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1章(1)

1章 カルムーニュ 甘い香りが涼やかな風に乗せられてきて鼻腔をくすぐる。 慎ましさを持ちながらも、訪れた人々の視線を一度は奪う鮮やかさで大地を彩る花々を視界に入れながら、ひとつ息を吐き出した。 純朴な愛らしさを感じさせるのは、その花びら一つひとつが控えめだからだろう。蜜をいそいそと運ぶ虫たちや、通りがかる人々の目を引くために花びらを大きく開かせるものとは違い、そっと見守っていたくなる小ささである。人工的に弄られた様子はなく、本当に自然が育て上げたのだと分かるのは、同じ場所に咲いていて大きさも色も揃えられていないためだ。中には偏った歪な形の花もあり、これらが商業として利用されていないことをよく表していた。 小さいながらも、集落としては機能している。 とある所用で足を運んだ村に対する第一印象はそんなところだ。 今まで見てきたどんな村よりも小さくひっそりとした…端的に表すなら真実田舎ではあるが、ひとつの単位として形を成している。豊かな生活は望めないものの、この村で生活していくには十分なのだろう。元からその生活以外のものを知らずに生きているし、大きな病が蔓延して人々が死ぬこともない。大災害に襲われた記録も残されていないことから、人々の生活は豊かであると表現するに値するものだという印象を受けた。 他地域とは異なり水資源も確保されていることから、井戸水も綺麗なはずだ。この村から水を介した疾病が報告された例はない。 決して財にも物にも恵まれていない。しかし人々の生活には潤いがある。 ただひとつ言えるのは、豊穣の村であることだ。 人々が誰もそれを商売として発展させていくことをしないため、あくまで自分たちの生活を送るためだけの用途として利用されているようだ。きっと、穀物や果実類を市場に売り出せば良い値で取引ができるだろう。それほどに、この村の作物は品質が良く美しかった。 「男前な兄さんと綺麗な姉さん、ほらほら持って行ってくれ。今採れたばかりだ」 道を歩けば、見知らぬ顔だと陽気に話しかけてはまるで古くからの知り合いであるかのように、採れたばかりの果実を気軽に手渡してくる。 声をかけられた旅人は小さく笑み、ほんの少しだけ困ったように眉を下げた。村の男の、土で汚れた手が持つ果実は丸々としていて豊富な実を蓄えているのだろうと思わせる。 「ありがとう。しかし、そんな良いものに返せるものを持っていません」 「いいんだいいんだ。こんな所まで若い人らが来てくれた礼さ」 「それなら、ありがたく受け取っておきます」 気にするな、遠慮するなと言いながら、見ず知らずの人間が、口に入れる物を与える。そして、それを受け取る。この村では常日頃から行われている一種のコミュニケーションでもあるのだろうが、他の地域では信じ難い交流のひとつだろう。渡された物に、毒物が混入しているのではないかと疑う必要性を、村人は知らない。そうした危機に瀕した経験が一度もない証であった。 また来てくれよ、という言葉を背に聞きながら隣を歩く女にタンジェロを渡す。文句を言うこともなく、それが自然であるかのように、女は黙ったまま村人から贈られた果実を丁寧に布で包んでいく。 村といっても密集しているのはごく一部で、恐らくはこの村の中枢となっている部分だ。役場、村人同士がささやかな金銭や物でやり取りする市場、小さな宿、警備隊の駐在所…そのくらいだろう。 他の民家は目に映るだけでも数カ所に点在しており、遠いものは目に映すことは不可能な距離にまで位置していることが考えられた。 土地の所有で争うこともないほど広大な農地を有しており、皆が各々明日を生きるための食物を育てているのがうかがい知れる。 静かな、本当に平穏な村である。だが、人々の声は途絶えない。 この村ではひと際大きな家にあるライラックの花の下に数人が集い、花の良い香りを楽しみながら会話をしている姿が目に映る。 時間という概念があまりないのかもしれないとも思ったが、農業をするうえで必要な点は熟知しているのだろう。急いで生きている人間は一人としていない。自然に流れゆく時間の中を、抗うことも先行することもなく生きていた。 「静かだが活気はあるな」 紅柘榴石のような、赤みがかった紫色の瞳が広く村を見渡した。 形の良い唇が静かに動き、言葉が紡がれる。