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1章(3)

覚悟した痛みは、来なかった。 「ぎ…ッ、ああぁっ!」 自分を襲う恐怖がやって来なかった代わりに、空間を一変させるような、今まで聞いたことのない大きな悲鳴が響き渡る。 「な、…っ!血が、…!」 「て、てめえ…ッ!」 「誰だ!出て来い!!」 びくり、と肩が跳ね上がるほど恐ろしい男たちの声が聞こえる。 聞こえる声は少しだけ遠のいたというのに、恐怖心は一向に去っていってくれなかった。 少しの浮遊感と、母や父とは違う…それでいて安堵できるような温もりを肌に感じる。 「怪我をしているな」 「え……?」 すぐ傍から落ち着いた男の声が聞こえて、少年は強く閉ざしていた二つの瞼を持ち上げた。 目の前には夕焼けに照らされた白皙の美貌があって、無意識のうちに息を呑む。 片膝を地面に着き、その上に座らされている。両腕で抱きかかえられるようにして身体を支えられていることに気づき、すぐに降りなければならないと思うものの震える身体には少しも力が入らず、結局何をすることもできなかった。 「血が出ている。それに、頬も腫れている…殴られたか」 少しだけ冷たい手のひらに頰を撫でられる。 腫れて熱を持ったそこは、冷たい感触を感じて気持ちが良かった。 「横から出てきやがって…!そいつは俺たちの獲物だ!」 「さっさと姿を現せ」 荒れた声と乱暴な言葉にじわりと涙が滲み出てくる。 自分が言われているのか、そうでないのかも判断がつかないまま、少年は怯えて唇を震わせた。 「ここで待っていろ」 優しく囁かれながら地面に降ろされるものの、力がちっとも入らずそのまま崩れ落ちそうになる。 すぐに横から伸ばされた腕に身体を抱きかかえられて、みっともなく地面に転がるのは免れた。 「俺がいいと言うまでは出てくるんじゃない。いいな?」 頭をひと撫でされる。撫でられるというよりは、手のひらをそこに乗せるという動作に近かったかもしれない。 「ぁ……っ」 不安げな声が小さく漏れると同時に、少年の小さな指先が頼りなさげに男が身に纏うコートの裾をきゅ、と掴んだ。見ていた男はそれを振りほどくこともせず、背中を撫でてやる。 「大丈夫だ、すぐに終わる。ここで隠れていろ」 すっかり冷えてしまった手を、安心させるかのように軽く握られて心臓が痛いくらいに跳ねる。 たったひとつの、本当に些細な触れ合いだというのに、不思議なほどに自分の鼓動は大きくなって全身をかっ、と熱くさせた。 恐怖とは別に、身体が動かなくなってしまった少年は、服の裾を指先から離すこともできなくなってしまう。 「……傍にいるか?」 自分が今どんな状況下にいて、何をされているのかも、目の前の男が誰なのかも、何一つ理解できず混乱したままであるため、頷くことも首を振ることもできない。 しかし、男はそれを咎めることも訝しむこともなく、その細い手をもう一度上から握ってやった。 「───怖い時に目を閉じてはいけない。余計に怖くなるぞ」 男は肉づきの悪い少年の腰に腕を回し、軽々と抱き上げて自らの肩口にその顔を埋めさせた。 その頰には、涙の跡が残されているだけで、もう雫はなくなっている。 「てめえっ、よくも腕を!」 「傷をつけるだけの腕なら、ない方がマシというものだ」 「なんだと!?」 憤怒に満ちた声に身体を震わせる。 何度聞いても怖いものは怖かった。 びりびりとした張り詰めた空気と、男たちの怒声は初めて体験するもので、また泣いてしまいそうになる。父に叱られた時も、村の子どもたちが悪さをして村長に叱責された時も、こんなことは経験したことなんてない。 「この…っ!!」 片手から止まらない出血を押さえようとしている男の、すぐ隣に立っていたもうひとりが地面を蹴った。地面が僅かに削られ、砂埃が舞う。 自分を抱く男は、片手で細身の長剣をくるりと翻し隙間なく構えていた。 しかし、彼は小柄な身体と言えど人間ひとりを抱きかかえたままだ。 明らかに足を引っ張っているのは自分だと認識する気持ちの余力が少し復活してきて、少年の顔が見る見るうちに青ざめていく。 (ごめんなさい、ごめんなさい…っ) このままだと、この人まで──。 自分さえあそこで身を潜めていたら、もしかしたらこんな野盗に斬りつけられることもなく済んだかもしれないのに。 