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1章(4)
ずっと感じていた体温が離れていく。
地面にそっと座らされ──力が入らず、ほぼぺたりと座り込む形にはなったが──ようやく落ち着いてきた少年はゆっくりと呼吸を繰り返した。
剥き出しになった肩に厚手の外套がかけられて、その重さに顔を上げる。薄闇に包まれる中で自分を見下ろすのは、先ほど危機を救ってくれた男だった。
「あ、……」
何か、そう、お礼を言わなければならない。助けてくれたお礼を。
そう思うのに、自分の喉は引き攣れてしまったかのように、カラカラに乾いて何一つ言葉を紡ぐことができなかった。そんな様子を見た男は少し笑みを浮かべ、穏やかに声をかけてきた。
「隣に座っても大丈夫だろうか」
「だっ、大丈夫、あの、」
声は出るようになったものの、今度は言いたいことが整理できず慌てた言葉ばかりが口から滑っていってしまう。
慌ててそれを取り繕うとしてもうまくいかず、焦りばかりが先行してまともな言葉が出てこない。
「焦らなくていい」
慌てる姿を見られ、加えて落ち着いた声でそんな風に言われてしまい恥ずかしくて仕方がなかった。
隣に腰を落ち着けた彼とは違い、自分が未熟であることを実感して、途端に頰が熱くなっていく。
すぐ隣に座る男がそっと何かを差し出してきた。それが、自らがつけていたものの野盗に奪われてしまったヴェールであることに気がつき、はっ、として顔を上げる。
「ごめん…あっ、ごめんなさい」
「慣れていないなら普通の話し方でいい。寒くないか」
「大丈夫、です…」
肩にかけられた外套は華奢な身体をすっぽりと覆うほどのもので、夜が迫ってきた風に剥き出しの肌を撫でられてもあまり寒さを感じなかった。
自分の姿を改めて見てみれば、酷い有様である。
衣服は野盗のナイフで切り裂かれてしまっているし、途中で走り抜けてきた森林の枝に引っかかって腕も足も傷だらけだ。
おまけに、剥がされたヴェールは一度地面に捨てられてしまったからうっすら埃で汚れている。
「まだ怯えているな」
未だ震えが収まらない身体を見て、男は野盗が逃げて行った事実を述べながらその背中を何度かさすった。
「安心しろ。お前に傷をつけた者たちは、恐らくもう戻って来ない」
大きな手が幾度か自分の背中を往復するのを感じながら、少しずつ全身から余分な力を抜いていく。
どうしたことか、初めて触られているというのに彼の手とその温度は驚くほどに安心できた。
「手を」
短く言われて、意味が分からず首を傾げるものの、無意識のうちにおずおずと手を差し出していた。
「な、なに……?」
「怖いことじゃない。傷を見るだけだ」
「お医者さん…?」
「医者に見えるのか?」
「違う気がする…もっと、おじいちゃんがやってるから…」
「それだけで判断するのは早いな。この村ではそうでも、他の町では若い者も医者として働いている」
「そうなの?」
「ああ」
決して乱暴にはせず、傷をつけないようにと至る所を慎重に触られていく。
男の手が肌を撫でていく度に、力が抜けていくような感覚に包まれることを不思議に思った。
しかし、力は大して入っていないだろうに、片方の足首を掴まれた瞬間に経験したことのない激痛が走ってきて身体を跳ねさせた。反射的に、掴まれた足を引っ込めようと力を入れてしまい、余計に痛みが強くなる。
「いっ…た、……ッ」
「捻挫か、靭帯を損傷しているか。骨折まではいっていないのが幸いか」
「や、う…ッ、い、痛い…」
ずきずきとした痛みは、少し動かしただけでも足首から上まで広がっていく。
足に力が入らなくなってしまうほど鈍く、それでいて激しい痛みは二つの目に涙を浮かばせるのに十分すぎるものだった。
「あまり動かさない方がいいな。できるだけ冷やしたいが…名前はなんと言う?」
「ノア…」
「ノアか」
尋ねられて、知らない人にほいほい名前を教えてはならないときつく言われていたというのに、何ひとつ疑うこともせず少年──ノアは自らの名前を口にした。
