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1章(5)

「あっ。これ、は…」 慌てたように、ノアが両手で自らの頭部に巻かれたリボンを押さえる。 花が主だろうか、細やかな刺繍が施された布は高価なものではないだろうが手の込んだ作りをしているようにも思えた。 唯一、…初めてノアが拒絶を見せたことで、アルフの中にある思惑がどんどん育っていくことには気づかないまま、ノアは必死に押さえた。 「見せてくれないか」 「取っちゃ、だめ、で…」 「両親からの言いつけか?」 「う、うん。セシルとも」 度々ノアの口から出てくるセシルという名前も、とうとう無視はできなくなったと思いアルフは尋ねた。 「セシルとは?」 「幼馴染みなの。この村で、一番偉い人の所の」 「……セシリオか。なるほど、お前が…」 「知ってるの?」 「いや。会おうと思ってはいたが…手間が省けそうだ」 アルフの言葉が理解できなくて、ノアは再び困惑した表情を浮かべた。 さっきまではあんなにも優しく、親切にしてくれていたというのに、今のアルフは分からないことばかり言ってきて少し困ってしまう。 どうやら、セシルを…村長の一人息子であるセシリオを少なからず知っているようだし、会おうと考えてもいたらしい。もしセシルに用があるのなら、自分はあまり当てにはされないかもしれない…ここで、お別れになってしまうかもしれない。 (本当に、どうして、僕…こんなことばかり) アルフに少しでも良く思われたいと考えるあまり、色々なことを、余計なことばかりを思いついてしまう。 そんな自分が恥ずかしくて、どうしてそう思うのか未だ分からなくて、どうすればいいのかと迷った末に俯いてしまった。 (アルフのこと、) 「好いているのか」 心を見透かされたかのようにアルフに言い当てられて、心臓がどきりと大きく跳ね上がった。 好き?アルフのことを、好きなのだろうか。 あの瞬間から好きになっていたのかと考えて、一層羞恥心に苛まれていく。 自分の気持ちを知られてしまったのかという動揺を隠すために、ノアはアルフの真意を知ろうと同じ言葉を繰り返した。 「すいて…?」 「セシリオのことだ」 「セシルの、こと…」 どうやら心を見透かされていたわけではないのだと知って少しだけ安心する。 安心するのと同時に、心のどこかが落胆していた。 理解できない自分の感情を、他者に明かしてほしかったのかもしれない。 セシルのことは好きだ。母や父の次か、同じくらいに。 幼い頃からずっと一緒にいて、困ったことがあればすぐに助けてくれた。そう思ってノアが口を開こうとすると、アルフが片手でそれを制した。 「……いや、それはいい。だが、まあ…俺が信じられないか、当然だな」 「そういうわけじゃなくて、」 「いいんだよ、他人を簡単に信じてはいけない。さっきだって酷いことをした人間がいただろう…俺も同じかもしれないのだから」 「そんなことない!」 思わず、本当に咄嗟に否定の言葉を口にする。 アルフが酷いことをする人間であるはずがない。だって、怖くてもうだめだと泣いていた自分を助けてくれたのだ、酷い人なわけがなかった。酷いことをする人間とは、自分を襲ってきた野盗のような男たちのことを指すのだ、そうに違いない。だから、アルフが酷い人間に当てはまるはずはない。 しかし、アルフは小さく笑ってノアの言葉を聞いてから首を横に振った。 「簡単に信じてはいけないよ」 「だ、だって、助けてくれて」 「良い人間の振りなんて、誰でもできる」 「良い人、だよ…」 思わず俯く。 どうして、そんなことを言うのだろう。アルフは良い人なのに。 「お前を油断させて、酷いことをしようとしているのかもしれない」 「そ、そんな…こと、」 「怯えなくていい。そんなことはしないよ」 「う、ん…」 涙が浮かびそうになった瞳がつやつやと揺らめくのを見たアルフが否定をする。 それを聞いて安心したかのように、ノアは小さく頷いた。 酷いことなんて、嫌だ。どこかに連れて行かれてしまうのも。 そんなのは嫌だ。