言われるのは仕方のない事なのに……」  怒りにかられつつも、アルベールは黙ってリュカの言葉を聞いていた。グッと黙り込み、まとう気配は怒りすら(はら)んでいるように感じられる。真面目な彼のことだから、王命に背くような者など許しがたいのかもしれない。  だからリュカは努めて明るく微笑み、こう告げた。 「わたしは、愛妾としてもはや後宮にはいられないと思います。きっともう追い出される、命令に背いた罰を受けることになるでしょう。ですからアルベール様……わたしを、城に突き出してください」 「……なに?」 「わたしを捜せと命じられているのですよね? それならば一刻も早く城に報告の使いを……」  アルベールがリュカを突き出せば、きっと誉れをもらえるだろう。先日の縁談に花を添えられてちょうどいいかもしれない。そんなことをリュカは考えてはいたが、その実、心が氷のように冷え込んでもいた。このまま本当にアルベールがリュカを城に突き出してしまえば、それこそ今生の別れになるだろうことは想像に難くないからだ。 (でも想い焦がれたところで、わたしがアルベール様と結ばれることなんて万に一つもない。だから、これでもう終わりなんだ)  涙があふれそうになるのを必死にこらえて微笑みかけているリュカに対し、アルベールはさらに強く手を握りしめて答えた。 「そんなこと、絶対にしない。あなたをあの男の許に渡すなど、絶対に」 「……アルベール、さま?」  王であるオーギュストのことを「あの男」と言い切り、絶対にリュカを渡さないと答えたアルベールの目は、未だかつてないほど怒りに満ちている。燃えるようにふつふつとした怒りを湛えた目は、リュカを見つめて涙を浮かべている。  何故そんなことを言うのだろう。自分は王に逆らったただの愛妾でしかないのに。まるでリュカが特別なものだといわんばかりの言葉と振舞いに、リュカは戸惑いが隠せない。 「アルベール様、何故そのようなことを。いけません。さあ、私を城に」 「あなたを傷つけてないがしろにするあの男の許になど、絶対にあなたを渡すわけにはいかない。いまあなたが城に帰れば、最悪命を取られかねないのだから」 「でもわたしは、オーギュスト様の機嫌を損ね、命令に背きましたから。当然の報いです」 「そんなはずはない! あなたはあの男に何もかも奪われて良いのか? 自分という人間を踏みにじられ、粗末に扱われて、それでよいのか?」 「……アルベール様」  力強く問われ、リュカが目を見開き唖然としている。しかし同時に、目の覚めるような思いもいだいていた。長く重く蓋をされてきた感情が、急に明るい場所に引き出されたような驚きにも似た感覚だ。  アルベールという人間と出会えたことで、リュカは胸に灯りが点るような幸せを知った。それはうつむきがちに生きていた自分を前に向かせ、生きていくための糧となっていったのだ。  だがそれは、オーギュストの傍にいればたちどころに踏みにじられてしまうのも事実で、だからこそ耐えかねて飛び出してきたと言える。 「あなたはルシアンではない。リュカ=ベルニエ、ただ一人の俺の光の人だ」  光の人とはっきりと呼ばれたことで、リュカの中にあったオーギュストへのためらいが完全に消し飛んでいた。相手は王で(あるじ)だから、どんな命令にでも従わなければならない。たとえそれに愛情を感じられなくても、リュカはそういう存在なのだと思い込んでいた。その考えが、それこそ光にかき消されていく。  掻き消された感情のあとに残されていたのは、まっさらな、生きていきたいという純粋な想い。 「……わたしは……オーギュスト様の許に帰りたくない……帰りたくない!!」  アルベールの言葉に引き出されるように心の奥底から湧き出た本当の言葉。それに共鳴するように、涙があふれてくる雫をアルベールがそっと拭う。 「帰らなくていい。出来ることなら……ずっと俺と共にあってくれ」  そう告げられた瞬間強く腕を引かれ、リュカはアルベールの腕の中にいた。熱く苦しいほどの抱擁を受け、押し出されるように頬を涙が伝っていく。  リュカは生まれて初めて受ける心からの熱い抱擁を感じながら、あふれる想いを流れるままにしていた。

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