発せられる声は成人男性らしく芯の通った中低域のもので、女性を虜にするような魅惑的なものだった。 「品のない騒々しさよりずっと良いです」 しかし、隣を歩く女性はその声に魅了されることなく、独り言のように呟かれた言葉を正確に聞き入れては表情を変えずに返した。 そのことを特段気にすることもなく、男はふ、と小さく笑って──やや皮肉交じりではあるが──艶やかな瞳を細め、視線を流して己が隣の位置を陣取る女性を見る。 「カルディアは下品で煩わしいということか」 「カルディアとは言っていませんが、そう仰るということは同じお考えなのでは」 「俺もカルディアがそうだと思ったとは言っていない」 まるで子どもがするような屁理屈を並べるものの、いつどのような状況下においても冷静沈着の格好を崩さぬ女性はそれ以上何を言うでもなく、男と合った視線を外した。 視界に広がるのは、麗らかな春の陽気のもとで咲き綻ぶ花々と村人の笑顔である。時折聞こえてくる鳥のさえずりや虫の声は自然の中でこの村が生きていることを示している。科学技術が発達した他の地域では、決して身近には感じられない自然の音だ。人工的な物音に遮断されてしまう自然の声を、この村の人々は当たり前のように耳にしていた。 「良い村ですね」 言いながら、先ほど貰ったタンジェロとは別の、村に足を踏み入れてすぐに地面に座り込みながら麦酒を片手に陽気な歌を口ずさむ男から受け取ったハスカップの実を指先で撫でる。形は綺麗とは言えないものの、豊富な実は新鮮さを持ち合わせていた。 ここの村人は、損得など何もなしに物を与える。ただただ歓迎の印だと言わんばかりに、見返りも求めることなく見慣れない若い訪問者に手土産を持たせるのだ。 そんな様子を気配で感じ取りながら、男は大して興味を持つこともなく聞き返す。 「お前はどこでそれを判断した?」 「私の個人的な感想ですのでお気になさらず。弟が、こうした景色を好んでいましたので」 「本来なら、こうして人は生きる方が幸福ではあるだろうな」 だが、と男は言葉を続ける。 「俺には合わん」 「そうでしょうね」 否定することなく、男の言葉に同意を示す。 涼やかな春風に、女性の輝かしいプラチナブロンドの髪が揺れた。後ろでひとつに纏めた髪は決して崩れることはない。そうした些細な身だしなみの一つひとつから、彼女が清廉潔白な精神の持ち主であることが分かる。 「あの国で生きているから感覚が麻痺してしまいますが、これが自然な姿ですね」 語調とは反対に、彼女は同意を求めてはいなかった。 「この村にはきっと、アルファもオメガも一人としていないでしょう」 「アルドヘイムは遺伝子操作でアルファに寄せた人間を生むからな、自然と人口も増える」 「異様ですね。しかし……オメガを生み出すことは、何故できなかったのでしょう」 控えた声で呟いたのは、何も後ろめたいわけではなかった。 恐らく耳を立てている者など、この村にはいないだろうがそれでも声を大にして言えるような話ではない。自分自身の話題ではないものの、声を潜めるのは当然のことだった。 「人工的に産めるのなら、彼らが不当な扱いを受けることもなかった」 カルディアを首都とするアルドヘイムと呼ばれる国は、世界で有数の魔術大国である。 魔術を扱う人間を多く有する国であると同時に、本来なら相容れぬ分野である科学技術も発達の途を辿っていた。それゆえに、遺伝子に介入する技術の開発も数多く繰り返されている。その主たるものが、この世界において三つに分類される性のひとつ──最も優れている種だと謳われるアルファを人工的に生み出すことだった。 そんな背景を熟知している男は胸を痛めて顔色を変えることもせずに、淡々と事実確認をするかのように女性に言葉を返した。 「オメガの立場を不当と扱うか」 「アルファと番になりたい人間がオメガになれる方が、あの国では生きやすい。連れて来られて逆らえぬまま番にされるよりも、ずっと」 「それは同情か?それとも───。レティ、こちらへ。日に焼けてしまう」 声を一変させ、まるで愛おしい恋人へと向けるような声色と気遣いの込められた言葉を口にした男に、女性は動揺することなくひとつ頷いて笑顔を見せた。彼女の表情もまた、先ほどまでとは打って変わり隣を歩く男に花が綻んだような柔らかな微笑へとなっている。 男が手を差し伸べれば、彼女は訝しむこともなくその手を取った。 