きっと母や父と会えなくなってしまうし、怖いことをたくさんされるに決まっている。 「ああ…良い人じゃなくていい」 「え……?」 しかし、様子を変えて囁かれたアルフの言葉にまたしても動揺する。 先ほどまでとは明らかに変化した、アルフの声と、その瞳に、ノアは囚われたかのように息が詰まった。 「お前のことが気になって仕方がない…お前のことを知りたい」 「僕のこと?」 「俺に、お前を見せて欲しい」 「でも」 アルフの瞳が真っすぐにノアを貫いた。 「俺にだけ…お前の全てを、見せてくれないか」 ノアの丸い頬は赤く染まっている。 こんな風に、艶めいた声で誰かにひっそりと囁かれたことなんて、一度もない。 経験のないことは、人間にとっては未知の感覚として刷り込まれ、時には理性を削り落としていく。 まるで特別な関係にあるかのように、心からの情を注ごうとしているかのように、アルフの声は真摯で耳に残るものだった。 ──もう一押しすれば、その防壁は崩れるとアルフは直感で思った。 「二人だけの秘密だ」 その言葉を聞いたノアが、俯かせていた視線を上げた。 「二人だけ?」 「俺とお前だけの、秘密だ…誰にも言わない」 「ほんとうに?」 「ああ。約束するよ」 アルフの言葉を聞いたノアの小さな手が、動いた。 少し迷いを見せながらも、両手を頭の上まで伸ばし、自らの頭を覆っていた布を解いていく。 その動きを、アルフレッドが手伝うことはなかった。その必要がなかった。 ノアは、自分からその装いを解き始めた。 亜麻色の髪が風に揺られ、何も施されていない、飾り気のない石鹸のような涼やかな香りに甘さが混ざり合い、アルフの鼻腔をくすぐった。 良い香りは、この子からずっとしている。 言い表すことのできない特別な香りだった。 「みんなと、違うから…変だって言われるから、隠してなさいって」 額よりも上、前頭部に、それはあった。 美しい水底、海の底のような深みと美しさを思わせるような宝石が、光を浴びて何ものも寄せ付けない圧倒的な輝きをもって存在している。 どんな宝石よりも上回る美しさは、各地を巡ってきたアルフでさえ今まで見たことがないようなものだった。 「ああ…美しいな」 正直に、心から感じたことを口にしたようなアルフの言葉に、ノアは自分の胸が歓喜にざわめくのを自覚した。 誰かに、特別褒められるなんて滅多にない。 周りの友達や大人はみんな優しくしてくれるし、良いことをしたら褒めてくれる。 しかし、アルフの口から紡がれる艶を含んだ声と言葉は初めてで、鼓動がどんどん早まっていくのを感じた。 「ほ、ほんとう?」 「本当。今まで見てきたどんな宝石よりも美しい。お前によく似合っている」 「そ、そんな、こと、」 「あるぞ。宝石だけ綺麗なんじゃない…お前は宝石よりも優っている、その瞳は特に美しい」 「う、うそばっかり」 正面から賛辞の言葉を浴びせられて恥ずかしくなるのと、嬉しい気持ちでいっぱいになると共に、本心から言ってくれているはずがないのに舞い上がってしまう自分に嫌気が差しそうなる。 きっと、この人を求める人はたくさんいる。いろんな女性が放っておくはずがない。 自分に気があってこんなことを言ってくれているはずがないことなんて、世間知らずな自分でも理解できることだった。 宝石を隠すように、淡い色のヴェールを頭に被せられる。 亜麻色の小さな頭が、向こう側が少し透けるほど薄い布で覆われた。 「花嫁みたいだな」 「や、やだ、そんな」 「悪かった。俺には勿体ないな」 「ちが…っ!ぼく、そんな…そんな風に言われるような、ものじゃ」 「花嫁と言われたのが嬉しかったのか」 違うところを指摘されて、一瞬で頰が熱くなる。 別に花嫁だと言われて喜んだわけではないというのに、真剣な眼差しでそう言われて恥ずかしくてどうしようもなくなってしまいそうだ。 「ちがくて!目が綺麗とか、そんな、思ってもいないのに」 「ああ。お前の瞳は美しい。天から地上に落ちてきた星のようだ」 「うそ、思ってもないことばっかり…」 「俺は正直な男だ。思ったことしか口にしないぞ」 うそ、嘘つき、と心の中で繰り返す。 