自分を危機から救ってくれた恩人なのだから、名乗らないというのも失礼だし、何より自分を助けてくれた人を怪しいと疑うことなどノアにはできなかった。
それとは別の所で、綺麗な唇が自分の名前を音として紡いだことに、嬉しくなっていた。
今日の自分は、少しだけよく分からない…この人の姿に、声に、簡単に揺り動かされている。
「ノア。家はここから遠いのか?」
「歩いて、二十分くらいだと思う…」
「中々だが、抱えて行ける距離ではあるな」
呟かれた言葉を聞いて、ぎょっとしてしまう。
助けてもらっただけでなく、怪我をした自分を抱きかかえて家まで送り届けてもらうなんて、そんなこと頼めるはずがなかった。そこまで世話になるわけにはいかない。
慌てたノアが、忙しなく手を動かしながら必死に反対した。
「そ、そんな、大丈夫。歩いて帰るから」
「その怪我で歩けると思っているのか」
「ゆっくり、歩けば…暗くても、道はわかるから…」
「さっきの奴らがまた戻って来たらどうするつもりだ?」
「あ…それは…」
「大人に頼っていればいい。乗りかかった舟だ、俺も最後まで面倒は見てやる」
結局、先を考えていなかった自分を露呈することになり、ノアは羞恥心に襲われる。
目の前の人は、どんなことが起こり得るのか正確に予測して、自分が安全に家まで帰る方法を先に考えていてくれていたというのに、どうして自分はこうなのだろう。考えなしだと思われていたらどうしようと不安になっている自分に気づいて、どうして不安になるのだろうと困惑した。
(なんで、こんなに…)
自分でも、訳の分からない感情に惑わされるのか。
ノアは首を振ってから、赤く紅潮する頰を自覚しないままに顔を上げて男と目を合わせた。
「あ、あの…っ、遅くなっちゃったけど、さっき…ありがとう」
「礼を言われるほどのものじゃない」
少し明るくなった、それでいてまだ恥ずかしさが抜けきらないノアの笑顔は、純真無垢で愛らしさを感じるものがあった。
迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいでもあるが、助けてもらえて本当に嬉しくて、感謝したいという気持ちを抑えきれないのがよく分かる。自分の感情を隠せないのがすぐに感じ取れた。
そんな、心の底からぽろっと出てきた素直な感謝の言葉と態度に、男は穏やかに微笑み返していた。
「でも、凄かった。また、変な人に…お母さんもお父さんも、心配しちゃうから」
「また?以前にも同じようなことがあったのか?」
「少し、前に」
今までも、何度か全く知らない…村の人じゃない大人に声をかけられたことはあった。それは村人全員ではなかったが、自分だけじゃなく、何人か同じことを経験していた。
今日みたいにナイフを突きつけられて脅されたり、身体を押さえつけられるような怖いことをされたことはなかったが、不可解なことはあったのだ。
母や父は心配して自分を抱きしめていた。
村長や、村の警備隊の人にも何度か訴えていたものの、どうにも対策ができないと悩んでいたところなのだ。
それを言うと、男は難しい顔をして黙り込んでしまった。眉根を寄せ、難しい何かを考えているような表情に見えるものの、本当にそうなのかは分からない。
「ねえ…名前、聞いていい?」
ノアは、ずっと気になっていたことを口にした。
自分を助けてくれた人の名前くらいは知っておきたい。
たとえ、この時だけの出会いであったとしても、短い時間だけ築かれる関係だとしても、この人のことを少しでも知っておきたかった。
何でそう思うのかは、相変わらず分からない。
小首を傾げて、名前を尋ねると男は視線を合わせはしてくれるがすぐには答えてくれなかった。それがどうしてだか悲しくて、ノアは困ったように眉を下げながらもう一度口を開く。
「だめ?」
「アルフ、と」
「アルフ?」
教えられた名前を何度も心の中で呼んだ。
音にするだけで、胸の内にすとんと何かが落ちては自分の中を満たしていくような感覚に、じんわりと熱くなっていく。体温が上がっているのか、全身が熱かった。
こんな感覚は初めてで、自分は本当にどうしたのかと戸惑ってしまう。
「アルフは、こんな所まで……観光?」