指先まで神々に愛されたかのように美しい作りを持った男が日陰の内へと女性を引き寄せる。 「ええ、ありがとう。でも昔と違って、今はもう元気ですもの、そんなに心配しなくても大丈夫よ?ここは日の光も強くないから、きっと大丈夫」 言いながらも、引き寄せられるがままに太陽の光を避けた影へと身を滑らせれば、肌寒さに少しだけ皮膚がわざめくのを感じた。この村は、気候が温暖ではあるもののどうやら気温は上がりにくいようだ。それを証明するかのように、すぐ目の前の商品棚に並べられた果物の中に熱帯地方で度々目にする種類のものは一つもない。 「君の美しい肌が損なわれるのは許し難い」 「本当に綺麗なお方!ちゃんと被っておかないと後で痛くなっちまうよ」 陽気な声が男の声に続いて発せられるのを聞いて、女は肩の力を抜いた。 男が突然ころりと態度を変えて、村の中にある質素な店へとわざわざ寄って行ったのは人当たりの良さそうな店主の接客姿が目に入ったためだ。案の定、三十半ばほどの歳の女性は、ヴェールに覆われた前髪を指で払いながら笑顔で声をかけてきた。ほんの僅かに白色のヴェールが土で汚れているのは、女性自ら並べられた果物を採ってきたからに違いないだろう。 そんな様子を視界に収めながらも、声をかけられた女性は首を傾げ無害を装いつつ尋ねた。 「痛くなる?」 「日に焼けると大変だよ。ほら、これを被って被って」 そう言いながら店の女主人が差し出してきたのは少し年季の入った薄紫色のヴェールだった。 視界を遮ることのない、それでいて日差しを和らげることができそうな造りをした布を手に受け取りながら、彼女はまず「ありがとう」と礼を口にする。 二十代の、めかしこみたいと色めく若い女性には強く推奨できないような地味な色合いと、飾りの一つもないヴェールではあるが文句を言う気持ちは少しも沸いてこなかった。 「用事が終わって陽が沈んだら、綺麗にしてすぐにお返しします」 「いいよいいよ。村に来た記念に貰っていっておくれ」 「そんな…そこまでして頂くわけには」 「主人はわたしにそんな色似合わないって言うし、貰ってくれた方がわたしもありがたいのよ」 歯を見せながら陽気に笑う女主人に半ば押し付けられる形で受け取ったヴェールを、女性は丁寧に両手に乗せた。 男はそれを繊細な手つきで女性の手から奪うと、彼女の頭を覆うようにヴェール被せた。見ていた女主人は更に顔を綻ばせ、大きく二度頷く。 「素敵ねえ。うちの主人にもそのくらいの優しさがあればいいんだけど」 愚痴を零すとそれを聞いていたのか偶然のタイミングなのか、店の奥から…恐らくは主人であろう男が歩み寄って来て姿を現した。恰幅の良い主人の顔つきも柔和であり、ここの村人はみな気性が穏やかなのかとふと考える。 金色の髪が薄い膜に覆われたのを確認してから、男は女主人と目を合わせて尋ねた。 「ここの方は、みんなヴェールをつけていますね。日照時間が短いことと関係しているのですか」 二人が訪れたカルムーニュ村は、東のさらに奥、険しい山地と深い森に囲まれた谷あいの小さな村である。 街道は未整備の細い道が一本あるだけで、雨で泥濘化して通行困難になることもある。そのため、村の外から観光客がやってくることは珍しいものなのだろう。 日照時間が短く、年間を通して気温差が少なく過ごしやすい。降雨にも恵まれているため湿度も保たれ、作物も豊かに実る。温暖気候帯に位置しているため四季はなく冷涼な地でしか育つことのできない作物には不適合な土地でもあるが、それを上回る穀物や果実の生産量がある。 日頃から太陽光を受けることが少ないためか、またはそうした肌へと変化していったのか、彼らは常にヴェールを纏って外を出歩いていた。成人男性は身に着けている者の方が少ないが、女性や未成年と思わしき村人はみんなそれぞれのヴェールを着けている。 「そうさ。太陽にそんな強くないからね、農作業する時は別だけど、ずっとこれつけてないと肌が弱っちゃうのよ」 「男は気にしないけど、女子供はつけとかないと。──ところでお兄さん方、こんな辺鄙な所まで観光かい?」 辺鄙な所と称されるカルムーニュ村には特に目立った観光資源はなく、物流経路に当たることもないため流入人口は他地域や都市群と比べると圧倒的に少ない。しかし、温暖な気候と採れる作物の豊富さ、天災に見舞われることが過去にないことから他地域への流出人口も多くはない。