自分を相手にそんなロマンチックな言葉を繰り返すほど時間を持て余しているのだろうか。 しかし、そんなはずはない。探し物はなるべく早く見つけたいだろうし、セシルにだって早いうちに会って話を聞きたいだろう。 それなのに、どうして…どうして、こんな所で、…自分を喜ばせては勘違いさせるようなことばかり言葉にしてくるのだろう。 アルフの手がノアの頰へと伸ばされた。 「や、やだ、やだ……」 「嫌なのか」 「だって、恥ずかしい」 「恥じることじゃない」 「知らない、そんな、ぼく、…そんなの、分からない」 ノアの顎が掴まれる。 「分からせてやろうか」 ぐ、と上向かされてアルフの綺麗な瞳と真正面から見つめ合う羽目になる。 ノアの濡れた瞳は動揺を色濃く表しているかのように揺れ惑っていた。 アルフに真っ直ぐ見つめられると、途端に動けなくなってしまい、思考が働かなくなっていく。まるで何かをされたかのように、指先ひとつまでピクリとも動かなくなり、全身が固まってしまう。 「なに…?」 「そんな不安そうな目で見るな、まだ何もしない」 ノアは今にも泣きそうな顔をしながらアルフを見返していた。 苦笑のような、諦めのような、難しい笑みを浮かべてすぐにアルフの指はノアを解放した。 アルフの体温が離れていくのを名残惜しいと思うのは、おかしいことなのだろうか。 怖いし、意味が分からなくて、どうすればいいのか分からないのに、アルフが離れていくのはなんだか切なかった。 「……離れ難いな」 低く、細やかに呟かれた言葉を聞いて自分の耳を疑った。 自分にとって都合の良いように耳が捉えてしまったのかと思って、不安げな瞳でアルフを見上げる。 「え…?」 「お前とここで離れてしまうのが、寂しいと言ったんだ」 「う、うそ、つき…」 「嘘じゃない。お前はどうしても俺を嘘つきにしたいのか、それともそう言ってまで俺と離れたいのか」 「ち、ちがう!」 離れたいなんて、思うわけがない。 でも、アルフの言葉はきっと本心じゃない。 自分を相手に、そんなことを思ってくれるはずがない。 きっと、何もわからない相手にそんなことを言って、本気にする反応を見て愉しんでいるのだ。本気にしなければ、傷つくことはない。やっぱり冗談だったのだと、後から自分に言い訳して悲しい思いもしなくていい。 本気にしてしまえば、きっと後で後悔する。やっぱりからかわれていただけなのだと、やるせない思いでいっぱいになる。だから、本気で信じてしまいたいと思っている今のうちに、まだ信じきっていない今、アルフから離れなければならない。 (離れる…?) ───せっかく会えたのに? 「お前はどう思っているんだ」 追い討ちをかけるように、アルフが言葉を投げかけてくる。 「わ、わからな…っ」 分からない、分からない。 どうしたらいいのか、どうするべきなのか、分からない。 自分の気持ちが全く分からなくて、アルフに聞かれても答えられるはずがなかった。 訳がわからず、アルフから離れたくないと思う一方でこの場から逃げ出したい気持ちが迫ってきて、意味のある言葉がせき止められていく。 辛うじて目を逸らして、アルフの射抜くような視線から逃れた。途端に、アルフに手首を捕まえられてしまう。 「目を逸らすな」 「や、やだ、やだっ、そんな、風に…見ないで」 「どんな目をしているんだ」 「わか…な、い…」 アルフの目があまりにも真剣で、本気で言っているのだと思わせるもので、身体が震えた。 恐怖とは違う。唇まで小さく震えているのは、歓喜しているからだと、ノアは気づけなかった。 「お前はどう思っている?」 「だめ、みみで、喋らないで…」 「俺と離れたいか」 「やだ……っ」 ノアは何を考えるでもなく、言葉を口にしていた。 何も考えていなかった。本当に、意識の外から勝手に口が動いていた。 「俺と……一緒に、いたいか」 「……っ」 自分の息を呑む音が聞こえる。 嫌に大きく響く音にすら追い詰められる。心臓が壊れてしまいそうなほど速く、激しく鼓動を繰り返しているのがよく分かった。耳の裏で、脈打つ音が驚くほどはっきりと聞こえていて、熱くて熱くて仕方がない。 