恐怖のあまり、待っていろと言われたついさっき、その言葉に従うことができなかった自分を恨んだ。目を閉じて、ただただ助けてくれた彼に巻き込んでごめんなさい、と謝罪を繰り返しながら最悪の瞬間に身を硬くした。 「な…ッ!ぐ、く…う、あぁ…っ!!」 大振りな、汚れた剣が振り下ろされるその瞬間を想像していたものの、間近に耳をつんざくような悲鳴が迸って反射的に目を開ける。 見れば、大きな剣は振り下ろされることなく地面の上を転がり、腹を抱えるようにうずくまった男がいた。 「お、おいっ、しっかりしろ、大丈夫か!」 「くそっ、こいつ…ッ!」 地面には、血溜まりができ始めている。 (すご、い……) 思わず、こんなにも切迫した状況だというのにすぐ目の前にある男の顔を見つめてしまう。 見れば見るほどに、胸の内が温かくなっていくような二つの瞳と、その姿に…少年は言い表すことのできない感情を抱いていた。 村では見ないような美しい顔立ちは、きっと誰もが羨むものだ。 村の人では触ることも目にすることもできないような、高価な宝石を想像させる瞳には確かな力が存在していて、目が合っているわけでもないのに視線を逸らすことができなかった。 「そいつを返せ!見つけたのは俺たちだ!」 「所有の在り方はお前たちではない」 「正義の味方気取りか?──殺るぞ」 助けてくれた男を見つめている間にも、殺気立ったやり取りは続けられていた。 一際背の高い野盗のひとりは冷静さを失わず、静かに宣言して隣にいる男と視線を交わす。 「正義の味方を名乗れるほど、俺も美しい生き方はしていないがな」 短く笑う。 その笑顔が少しだけ寂しく感じられて、少年は胸が苦しくなるようだった。 どうしてそう感じたのかは、少しも理解できない。 「うぉおっ!」 野太い声は途中で悲鳴へと変わる。 それでも諦めるつもりのない男たちは、目を釣り上がらせ、声を荒げながら乱暴な言葉遣いで少年を抱える男を罵っていた。 「子どもを襲って、貴族にでも売るつもりだったか」 「分かっているなら早く寄越せ」 「それ以外にやることはないのか」 「オメガは需要が高い、俺たちはそれに応えているだけだ!」 荒い息を繰り返し、止まらない血を無理矢理に布で圧迫しながら野盗は笑い声をあげる。 次に襲いかかってきた二振りの剣を、彼は難なく受け止め強く弾き返した。 甲高い金属音が響いて、鋭い剣筋で野盗の攻撃を封じてしまう。 「死ね!」 体格は、野盗が上回っている。 力押しで襲ってきた野盗の剣を片手で受け止め、片足に力を入れるのが分かった。 下方へと弾き返し、野盗が驚いた顔をしている間にすぐ剣を持ち替えて、柄の先でその腹を強く突けば、途端に鈍い悲鳴があがる。 「ぐ、うあぁ……ッ!!」 リーダー格の男が地面に膝を着く。哀れな姿を目に留めながら、少年を抱く男は独り言のように小さく呟いた。 「…俺と同じ目的かと思ったが、違うらしい」 ──ならば、構う必要はない。 言ってすぐに、男の指先が鳴った。 耳のすぐ横を走っていく不思議な音と、一瞬で過ぎた熱気に驚いて頭上の男を見上げる。 そこにあるのは、少しも変わらない姿。しかし、真っ直ぐに前を見据える宝石のように美しい瞳は、炎を映し出し揺らめいていた。 (火……?) その瞳の中に、どうして火が映っているのだろうと不思議に思った。 同時に、自分の周りの空気がざわめくような感覚に包まれて、一層訳が分からなくなっていく。 「ま、魔術師…っ!」 動揺を滲ませた声に、少年はその方向へと視線を移した。 (まじゅつし……?) 抱かれた腕の隙間から、狼狽えた顔をする男たちの姿が見えたものの、すぐに自分を抱く腕に視界を塞がれてしまった。 しかし、一瞬のうちに見えた光景は脳裏に焼き付いて離れない。何の前触れもなく生まれ出た炎が、男たちを取り囲んでいた。 「その身を燃やされたくなければさっさと姿を消せ。今の数倍の火力は出るぞ」 静かな声だが、迫力はあった。男たちの目の前に広がる炎は本物で、熱がじわじわと空間を揺るがしている。 「子どもの前で焼死体を作るほど、俺も心が無いわけじゃない」 ──行け。 「くっ、そ…!」 苦々しそうに、屈辱が溢れ出た声で吐き捨てた言葉を残し、男たちと、欲望に塗れていた空気は欠片も残さず消え去っていった。

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