もともと、この村で生まれた者は財にも余力がないことからどこか他の場所へと住居を移すことすら難しいのも理由のひとつではあるだろう。 景観が美しいと密かに人々の話題には上がることから、わざわざこの地に訪れる外部者は少なからずいる。それでも妙齢の婦人や働き盛りの色っぽい男が訪ねてくることは滅多にないため、今日のように若い男女がやって来たという事実は村人たちの好奇心を大いに刺激した。 都会では馴れ馴れしい、マナーがなっていないと険しい顔で一蹴されてしまうような距離感で話しかけては次々に質問をしてくる女主人に嫌な顔一つせず、女性はそっと微笑みながら答える。 「ええ。二人でここまで来てみました」 「新婚旅行ですか」 「そんなところです」 肯定すれば二人の表情が更に明るくなった。 若い美男美女が村にまで新婚旅行で訪れることなど過去には一度もなかったのだろう。珍しい外部からの客人に対してもてなせるものを用意できない分、言葉だけは多く交わして楽しませようとしてくれているのかもしれない。 「何もこんな所まで来る必要なかったんじゃぁ?お二人さん、大都会から来たんじゃないか?」 「確かに大きな街ではあります。よく分かりましたね」 「見慣れぬ顔は目立つ。もしヴェール被ってたとしても、あんさんが美丈夫だって分かっちまうさ」 世辞ではなく本心から出てきた賛辞の言葉だろうが、都会からやって来た男にとっては聞き慣れたもので、主人の言葉に胸躍ることもない。しかしそれでは愛想悪い客人だと思われてしまうため、男は小さく笑んで「そんなことはない」と慎ましい言葉を添えておく。そんな、決して驕らない態度が更に気に入ったのか、店の夫婦は笑顔で次々に話しかけてきた。 「たまには田舎に行ってみよう、ってか?」 「妻は元々あまり身体が強くなくて。ここは過ごしやすくていい、湿度も温度もちょうど良くて」 「それだけが売りですからねぇ。なるほどなるほど、そりゃぁこの村に来るのは正解だ。都会は空気も汚ねえって聞くしなあ」 妻、というのも身体が弱い、というのも事実とは無縁の設定ではあるが状況が状況であるため致し方ない。情報を集めたい時に自分たちの素性を正直に明かしていては手に入れられるものも手に入らない。 現に、病弱気味な美しい妻と…妻の体調を思いながら、わざわざ都会から田舎の村へまで足を運ぶ美丈夫という組み合わせは、温和な村人たちの口をよく滑らせた。 「静かに過ごしたいのですが、宿はそこの一軒でしょうか」 「ええ、ええ。すぐ目の前のとこですよ。たまに観光客が来るだけだからいつでも空いてて、夜になるとみんな集まっちゃあ、酒飲んで……」 村外からの客が来なければ宿は村人たちのために解放されるのだろう。その場ではきっと、年齢も性別も問わず皆が陽気になって酒を飲み交わすことができる。きっちりとしたサービスを提供することを求められる街と明確な違いがここにもあった。 中途半端に途切れた言葉の先を急いで促さずとも、主人は顎に指を添えながら悩んだ末に続く言葉を口にした。 「いや、最近はよく外からの人が来るから、聞いてみないとわかんねぇな…」 予想外の主人の発言に男が一瞬だけ瞳を細めた。その高貴な色を持った瞳に剣呑な光が走るのを見たのは、『病弱な妻』ひとりだけだった。 夜色の艶やかな黒髪が爽やかな風に弄ばれるのも気に留めず、気にかかった単語を聞き返す。 「よく来る?」 「キチッとした服着たお人らが来るんですわ。村長さんの知り合いかとは思うんですけどねえ」 「……隣の村とかではなく?」 「隣村の奴らの顔なんて覚えてますって。それに、あんな綺麗な服着てるはずありゃしない」 村人たちは貧困に喘いでいるわけではないが、決して莫大な富を抱えているわけでもない。ひっそりと慎ましく生活していくのに苦しまないだけで、身なりは質素なものである。装飾品など、生きていくのに必要なヴェールや結婚指輪など最低限のものだけで、華やかな衣装などひとつも持っていないと考えられる。あるとすれば、村で催される小さな祭り事の時に着るような特別な服だろう。 そんな村の中に、都市群で生活しているような身なりの者が入ってくれば、何をするでもなく目立つのは必須である。観光客を装っていないとすれば尚更だった。 「私たちのように気楽に旅行に来ているわけではなさそうです。彼らは何をしに来ているのでしょう」 それとなく正体を探ろうと口にしてみる。 