「ノア」 名前を呼ばれては、もうだめだった。 「一緒、に……いた…、」 ノアは唇を震わせながら、確かに口にした。 アルフの親指の腹がノアの細い手首の内側を撫でる。その少しの触れ方だけで、ノアは胸の奥をくすぐられているような感覚に襲われた。 「俺と一緒においで。連れて行ってあげるよ」 「で、でも、お母さんとお父さんが、」 「心配するな。なんと言おうか」 アルフと、一緒に…どこへ、行くのだろう。 それすらも分からないのに、どうして一緒にいたいなんて言葉を口走ってしまうのだろう。 アルフの存在でいっぱいにされ、困惑しきったノアの脳裏を唯一過ぎったのは、見慣れた姿だった。困った時に頼ることができるのは、幼馴染みだ。 「セシル…セシル、に…相談、しないと」 「何故?」 「何かあったら、絶対に言えって…」 何か変わったことがあった時、困ったことがあった時、悲しい時、…どんな時でも、何か話したいことがあったらすぐに言えばいいと、会いに来い、会いに行くと言われている。 だから、セシルにまず会いに行って、相談した方がいいのだと思った。アルフと一緒にいたいと思っているのは変わりない、どんなに否定しても、誤魔化しても離れたくないと思っている自分がいるのは間違いない。 しかし、どこに行くのかも何もかも分からない中で、自分だけで結論を出すことはノアにはまだ難しかった。 加えて──。 「それに、ずっと、これ調べてくれて…だから、セシルのところに、」 自らの額の少し上で輝く宝石に、指先を這わせる。 セシルは、ずっとノアの宝石の正体を調べてくれていたし、誰にも言ってはいけないと助言までしてくれた。 誰にも相談しないで、額の石のことをアルフに話してしまったことを謝って、どうしたらいいかと相談しなければならないと考えた。 そんな、幼馴染みのことを思うノアの様子に、目の前の男が険しい表情をしていることに、ノアが気づくことはできなかった。 「───ノア」 アルフに名前を呼ばれて、混沌を彷徨っていたノアの思考が引き戻される。 目前には、厳しい…それでいて、少し葛藤しているような、ノアには理解しきれない複雑な表情をしたアルフがいる。 「なに……?」 「お前、今まで……好きになった人間はいたか」 「すき?」 ノアはアルフの言葉を繰り返すことしかできなかった。 「『番』を…結婚を約束した人間は」 「い、な…いないっ」 「好きに…好きだと思ったことは?」 「───っ」 好きだと思ったことなんて、アルフに聞かれたら困ってしまう。 だって、──。 「ノア。答えるんだ」 両手首を掴まれて、背後の大木に押さえつけられる。 「や……なん、で…?そんなこと、なんで…」 アルフが覆い被さる体勢になっているせいで、影が落ちてきて視界が薄暗くなってしまった。 逆光になっているのもあり、アルフの表情が見えづらくなって心許ない気持ちに襲われる。アルフが何を考えて、何を思ってこんなことを聞いてきているのがちっとも理解できない。 やっぱり、自分をからかっているだけなのだろうか、「一緒においで」という言葉は嘘だったのだろうか。 「ア、アルフ……っ」 堪らなくなり、その名前を必死に口にした。 切羽詰まったようなノアの声に、しかしアルフは何も返さなかった。 だって、こんなところで好きだなんて言ったらきっとおかしいと思われる。 男同士なのだし、年の差だってある。 何より今日初めて言葉を交わした相手なのだ、そんな人を気になると言っても、相手にされるはずがない。下らない戯言だと一蹴されてしまう。相手に落胆されることを、失望されることを恐れている時点で、ノアの気持ちが明らかになっていることに気づいていないのは、本人だけだった。 彼は、一度だけ動きを、視線の動きを止めた。 ほんの僅かな間だった。 「──ノア。お前を抱いて連れて帰るぞ」 アルフに覆い被さられ、両手を捕らえられたままその強い眼差しに射抜かれる。 言われた言葉の半分が理解しきれなくて、不安に揺らめく瞳でただただアルフを見上げていた。 「え……?」 「お前を、俺の番にする」 「つがい……」 「理解できないか?」 