頬を赤らめさせながら、ノアは上目遣いに尋ねた。
そんな表情を間近で見つめながら、アルフは頷いてから答える。
「そうだな。一応は、観光だ」
「一応?」
「探し物もしているんだ」
一応、という言い方が引っかかってまた質問すれば、アルフは隠すこともなく教えてくれた。
「何を探しに来たの…?」
「会ったばかりのお前に話すようなことじゃない」
「あ……ごめんなさい」
目に見えて落ち込む姿を見て、アルフはすぐ「そうじゃない」と否定の言葉をかける。
恐らくは、初対面なのに私的なことを聞いて失礼だったと反省しているのだろう。アルフからすれば、自分たちの事情に何も知らない子どもを少しでも巻き込むのは少しばかり忍びないからだった。
「宝石を探しに」
しかし、子ども相手であれば教えたところでそう重大なことにはならないだろうと判断をする。
このくらいの歳になれば、お宝探しなんて童話の中の出来事だろうと考えるようにもなるだろうが、それで構わなかった。
「宝石…?」
「色や形は分からなくて。この地域にあるかもしれないと話を聞いてね。ただの噂話なんだが」
「そう、なの……」
ノアが落胆したような様子を見せる。
青紫色の瞳に明らかな悲嘆の色が混ざったのが分かって、どうしたものかとアルフは首を傾げた。
この少年が落ち込むようなことを自分は何か言っただろうかと思い返すものの、自らの言動にそんな要素はなかったはずだという結論に至った。
その後、落ち込んだ様子を拭い、ノアは再び問いかけてくる。
「鉱山にも宝石いっぱいあるよね?」
「そこから見つかるようなものじゃないからな」
「見つからないような宝石なの?」
「ああ。だから、この村の人たちに世話になっている」
アルフの言葉を聞いた瞬間に、ノアの瞳が少しばかり大きくなる。
星の輝きが散りばめられたかのように綺麗な瞳を、アルフは思わずじっと見つめた。
「ぼ、僕も手伝う…!」
「それは、心強いな」
明らかに、本気にはされていない言葉に少しだけ胸がチクリと痛んだ。
分かっている。自分のように何も持っていない自分では、大人の力になるなんて大抵はできないことなんて。しかし、この人に本気にしてもらえないのはどうしても悲しかった。
だからかもしれない、本当は言うつもりのなかったことまで口にしてしまったのは。
「セシル、が…」
人には言ってはいけないと言われていたことを、つい零してしまう。
それは、この人ともっと話したいと、もっと一緒にいたいと思ったからだった。少しでも興味を持ってもらえれば、少しでも自分に関心を向けてもらえれば、今すぐここで、または家に着いてすぐに別れることはなくなるかもしれないと考えたからだ。
「なんだ」
「セシルが、ずっと僕の……」
そこまで言ってから、ノアはアルフから視線を外し、地面を見つめながら考えた。
本当に、言ってしまっていいのだろうか。
この人と一緒にいたいし、話していたい。
宝石に関係するような話を提供できれば、自分を必要としてくれるかもしれない。そうして大人の関心を引こうと考えるのは、未だ未熟な自分がいるからだということにも、少しは気づいていた。
でも、約束を破ることは良くないことも分かっていた。
このことは、母と父と、幼馴染みだけの秘密なのだと、誰にも言ってはいけないと約束を交わした。
たとえ一目見た瞬間から、心を惹かれてしまった相手と一緒にいたいからと言って、約束を破ってはいけない。
(でも、きっと…相手にしてもらえない)
特に何も持っていない自分が、こんな魅力的な大人に相手をしてもらえるはずがないのだ。田舎の、ひっそりとした村で生活している普通の、目立つ何かがない自分を見てくれるはずはない。
それなら、約束はちゃんと守っていた方がいい。約束を破ることで、誰かを傷つけることはしたくなかった。
(なんで…こんなに、)
この人のことばかり気にしてしまうのだろう。
この人に、良く思われたいと、近くにいてほしいと思ってしまうのだろう。
「や、っぱり…後で。後で、聞いてから言う…」
緩慢に首を横に振りながら、ノアは視線を地面に落としたままそう答えた。
そうだ。約束を破らないように、母や父に言ってもいいかと聞いてからにすればいい。