こんな小さな村に、好き好んで観光に来るわけでもなくわざわざ足を運ぶのだから、相応の理由は必ずあるはずだった。それが、自分たちと同じなのかどうかを見極めることが今は何よりも優先される。もしも同様の理由で村にやって来ているのであれば、他者に奪われるよりも前に“目的のもの”を確保しなければならない。 しかし、主人は首を横に振って肩をすくめてみせた。 「さあ…。少しフラフラして、気付いたらいつのまにか村からいなくなってるんですよ」 「ここは鉱山で採れる宝石か、花くらいしか見るもんないんだけどねぇ…。あなたらと違って、いかつい顔してるもんで、こっちもやりにくいったりゃありゃしない」 村の東に位置する鉱山には原石が眠っている。主要都市ほど豊富な種類は採掘できないものの、宝石を主に商いをする商人たちにとっては喉から手が出るほど欲しい原石だろう。 そうした宝石を収集する目的でやって来ているのか、それとも別か。どちらにせよ、同じものに目をつける可能性は決してゼロではなかった。しかし、彼らが未だ目的を果たせていないとすれば、その理由は村人たちの協力を得ていないという点に限る。いかにも、という服装で友好的な態度をとることもなく突然村に押し入ってきては、村人たちは今自分たちに接しているような態度はとらないだろう。それが、彼らの動きを妨げている要因と考えるのは簡単だった。 嘘をつくことに今更罪悪感など抱かない。 やはり、こうして病弱な妻とそれを想う夫という仮面を被り村を訪れるのは、村人の情を誘いやすく決して間違いではなかった。 「宝石は加工までしているのですか」 主人の口から出てきたひとつの単語を聞き逃すはずもなく、男は尋ねた。 「たまーに、ここに寄ってくれる職人さんがいるんで、みんな集まって加工してもらってるんですわ。少しくらいなら、自分たちでもできるんですけどね」 「宝石を扱う機会は多いということですね」 宝石を手にする機会が多ければ多いほど、目的の物に当たる可能性も少しは高くなる。しかし、自分たちが求めているものは人々の間に流通するような種類ではないため、見極めるのは非常に困難でもあった。それでも、他の候補地は全て調べ尽くしてきたため、どんな些細な情報でも得たいと思うのがこの男の本心である。 独り言にしては大きなものだったため、女主人が瞳を輝かせながら口を開いた。それが男の策略であることにも気づかず、疑うこともない女主人の顔はずっと明るいままだ。 「お客さん、宝石に興味があるんです?」 「ええ。人並みに…この辺りで、珍しい宝石が発掘されると聞いて」 「数年に一度ですよ。わたしたちには価値もわからんで…」 主人が参ったように笑う。都会からやって来た綺麗な若い夫婦に、宝石の価値も分からない田舎者だと思われるのが恥ずかしかったのかもしれない。それに対して特段気にすることも声をかけることもない男に対して、女主人がにこやかに声をかけてきた。 「お宝探しなら、村長さんとこの息子が色々調べてますよ。聞いてみたらどうです?」 「おいおい、子どものお宝探しとこの方らの用件を一緒にできないだろうよ」 「でも真剣だったわ。早く調べてあげないとって。きっと良い娘でも見つけたのね」 呆れたような物言いをする主人とは対照的に、女店主は明るく言う。 「プロポーズ用の宝石ですか」 「あなたみたいな綺麗なお人なら苦労しないだろうけど、この村の男はみんな頑張って自分で宝石を採掘しに行くのよ。宝石屋なんて、この村には一つもないから」 「都会の人には関係のない話になっちまってすみません」 申し訳なさそうに眉を下げる主人に、男は人の良さそうな笑顔を向けた。誰をも魅了するような綺麗な笑みは全ての人間にできるものではない。端正な顔に生まれた者でないと、こうも完璧に整った笑顔にはならないだろう。 完璧な笑顔に加え、故意的に滲み出る人当たりの良さに完全に素敵な旅人というイメージを刷り込まされた主人らは、つられたように笑顔になった。 「いや。実は彼女にまだ結婚の印を渡せていなくて。参考にさせていただきます」 隣に寄り添う病弱の妻が視線を下げる。 そんな仕草が儚げに見えたのであろう、女主人はできることなら手伝ってあげたいと言わんばかりに宝石を探す男を後押しするように言った。 「あら、本当に?それは良かったわ、ぜひ美しい奥さんを喜ばせてあげてちょうだい。たまには手作りのプレゼントも素敵よ」 「女性からそうアドバイスを貰えると心強いです」 「他の人らにはあまり教えたくないんだけど、奥さんのために頑張るあなたには教えちゃうわ。