番と言われても、何を意味しているのか分からない。 アルフの言葉は、さっきからずっと難しくて自分の頭では全く理解ができなかった。 それが、自分がまだ大人になりきれていないせいなのかと考えて嫌になる…アルフのことを理解できなくて、悲しくなる。 きっと、大人なら…もっと賢くて、色々なことを知っている人なら、アルフのことを理解できたのだろう。自分には、それができないのだと言われている気がして、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。 しかし、次に言われた言葉にノアは一気に顔を青ざめさせた。 「ここで、お前を抱く」 はっきりと言われた言葉に衝撃を受けて、ノアはしばらく唇を戦慄かせることしかできなかった。 視線を彷徨わせ、自分の頭の中で何度も何度もその言葉を反覆させるものの、アルフの真意は全く見えてこない。むしろ、ますます謎は深まっていくばかりで、理解からは程遠い位置まで来てしまっている。 アルフと、身体を重ねる──? 「や…なんで…なんで……っ?」 なんとか絞り出した弱々しい声で尋ねながら、小さな抵抗と言わんばかりに身を捩った。 だがアルフの力に敵うはずもなく、手首を掴んだ手に更に力を入れられて身動きがとれなくなっていく。 「必要性があるからだ」 「必、要……?」 そんなこと言われても、自分にはどうしようもできない。 さっきの野盗も同様のことをしようとしてきたが、自分にできるはずがないのだ。 ノアは弱々しく、しかし何度も何度も首を横に振りながら拒絶と不可能を懸命に訴える。 「で、できない、できないよ…っ」 「何を根拠にそう言っている?」 「だって、ぼく…っ、おと、こ…」 「そんなことは見れば分かる」 男同士で性行為はできない。 特別そうした分野の知識に富んでいるわけではないものの、自分とアルフでは身体を繋ぐことなどできやしないのだ。 女性が相手でなければならない。それに、アルフならきっと、声をかけられるのを待っている女性は大勢いるはずだ。何も、こんな田舎の人間を誘う必要なんて絶対にない。 都会の、綺麗な女性と、きっと──。 ……でも、その姿を想像すると、胸の奥がどうしようもないほどに苦しくなる。自分の手では届かない場所が、痛くて苦しい。 「お、女の人とじゃないと、こういうの…っ」 「可愛いらしい考え方だが。──まさか、本当に自覚がないのか?」 ノアが必死に訴えるものの、アルフは怪訝そうな顔で見つめてきてまたもや困惑する。 自覚の有無を問われても、何の自覚なのか分からない。 なんだか、苦しい。胸の中の深く、手の届かないところがきつくて苦しいようだった。アルフの言葉が、行動が何一つ理解できない、こんなの……嫌だ。 「な、なに…?」 「お前、『オメガ』だろう」 「オメガ……?」 「……自覚の有無ではなく、何も知らないのか」 アルフが表情をより一層厳しくさせる。 何も知らない、という言葉にノアが傷ついていることなど、彼は想像もしていないだろう。 アルフの片手が伸ばされるのに気を取られているうちに、もう片方の手で耳を丁寧になぞられた。悪寒とは違う、背筋をもどかしい感覚が這っていくのに全身を震わせて身を捩る。 「ひ、やっ、くすぐっ、た……っ」 「性的接触を受けたこともないようだな」 「なに…?どういう、意味……?」 後頭部に片手を添えられ、そのまま顔を寄せられる。 自分の首の後ろ側…項のあたりに、温かい感触を感じて僅かばかり身じろいだ。 「項を噛まれる恐怖も知らないか。本当に、何も…」 そこを撫でているのがアルフの唇だと気がついて、一瞬で全身に熱が灯されていく。 「あっ……」 痛みはないものの、項を唇で少し吸われ、むず痒いような感覚が走って思わず声をあげてしまった。 「オメガのお前は、『アルファ』である俺と性行為をすれば、その身に子を宿すことだってできる」 まだ、無理だと思うがな。 付け加えられた言葉に、安心できるはずもなく、突きつけられた事実にノアは狼狽えた。 そんなはずはない。妊娠するのは女性だけだ、自分ができるはずがない。