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1章(2)

胸が、苦しかった。 家を出てからまだ十分も経っていないのに、胸の奥がなぜか締め付けられるように痛む。 丘までの道はいつもの道だ。村の北西、菜の花畑の縁を抜けて、緩やかな登り坂を上れば、頂上に着く。何度も歩いた道だった。 セシルと約束をして、二人だけで行く場所だった。今日も何をするかは特に決めていなかった。 いつも通り、会ったら自然と話が出てきて、二人で丘の上で座って、それから小川まで移動して、水を手ですくう。そんな時間をいつも過ごしていた。 それなのに、今日は登り始めてすぐから息が上手く吸えなかった。 それだけは、いつも通りじゃなかった。 「……ぁ、」 立ち止まって、胸を押さえる。 痛みは、走った後のような痛みではなかった。もっと、内側からじわりと滲んでくるような痛みだった。心臓が、いつもより少しだけ速く動いているのが、自分でも分かった。だが、速さの理由が自分でも分からなかった。 身体の中の、知らない場所が熱い気がした。知らない場所がどこなのか分からなかった。 気のせいかもしれない。 夕暮れに近づいて太陽の光は弱くなっているのに、頬だけがじんわりと熱い。汗が、額に薄く滲んだ。 「ヘンなの……」 ぽつり、と独りごとが漏れた。 独りごとの音を、自分の耳が拾った。自分の声がいつもと少し違って聞こえた気がしたが、それを誰に確かめることもできなかった。 否定するように首を振って、もう一度丘の方を向く。 丘の頂上には、まだセシルの姿は見えなかった。きっと、自分の方が早く着いただけだろう。胸の中が、なんとなくそわそわして家にいられなくて、家を出るのがいつもより早かった気がした。 「お、嬢ちゃん」 声が後ろから降ってきて、少年の身体が一度だけ強く震えた。 振り返らずに、声の主の気配をまず背中で受けた。背の高い大人の男だった。気配が三人分あった。 今、自分は村と丘の間の一番開けた場所にいる——その認識が、少年の中で遅れて立ち上がってくる。 辺りには、誰もいなかった。 村の方向には家々の屋根が遠く見えるだけだった。丘の上を見てみるが、そこにまだセシルはいなかった。 ゆっくりと振り返る。 振り返らない方が良かった、と気づいたのは振り返った後だった。 「ひとりか?」 三人の男が、立っていた。 村の人ではなかった。土の汚れていない、よく仕立てられた服だった。村の男たちは、誰一人としてこんな服を着ることはない。腰に提げられた剣を、少年は初めて見た。 そう。村の人で剣を腰に下げて歩いている者は一人もいなかった。 「……」 少年の口は閉ざされたままだった。 両足が一歩後ろに下がり、その小さな一歩を男たちは見ていた。 「逃げるな」 低い、落ち着いた声が開けた自然の中に不自然に落ちる。 声が落ち着いていることが、かえって怖かった。怒鳴られる方が、まだまともに反応できた気がした。 土を踏みにじり、小さな砂粒が靴の下で音を立てるのを聞く。 その瞬間に少年は走った。 丘の方でも、家の方でもなかった。両方とも、男たちの目の前を通らなければ行けない方向だった。村の人を呼びにいけない、家にも帰れない。 少年の足は、反対の方向——丘の北側、村のはずれの森の方へと意識しないうちに勝手に動いていた。 「おい!」 背中で、男たちの足音が始まった。 重い足音だった。村人の足音とはまったく違う、靴の作りからしてこれまで聞いたことのない重さが音となって追いかけてきた。 森に入って、すぐに息が上がった。 胸の痛みは、走り始めてからもっと強くなっていた。走ったから痛い——少年は、そう自分に説明しようとした。だが、走る前から痛かった。 「はあ、はっ、……は、あ、」 心臓が張り裂けそうで、もう限界だった。こんなにも体が痛めつけられるまで走ったのは初めてだ。 