村長さんとこの子、本当に難しい宝石も扱ってるみたい。村長さんも手に負えなくて困ってたみたいだから」 難しい宝石、手に負えない。 女主人の言う言葉を都合の良いように受け取れば、自分の目的と一致はする。しかし、そう簡単には見つからない物であることは身をもって十分理解させられていたため、胸中で同じ言葉を繰り返すだけに留めた。 あたかも女店主の言葉に励まされ、決断したかのように一度頷いてから、男は甘い笑みで目的の場所を問いかける。 「村長のご子息はどこに?」 「さっき家にいなかったんで、外れの方にある子の家に遊びに行ってるかもしれませんねぇ…」 主人の言葉を胸の内で繰り返す。 村の外れ──。 村長の息子とやらが“難しい宝石”を扱っているのであれば、息子にも用があった。宝石だけを手に入れても意味などなく、宝石の持ち主と併せて初めて価値を発揮するのだ。 「一番仲良い子のお家は、赤い屋根なんで目立つと思いますよ。家のすぐ近くに立派な井戸もあるんで。北の方の小道に沿って、菜の花畑をまっすぐ行くんです」 「レティ。旅のついでだ、少し話を聞きに行こう」 「ええ」 「息子さん、セシリオ君って言うんだけど、面倒見良い子でねぇ…もし良いところに行きたいなら、案内を頼んでみてください。きっと村中を案内してくれる」 病弱な女──レティの手を引き、男は小さな店から身を出した。細かなところまで紳士的な対応を忘れない姿に女主人はうっとりと溜息を零す。うちの旦那もこのくらいなら良いのに、と。 土や草に塗れることの多い村の男たちばかりを見ている女にとって、都会からやって来た洗練された美丈夫はあまりにも魅力的に映った。 「主人、それに美しい奥方。貴重な話をありがとうございました」 「そんな…奥方なんて。礼を言われるようなことだって何も」 「この出会いに感謝します」 「ここは日が暮れるのも早いんですわ、お気をつけて」 主人の言葉を聞きながら男は妻とともに歩き出す。二人の背が小さく見える頃には、店主たちは何事かと集まってきた噂好きの村人に話をしながら、細やかな果実を品物に商売を再開し始めていた。 村人たちの耳には一切の音が届かなくなった頃を見計らってから、男は足を止めることなく隣を歩くレティへと視線だけを向ける。 「聞いていたな。日が沈む前に、一度村の外れまで向かうぞ」 身体の弱い妻を想う、仲睦まじい穏やかな若い夫という姿は既になりを潜めており、淡白な調子で目的地を告げた。 真西の空を見上げれば、既に太陽は頂上を通過して幾分か経過している。この地域は日没の時間も早い、それをよく知っている村人たちは日が沈む前に必要な用事は全て終わらせるのだろう。村を訪れてすぐに目的物に関連した話題に触れることになるとは思ってもいなかったため、少し出遅れてはいるが自分たちの行動をする分には構わなかった。 しかし、話を聞く相手が子どもともなれば別である。 娯楽施設ひとつないこの村では、子どもたちは親の言いつけをよく守り、夕暮れ前には帰路に着いてしまうことが容易に考えられた。すれ違いになってしまう前に、村長の息子──セシリオと呼ばれた青年に会わなければならない。 「その青年が調べている宝石が例のものと?」 「可能性はゼロではない」 「しかし、限りなくゼロに近い」 あくまで冷ややかに言う。 常に冷静沈着であり、物事を客観的に捉える優秀な女は希望的観測を好まない。そのことに関しては男自身も同意しており、同一思考だった。だがこの事に関しては藁にもすがる思いでちょっとした噂話にも食いつかなければやっていけない。 これまで話題に取り上げられてきた、誰もが知っているような話の中に登場する宝石は全て調べてきた。それでも自分の求めているものは未だ見つからず、ここ数年は自分たちの地から遠く離れた場所へまでも足を運ぶようになった。 何度もハズレを引かされている自分もだが、それに付き合うこの女もまた懐疑心は強くなっている。 「そう嫌そうな顔をするな」 「生憎ですが、元からこういう顔です」 「もっと美しい顔だと認識していたが?」 「あなたのような、老若男女問わず魅了する美しいご尊顔の方に言われても心に響きません」 「なかなか手厳しいな」 「そう思われるのなら、ほいほい甘い顔で誑し込むのを控えてはいかがでしょうか」 「甘い顔に見えているのは相手側だけだ」 「そう見えるようにしているのでしょう」 「友好な関係を築いていたいからな」 友好とは、と心の内だけで繰り返す。 