ノアは混乱に瞳を大きくさせアルフを見上げる。 「な、なんで…っ?」 「何でと学者でもない俺に問われても、正確な答えは与えられないぞ」 混乱の淵に叩きつけられたノアを慰めるように髪を一房摘み、丁寧に弄ぶ。 「今まで誰にも知られなかったことに驚いたがな。……いや、村全体がそうだったのか」 自覚もなければ、もしかしたら発情期ヒートすら迎えることなく、本当にオメガであると気づくことなく一生を終えていた可能性もあったのかもしれない。 その方が、知らずに生きられた方が、ノアにとっては幸せな人生だったかもしれない。 しかし、可哀想だと同情し庇護してやることだけをするわけにはいかない。どれだけ酷い男だと、情がないと罵られようとも、この少年を手に入れなければならない理由がアルフにはあった。 「男なのに…」 「女じゃないからではない。お前がオメガだからだ」 「オメガ…?知らない、ぼく、そんなの知らない。だって、なにも…」 「お前だけじゃない。この村に住む人間全員、知らなかったんだろう」 (セシル──セシリオという人間は、何かしら知っていた可能性はあるが) しかし、ここでそれを言ってしまえば、ノアは更に混乱して泣き出してしまうかもしれない。 そう思ったアルフは、ノアの頰を、首筋を指先で撫でていくだけに留めた。 くすぐったいような感覚に震えたノアが、もぞもぞと身体を動かしてアルフから逃れようとする。 「抵抗をするな。したところで意味などない、俺に任せていればいい」 アルフが逃してくれるはずもなく、ノアはアルフの視線に絡め取られる。 アルフに見つめられると、アルフに耳元で囁かれると、身体が熱くなって頭がぼう、としてしまう。 指先にまで力が入らなくなっていき、呼吸がどんどん苦しくなっていく。 こんなのおかしい。おかしいのに、アルフから離れることができない。できないというよりも、離れたくないことにノアは気づけなかった。 「アルフ……ど、どいて…お願い、ぼく、」 「どうやら、オメガとしての本能的恐怖はあるようだな」 「アルフ…!」 強く抱きしめられる。 背中を大木に押さえつけられたまま、息がつまるほど強く抱かれて頭が余計に混乱してしまう。 こんな、情熱的に、愛しているかのように力強い抱擁をされると、頭も身体も自分の言うことを聞かなくなるような、制御できなくなるような熱に支配されていく。 アルフに抱きしめられて、身体も心も悦んでいるのを誤魔化すことはできなかった。 きつく抱きしめられて、これ以上ないほどの幸福感と充足感に満たされていく。こんな感覚は生まれて初めてで、恐ろしくて仕方がなかった。 「や、やだ…なんで…? ぼく、なんで……」 なんで、こんなに悦んでいるのか、分からない。分からないことは、恐ろしかった。 「……お前を、愛しているからだ」 耳元に寄せられたアルフの唇から漏れる吐息が耳朶を掠める。 低く、色気を含んだ声にぞくぞくと肌が粟立ち、ノアの口から勝手にか細い吐息が溢れ出ていった。 「あい……?」 「やがて結ばれるべき番だ。俺はお前を好いている、だからお前をこのまま連れて帰りたい」 「うそ…っ!」 そんなの、信じられるはずがない。 都合のいい夢を見ているような言葉に、ノアはかぶりを振った。 今日、初めて話したアルフに…自分は危機を救われて、村では見ないような人に魅了されるのは十分あり得る。しかし、アルフは…きっと、相手なんて選び放題なアルフが、こんな、何も持っていない、自分を好きになるはずがなかった。アルフの愛しているという言葉は、ノアにとって到底信じられるものではない。 「嘘じゃない」 「だって、ぼくなんて、好きになるはず…!」 ノアの身動ぎは全てアルフの腕の中に抑え込まれた。 「一目見た瞬間から、俺の心はお前に奪われている」 それを聞いた瞬間、声が出てこなくて、息が漏れる音だけが唇の隙間から過ぎていく。 (一目、見た瞬間から…?) その言葉に微かな希望を見出す。 アルフも、そう思ってくれていた?自分を知ったその瞬間から、覚えていてくれている? アルフの言葉に心を奪われたノアは、抱擁が解かれた後も身動き一つとることができなかった。 