苦しくて、痛くて仕方がない。 汗が全身から吹き出て来ていて、全身を纏う薄い布が肌に張り付いてしまっている。そのせいで、太腿の内側にぺったりと裾が張り付き足に絡まるものだから、余計に走りづらくなっていた。 それでも、頭を覆うようにすっぽりと被った花浅葱色のヴェールだけは剥がれないよう、しっかりと小さな手で握っていた。 「はっ、やだ、…も…もう、」 胸のうちから溢れ出てくる恐怖に、意味をなさない言葉が音となって外に漏れる。 呼吸ができない。吸えているのか、吐き出せているのかすらわからない。ただ、足りない酸素を必死に補おうとする度に心臓なのか、肺なのか、区別ができない胸のあたりがひどく締め付けられた。 痛くて、苦しい。 「ううっ、…ッ」 青紫色の瞳は、今では抑えきれない恐怖によって押し上げられた涙でいっぱいになっている。こんもりと透明な山が盛り上がったと思えば、走る振動で頬を伝い宙に散っていく。 後ろから迫ってきている足音と、下品な笑い声が聞こえてきては心臓がより一層大きく跳ねるのを感じた。 「そろそろ諦めた方がいいぜ、嬢ちゃん」 「悪いようにはしないから」 聞こえてくる声に肌が粟立つ。すぐ後ろから聞こえているわけでもないというのに、子どもの恐怖を引き出させるには十分な声だった。 怖い、怖い、怖い。 (やだ、やだ…っ!怖いことされる……!) あんな言葉、世間知らずと評される自分でさえ信用してはならないものだと判断できた。 荒い息に混じって、恐怖心を増大させていく男たちの声が背後から追いかけてくる。それがどんどん近づいて来ていることに、体が震えてしまった。 枝が引っかかり、服は汚れて所々裂かれている。肌にも引っかいたような赤い線が散らばっていて、白い肌を不気味に彩っていた。 「セシル……っ」 幼馴染の名前が、思わず口から漏れた。 セシルがいてくれれば、きっとこんなことにはならなかったのに。丘の上に早く着いて、待っていた。でも、現れたのは、セシルじゃなかった。 家に走って帰ることもできない。家にも、丘にも、行けない——その事実が、少年の中で繰り返し響いた。 走り続けた。 枝が頬を掠めた。掠めた頬から、薄く血が滲んだ。少年はそれに気づかなかった。気づく余裕がなかった。 森の中は、薄暗かった。 日没の前なのに、木々の間は既に夜が始まっているように暗かった。普段、ひとりでは入ってはいけないと、両親から何度も言われていた場所だった。牛や馬の世話をする時に、両親や幼馴染と一緒なら通れる場所——その「一緒なら」が、今はない。 呼吸が、自分のものではないように荒くなっていた。 吸っているのか吐いているのか分からない。胸の中の痛みが、走るたびに増していった。 身体の中の、知らない場所の熱は消えていなかった。むしろ、走るたびに強くなっていった。汗が、額からも背中からも、止まらなく流れていた。汗の出方も、いつもと違う気がした。いつもの汗じゃない——その認識が、頭の隅にあった。だが、考える余裕はもうなかった。 走り続けて、やがて見えてきたうっすらとした光に本当に、本当に少しだけ安堵する。 やっと、やっと出られる。 この暗くて怖い森から出れれば、小さな村までもう少しだ。そうすれば、みんなのもとにまで辿り着ける。セシルに頼った方が、もしかしたら安全かもしれない。どちらにせよ、自分の家は村から正反対であるため一度は身を隠すために帰った方が安全なはずだ。 「ひっ……、いやっ!?」 森から出て、傾き始めた太陽の光を浴びた瞬間、腹と首に太い腕が回されて背後から抱え込まれる。ぐっ、と身体を強く締め付けられて反射的に逃れようともがくものの、びくともしない。 自分の両足が地面に着いておらず、僅かに浮き上がっているのが見えて激しく動揺する。地面に足が着かなければ走ることなんてできない。 