相手を誑かしては自分にとって良いように扱う。恋人も愛おしむ相手もいないというのに、誰かの心を奪うことに長けたこの男はそうした人たちの気持ちを踏みにじっているのも同然だった。 「あなたに限って足元をすくわれることはないでしょうが…いつか刺されたらどうするのです」 「俺を刺せる人間がいるなら、是非とも見てみたいものだ」 全く響いていない様子にレティは深く溜息を吐き出した。今更この男に対して自分が何かを言って変わることなどないと思ってはいるものの、こうもヒラリヒラリとかわされてしまうとやるせなくなる。 この男に害をなすことができる人間などそうそういない。その前に、自分が立ちはだかる。立場的にも実力的にも、冷静に考えなくても誰もが理解できるほど彼に傷をつけることは易しいものではない。 話が逸れていったことに気がつき、一度首を横に振ってから冷静な碧眼で男を見上げた。それでもなお、歩く足を止めることをしないのはこの男の意思に反することをするつもりがないからであった。 「本当に、こんな所で時間を浪費するおつもりですか」 「浪費か」 「彼らが採掘しているのは東の鉱山でしょう。そうした場所は既に調べ尽くしたはずです、今更そんな場所から見つかるはず…それに、持ち主がいなければ意味がないのでは」 「持ち主なんて、人を掻き集めればそのうち見つかる」 皮肉そうに笑う。人手を集めることも、目的の人物を呼び寄せることも彼にとっては簡単なことだった。それが、この世界において立場の弱いオメガが相手なら尚更。昔よりもオメガ性の人間に対する差別は和らいできたものの、完全にはなくなっていない。差別には地域差もある。この村はきっと差別など存在しないだろうが、都市群に負けず劣らず差別が激しいのは意外にも地方だった。酷な現実ではあるが、未だに社会的地位が確立されない彼らは良いように扱われることの方が多い。田舎で慣習が長く続く所では、変化を好ましく思われない。良い意味でも悪い意味でも変化をもたらすオメガという種は忌み嫌われやすかった。 都市では一定の地位を持ったアルファたちの愛妾や玩具、道具として。田舎では差別の対象として。 環境や人に恵まれていれば、決まった相手と……番と結ばれることも可能だが、それは本当のアルファにしかできない。カルディアのように、アルファに寄せて生まれた者たちでは、運命の番にはなれない。 アルファやベータに弄ばれることの多い彼らの境遇は、改善されているようで改善されていないのが現実だった。 しかし、今が切迫した状況でないにしろ感傷に浸っている場合でもない。社会情勢を憂うことよりも、目前の課題を解決することの方が彼女にとって重要だった。 「村長の息子は、調べてあげなきゃと言ってきたらしい」 「子どもの言葉ですよ」 「いいだろう。ここまで来たんだ、片っ端から潰していくしかあるまい」 久し振りに自国から離れ、遠い地で羽を伸ばしていることのできる今が気に入ったのか、彼は嫌な顔せずわざわざ歩いて村から外れた民家まで出向こうとしている。 気持ちは分からないでもないが、それに付き合わされる自分の身にもなってほしい、と女は密やかに思った。 「ようやくあなたが本気で番を定めるのかと思えば…」 「しているだろう?だからこんなにも必死に探しているんだ」 「どこがです。わたしには、またつまらない見合い話を持ってくるのを断るために、田舎にまで番探しと出向いてカモフラージュしているようにしか見えません」 「耳が痛い」 「ご自覚しているのなら、早急に戻って有意義な探し物をした方が賢明です」 どこ吹く風と聞き流す男ではあるものの、彼は自分がするべきことを間違えることはない。愚かな人間であればこの偏狭な地まで付いて行くことはしないし、こうもこの地にこだわりを見せる姿を良くは思わなかっただろう。 「たとえ仮初めでもいい。あなたの足さえ引っ張る者でなければ、形だけの番でも早々に据えておいた方が周りも文句など言いません」 「オメガの立場に同情していた人間の言葉とは思えんな」 「わたしにとっての最重要事項だと考えているからです。彼らの苦悩は痛ましいものですが、同情しているだけでは救えない」 レティの瞳が剣呑に光る。 「それとも……この地に、何か思い入れでも」 「そんなもの──」 そんな時、不意に耳を掠めた悲鳴に男は言葉を途切れさせた。 