それなら、この人も少しは村に留まっていてくれるかもしれない、自分に興味を持ってくれるかもしれない。
「……」
───ノアからは、不思議と落ち着く香りがずっとしていた。
まるで、アルフの好みを熟知した人間が、本当に世界でたったひとり自分のためにだけに調剤したような香りが、風が運ばずとも漂っていた。そのことに、ノアだけは気づいていない。
アルフは一度口を閉ざしてその伏せられた睫毛を見てから、手を伸ばした。
「ん…」
ノアが小さく声をあげた。
小さな、まろやかな顎をアルフが指先で捕まえて僅かに持ち上げれば、視線が交差する。
ノアは怯えることもなくじっと目を合わせ、アルフが何を言うのかと待っていた。
「この香りは?」
「かおり…?」
「……いや、そんなはずは。だが…」
アルフの瞳は少しだけ鋭かった。
険しい表情に、ノアは胸が苦しくなる。
そんな顔をさせている理由が自分にあるのかもしれないと考えるだけで、落ち着かない気持ちになった。
「アルフ…?」
名前を呼べば、すぐに目を合わせて見つめてくる。
自分を見てくれた安堵に胸を撫で下ろすこともできないままに、今度はアルフから問いを投げかけられた。
「ノア。お前……何か、身につけているものはないか」
突然の問いかけにノアは困惑した。
身につけているものなんて言われても、身に覚えはない。
他の村人と大差のない、むしろ装飾品は一切持たされていないため、今ではボロボロにされてしまった衣服と、母が編んでくれたヴェールや普段はその下に巻かれている亜麻色の布くらいだ。他の子どもたちは、村の祭事で手首や足首に綺麗な装飾を着けていることもあるし、セシルに関しては祖父から譲り受けたと言うこの村では貴重な腕時計を身に着けている。
「身につけてるもの?」
「何でもいい。幼い頃から持っている…宝石が使われた指輪、耳飾り、首飾り、時計…どんなものでもいい」
「なにも…お母さんとお父さんは、指輪つけてるけど…僕は、なんにも」
言いながら、自分の身体をまじまじと見つめる。首にも腕にも足にも、何一つ飾りなどない。
そもそも、この村に住む人々はみんな過剰な装飾など身につけられるほどの財力がない。
時々、鉱山から採れた原石をふらっと立ち寄ってくれる職人に宿代代わりに加工してもらうことはあるが、その程度だ。婚約指輪など以外には、宝石が使われた物なんて持っている方が少ない。
「高いものとか、子どもがつけたら余計に危ないって、みんな言って…」
「そうだろうな」
丸腰でも子どもと女は人質としても狙われやすいというのに、更に金品や金に変わる宝を身につけているともなれば、襲ってくださいと言っているようなものだ。
そんなこと、大人であるアルフは到底分かりきっているだろうし、現に自分の言葉に同意も示してくれている。それなのに、どうしてそんなことを聞いてくるのだろう。
(もしかして、助けてくれたお礼…?)
助けたのだから、相応の謝礼を寄越せということだろうか。
アルフはそれを要求するような男には見えないが、確かに、自分の命も危機に晒される可能性があった中で助けてくれたのだ、礼の一つしなければならない。それが、常識というものなのだろう。しかし、自分は何も持っていなかった。
「ごめんなさい。僕、何も…。家に戻って、お母さんとお父さんに聞いてみる」
「何を謝っている?」
「助けてくれたお礼…。あまり高いもの持ってないけど、頼んだらくれると思うから…」
「礼を受け取るほどのものじゃないと言っただろう?」
「でも、」
「まさか、助けた礼を俺が何か強請っていると思ったのか?」
「違うの?」
「……違う。だが──」
──ノアからは、良い香りがする。
慣れた、それでいて初めて感じる香りは、アルフの中にあったひとつの仮定を徐々に確かなものにさせていた。
しかし、それを確立させるには…この少年は、
(──あまりにも無防備すぎる)
だが、確かめなければ前には進めない。アルフの手が、ノアの頭へと伸ばされた。
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