決して逃がすまい、と後ろから強く抱え込む男が低く笑うのが聞こえて、全身がぶるりと震えた。 「残念だったなァ、頑張ったのに」 「ぃ、いやだっ、離して!」 「威勢がいい。いい声聞かせてくれるじゃねえか」 華奢な身体を覆うように後ろから抱き込まれてしまい、身動きが取れない。そのうえ、森の中から……否、森に入る前からではあるのだが、ずっと追いかけ続けて来ていた他の男まで追いついてきて、捕まった顔を覗き込んでは下卑た言葉を投げかけた。 「やだ、やだっ……は、はなしてッ」 自由にならない身体。それでも、涙ひとつ流すことなくじたばたと手足を暴れさせた。 しかし、そんな小さな抵抗ひとつに動じることなく大柄な男にそのまま引きずられて行ってしまう。村からも、家からもどんどん離れていることに気がついて身体が強張り、全身に悪寒が走った。 「上玉だな」 後ろから身体を抱きかかえている、背の低い方の男が言った。 少年の華奢な肩越しに、もう一人の背の高い男を見ていた。 「お前、確かか」 「確かだ」 背の高い男が、低く返した。 彼の声は、後ろの男よりもわずかに重かった。重さの種類が違っていた。捕まったその身では、違いの意味は分からなかった。 「匂いが変わり始めている」 男が言った。 小さな顎を、ぐいっ、と強引に上向かせる。仰け反った白い喉が夕焼けの下に無防備に晒された。 「だが、まだ完全には立っていない。今夜中に連れ帰れば、ちょうど良い」 「国の連中が喜ぶな」 「ああ」 白い頬を、男の唇が掠めた。 ねっとりとした唾液を乗せた舌で、頬に流れた汗の筋を舐めあげる。ざらざらとした分厚い舌の感触に、ひっ、と短く悲鳴を上げて身を震わせた。 「やめて……! 何も持ってないっ」 「抵抗しなけりゃ痛いことはしねえ。俺たちもお前に傷がつくことはなるべくしたくねえんだ」 「やだ……やだっ、だれか……!」 流れ出てくる汗が丸い頬の線に沿って伝い落ちていく。 組み敷く側の男は、細い身体を地面へと押し倒した。先ほどとは打って変わり、顔を青くさせて驚愕に瞳を大きくさせる様子に愉悦が滲んだ笑みを浮かべた。 「ひっ………!」 初めて当てられた冷たい感触に全身が凍ってしまったかのように硬直する。男の手に握られた短刀が、柔らかな肌に押し当てられた。 差し込む陽の光を反射した鋭い切っ先が鈍く光って、その凶悪さを際立たせる。ナイフなんて、動物たちの毛を刈る時や料理をする際にしか使ったことなんてない、そんな危ないものを人に向けるだなんて。 「ほら。大人しくしてねえとこれでスパッと切っちまうぞ」 「や、やめっ、刺さないで……っ」 うっすらと汗が滲む首筋に押し当てられる短刀に身をすくませ、恐怖に唇を小さく震わせた。今にも自分の命を奪い取ろうとしているかのように、動脈が走る細い首にぴったりとナイフを密着させられて、一気に恐怖心が身体の内側から這い上がってくる。 凶器と男から逃げたい一心で、地面の上で弱々しい無意識の抵抗を見せた。 「動くな。声も出すなよ」 「や……っ、」 「こんな所じゃ、大声出しても誰も気付かねえけどな」 少しでも身じろげば、首に密着するナイフで強く圧迫される。 心臓が未だに強く脈打ち、内側からその身体を叩いていた。 自分の身体の中で起きている変化の正体を、彼は知らない。知らないままの自分の身体ごと、知らない男たちに押さえつけられていた。 野盗のような風体をしていたが、男たちの動きには、訓練された者の冷静さがあった。 特に、組み敷く側の男の動きには無駄がなかった。短刀の押し当て方、身体の押さえ方、視線の配り方——どれも、慣れていた。それに、組み敷かれ混乱しきった頭では気づく余裕は少しもなかった。 「身ぐるみ剥がせ」 「い、いや……っ、何も持ってない!」 「大声出すなって言ってんだろ」 頬に衝撃を受ける。 屈強な男の手のひらは分厚くて硬く、至って普通の田舎で日常生活しか送っていない頬に与えられた痛みは強すぎるものであった。 