日頃から訓練された人間でなければ聞き逃してしまうほど遠くから発せられた悲鳴は、未成熟さを感じさせるものだった。 「悲鳴…ちょうど途中か」 同じように聞き取れたレティが、大腿にぴったりと隙間なく装着していた革のベルトから短銃を手に取ろうとする。それを片手で制して、男は彼女を見据えた。剥き出しになった美しい線を持つ女の太腿に見惚れている暇もない。 「ここで待っていろ」 「私が向かいます」 隙間なく、それでいて余分な力を一切入れずに銃を手に取った姿を一瞥し、男は念押しするように繰り返した。 「俺は同じことをそう何度も言わんぞ。お前は待っていろ」 「目立つ行動は避けてくださいと、あれほど…!」 「こんな偏狭な地でこの顔を知る者はいない。いるとすればそれは、」 この村以外の──自分と同じ目的を持った人間、または敵国の者か。 言葉にせずとも言わんとしていることがこの女には正確に伝わることを理解した上で、あえて男は口を閉ざした。予想通りに、男の意図を汲んだレティはほんの僅かに眉根を寄せて怪訝そうな顔をする。 「………疑っているのですか」 「さあな。必要時には知らせる、それまでは周囲を警戒していろ。三十分待って戻らなければ、お前は先に宿へ…いや、セシリオの家の位置を」 「……承知いたしました」 渋々、といった様子ではあるものの今この状況において余計なものと分類されるであろうことは考えず、無駄な進言もしない。よく出来た彼女は、短銃をホルダーへと戻した。 それを気配で感じながら、男はコートを翻し前方に見えた森林を目指す。 日が傾いてきた今、頼りない太陽の光は夕闇へと溶け込んでいく最中であった。声が聞こえたのは一瞬、それも遠くからであったため正確な位置を把握するのは困難だったが、これまでの経験で培われてきた己の感覚を頼りに歩みを速める。 「面倒が起きるのは物事が進んだ時か…」 穏やかな村には似つかわしい悲鳴は異常事態を示している。 しかし同時に、自衛の手段を持たない小さな地域では、こうした犯罪は度々発生してきたことでもあった。強盗、誘拐、強姦、暴行、殺人…そうした暴力の犠牲となるのは、決まって立場も力も弱い女子供である。 先ほど聞こえた悲鳴は、性別の判断はできないが十代半ばにも満たない子どものものだろう。客人である自分が、積極的にこうした出来事に介入するのは気が進まないが、万が一…村長の息子が被害者であった場合、損をするのは自分たちである。こうした、誰かに酷いと罵られるような利害の計算を冷静にすることにも慣れたものだった。 全く無関係の人間が被害者であれば、深く関わるべきでない自分たちは見て見ぬ振りをしただろう。しかし、今回はもしもの場合がある。村長の息子が、自分が求める宝石を有しており、加えて持ち主であった場合、むざむざこんな所で殺させるわけにも項を奪われるわけにもいかない。 (───家がないな) さっと視線を配らせてみるが、近くに村人が生活しているような家は見当たらない。遠くにぽつりぽつりと民家が点在しているが、果たしてその家の子どもがこんな何もない場所を出歩いていたというのか。 村の子どもたちも、幼いながらに自衛の必要性は承知していたはずだ。田舎村に、家を出てまで楽しめる場所など大してないだろうに、何故民家から離れた場所で襲われているのか。 厄介なことに巻き込まれたと溜息を吐きそうになりながらも、男は足早にその方向を目指して行った。 鬱蒼とした木々を両手で掻き分け、ますます暗くなっていく森の中を割って行く。 手入れされていない、四方八方好き放題に生え散らかしている葉に視界を邪魔されるものの、行く手を阻まれることはなかった。 「や、やだ、離してっ」 常に戦いと隣り合わせな日常を送っているせいか、聴覚には自信があった。否、聴覚だけでない、他の身体機能において他の人間よりも、魔術師よりも秀でている自信がある。 だからこそ、涙に濡れた声が聞こえてくる正確な位置がわかるのだ。まっすぐにその場所を目指して、生い茂る木々をかき分けて行った。 「やっ、たすけ……!」 最後の植物の壁をこじ開け、開けた視界に入ったのは、組み敷かれた子どもと、それを取り囲むように体を押さえつけている…軍人、であった。

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