頬を張られた場所がジンジンと痛みを訴えながら熱くなっている。 (怖い、怖い……っ) お父さんもお母さんもセシルも、誰もいない。 頭はぐちゃぐちゃになっていて、何も考えられない。どうしてこんなことになっているのか少しも分からない。 「やっ……!」 ナイフの切っ先が胸元に当てられたかと思うと、そのままなんの抵抗もなくざっくりと肌を覆っていた布を切り裂いた。 「あ?」 男が、怪訝そうな声をあげる。 細い胸が、夕暮れの光の下に晒された。少女のものではない、まだ成熟しきっていない白い肢体だった。 そんなことすら気にかける余裕などなく、強く目を閉じたまま必死に目の前の現実と恐怖から逃れようとしていた。 素肌が露わになり、日没に近づいて涼しくなってきた風が肌を撫でていく。身を守るものがひとつなくなったことで、より一層ナイフの冷たい感触を近くに感じて恐怖心が募った。 「年はいくつだ」 平らなエッジで顎を持ち上げながら男が尋ねる。 いつそのナイフの向きを変えられるのかと怯えた眼差しを向け答えた。 「答えろ」 「じゅ、じゅう、はち……」 「十八か。発情期(ヒート)は、まだか」 「ひー、と……」 知らない単語を聞いて、意味を問い返す余裕がなかった。 組み敷く側の男は、その答えを待たずに自分で確認した。 「来てないな。だが、もうすぐだ。匂いがちょうど良い」 組み敷く側の男が、後ろの男に視線を送った。 「男だぜ」 後ろの男が、戸惑った声を出した。 それを気にすることなく、もう一人は小さな頭を覆っている布に目を向けた。 「その布剥がせ」 「あっ、だめ、とらないで!」 だめ、と叫んでも、できない抵抗をしようと身体に力を入れようとも、全て押さえ込まれた。上から伸びてきた手が、小さな頭を覆っていたヴェールを乱暴に奪い去っていく。 グラデーションが施されたヴェールは、母が縫ってくれたたったひとつの物だ。自分を常に守ってくれる、母の愛も温もりも感じられるヴェールを奪われて、寂しさも恐怖も強くなってしまう。 「返して…」 その姿が初めて夕焼けに照らされる。 まだ未熟さを感じさせる大きな青紫色の瞳は、畏怖の念を交えながらも真っ直ぐに男を見据えていた。 血色のいい小さな唇はきつく引き結ばれている。 澄んだ肌は日照時間の短いこの土地の人間特有の色だ。今では激しく身体を動かしていたせいか、白地を彩るように頬が紅潮している。 ヴェールの下には亜麻色の布がもうひとつ、額と頭部の間の一部を覆うように巻かれていた。 髪と同じそれが溶け込むようにあったが、顔さえ見れれば満足なのか、その布には一切手をつけず男はただじっと顔を見つめた。 「可愛い顔してるが、お嬢ちゃんじゃなかったみてえだ。どうする」 組み敷く側の男は、笑った。 笑い方は、最初の笑いよりもずっと深かった。 「お前は、何も分かっていないな」 「は?」 「俺たちが探しているのは、性別じゃない」 ねっとりとした笑いも、その言葉の意味も分からなかった。 「中央のお偉いさんが、とかいう話じゃない。俺たちの国の連中だ。男だろうが女だろうが関係ない。この匂いが、価値だ」 「あ、ああ……。そういうことか」 後ろの男が、納得した声を出した。 納得した声の中に、それでもまだ少しの戸惑いがあった。 「だが、男のは初めてだな」 「珍しい。むしろ、好む者もいる」 「そうか」 少年が、ようやく、自分の声を絞り出した。 「お、男……っ」 男なのだから、もう、用はないはず——その理屈が、抵抗する唯一の希望だった。 だが、その希望は男たちの会話の中で既に潰されていた。 「お前みたいなのを、可愛がってくれる連中がいる」 男が、少年の頬をナイフのエッジで撫でた。 「俺たちの国の兵舎で、毎晩毎晩、お前を必要とする男たちがいる。戦いに疲れた連中だ。お前の役目は——彼らを慰めることと、もう一つ、別の役目だ」 「べつ、の……」 「お前には、まだ分からない。だが、お前の身体は、これから俺たちの国の役に立つ」 長持ちする——男はそうは言わなかった。だが、含みは声の重さの中にあった。 その含みの意味が分からないまま、男のナイフが浮き出た鎖骨の上を軽く叩いた。 「これからご主人様に奉仕するんだ。躾けてやる」 「し、しつ、け……」 「はっ」 ナイフの切っ先で頬をなぞられて視線がそこに釘付けになってしまう。 肌に食い込んでいる気がして、会話に集中することができない。 「セックスするんだよ、毎晩毎晩」 「う、うそ……っ、そんなのできない!」 「ここまで来てやめると思ってんのか?」 「ひっ!……ッ、」 強く、音が鳴るのではないかと思うほど乱暴に肩を掴まれ、苦痛に表情を強張らせた。白く柔らかな肌に浅黒い男のごつごつとした指が食い込んでいる。 性行為なんて今までしたことなんてないし、自分にはできない。相手だっていない。何も知らない、結婚の約束はおろか恋人にすらなっていない女性とそんなことできるはずがなかった。 それなのに、男たちは性別も年齢も知ったうえで今ここで衣服を剥がしては性行為をすると言ってくる。男同士でできるはずもないのに。 「……おとこ、なのに……っ」 「男だろうが女だろうが関係ねえって、言っただろ」 「ぃ、いた、痛いっ」 触られたことのない場所ばかり乱暴に触られて、痛みに顔が苦痛に歪む。 快感を拾えるはずがないことを理解したうえで、男たちはただ自分たちの良いようにその身体を扱っていた。 「さっさとやれ。そっちは仕上げで充分だ」 「うるせえな、わかってる」 「明日には、国境を越える。今夜中に連れ帰る」 腕を地面に縫い付けるように押さえつけている、後ろにいた男と、組み敷く側の男がニタニタと笑う。 「足を広げろ」 言われたとおりにできるはずも、したいと思うはずもなく身体は強張ったまま動こうとしない。 それを見越していた男は両方の膝裏を強く掴み、強引に足を左右に開かせてきて、動揺し瞳を大きくさせて半身を起き上がらせようとする。それすらも押さえつけられ抵抗をひとつも許されなかった。 「暴れるなよ」 腕を抑える男が丸みが抜けきらない顎から頬までを強く掴んで、無理やりにそれに視線を向けるようにする。動揺して視線を逸らそうとするが、押さえつける男がそれを許さない。 「すげえだろ。あれがお前の中に入るんだぜ」 ひゅっ、と声にならない悲鳴が上がる。 入る、中に? 言われている意味が分からなくて、どうすればいいのか分からなくて、何ひとつとして言葉を発することができなかった。 「暴れたら痛い目見るぞ」 「ふ、……」 涙が音もなく流れ落ちていく。 自分が泣いていることにも気づかないまま、押さえつけられた身体を硬直させていた。 「怖すぎて何も言えないんだろ。これだからクセになる」 無理矢理に地面から腰を浮かせられて、それすらも怖くて身じろぎをするとすぐさま喉元にナイフを押し当てられた。 「逃げられるはずないだろ」 痛いのは、嫌だ。怖いことなんてもうされたくない。 助けて、助けてセシル。 助けて、もう。誰でもいい、セシルじゃなくたって、母や父じゃなくたっていい。誰でもいいから、助けて。 「押さえてろよ」 男は柔らかい肌を守っていた服を強引にたくし上げて、何をされるのか理解すらできていない身体に自らの身体を押し当てた。何も理解できないまま、ただ恐怖の波が押し寄せてきた青紫の瞳から涙が一気に零れ落ちた。 「や、やだ……っ、離して!」 目の前で起きようとしていることを否定するかのように強く目を閉じて、訪れようとしている苦痛に耐えようと身構える。 それでも耐えきれず、辛うじて残っていた勇気を振り絞り、最後の抵抗をした。

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