「う、ん……っ」 しかし、剥き出しの宝石に口づけをされた瞬間に、全身から力が抜けていくような甘い痺れが走った。 今まで聞いたこともない甘えるような自分の声に驚くものの、コントロールすることができない。 「ふ、あ……っ、ぁ、」 熱い、人の熱を灯したアルフの唇が光を受けて煌めく宝石の表面を撫でていく度に、ノアは身体を小さく跳ねさせては痺れていくような感覚に怯えた。 「あ、や……っ、アルフ…!」 「どうした」 「…っ、……なんか、へん…っ」 「変じゃない、大丈夫だ」 オメガにとって、アルファの体液は極上のものだろう。 どうやら宝石の部分は自らの身体のように敏感なようで、唇で触れるだけで良い反応を返してきた。 ──この宝石は、少年の身体と密接に結びついている。完全に、同一化している。 そうであれば、やはりここで事を進めなければならなかった。 決めたアルフの動きは、早かった。 「ノア」 名前を呼ばれ、ノアは顎をすくわれる。 そのまま迫ってきたアルフに気がついて、ノアは後ろへ逃げようと動いた。 「だめだ、逃げるな」 しかし、アルフの腕にすぐ拘束されて、至近距離から見つめ合うことになってしまう。 紅柘榴石レッドガーネットのような二つの瞳が、自分だけを見つめている事実に何も考えられないほど嬉しくなっていく。顎を掴まれ、一気に近づいたアルフの気配に怖くなって、怯えきった眼差しを向けた。 「ん、ゃ……っ」 「キスをするときは目を閉じろ」 今にも唇が触れそうな、アルフの吐息を唇に感じるほどの至近距離で囁かれる。 自分の、速すぎる心臓の音まで伝わってしまうのではないかと不安に駆られるほど、誰かとこんなにも近い距離まで密着したことがなくて、多くの感情がごちゃごちゃに入り混じってはノアを追い詰めた。 「ん……ッ」 恐る恐る瞼に力を入れて、その瞳を覆い隠した。 そうしてすぐに、自分の唇が温かいもので覆われて、全身が強張る。物心がつく前は分からないが、唇にキスをされるのなんて初めてだった。 温かくて、何とも言えない柔らかな感触と触れ合っているだけだというのに、混乱していた。どうすればいいのか分からなくて、ぎゅっ、と閉じた瞼につられるように唇も固く閉ざしてしまう。 「……力を入れすぎるんじゃない」 一度唇が離れて、互いの姿が瞳の中に映るのが見える距離から見つめては、アルフが言う。 そんなことを言われても、キスをするのが初めての自分には、どうすればいいのか一つも分からない。そんな様子に気がついたのか、アルフは呆れることも怒ることもせず、指先でノアの小さな唇に触れた。 「唇を開けて」 「うぅ、ん…っ、ん、あ……っ」 「余分な力を抜いた方が、お前も気持ちが良い」 力なんて抜けるはずがない。誰かとこんなにも密着し合うことすらしたことがないのに、アルフとこんな風になってしまえば、緊張しすぎておかしくなりそうだった。 それなのに、アルフの唇が角度を変えながら啄ばんで、密やかな音を立てながら交わりを深くされると、甘い感覚がじわじわと全身に広がってくるのだ。 その感覚に身を任せるように、アルフとの口付けだけを感じていると徐々に身体から力が抜けてきていることを、ノアは自覚していなかった。 「ふ、あっ、……ん…」 「…良い子だ」 褒めるように髪を撫でられ、指先で耳をくすぐられて感じる気持ちの良い感触にどんどん陶酔していく。先ほどまでとは違って、今度は自分からうっとりと目を閉じて、口付けを受け止めていた。 「お前を、番にするよ」 「つが…ぃ、ん、んぅ…っ」 いつの間にか肩にかけられていた外套は引き剥がされ、地面へと敷かれていた。 その上へ丁寧に、かつ有無を言わさぬ強引さを持ち合わせた力でゆっくりと押し倒される。 「あ……っ」 不安に支配された、泣きそうに歪む顔はまだ心許なさでいっぱいだった。本能的に逃れようと動いた足は片手だけで押さえられ、両足の間をアルフの身体が割って入って完全に動きを封じられてしまう。 「何も分からなくていい。──お前は、可愛らしく喘いでいろ」 頰をひと撫でされ、恐ろしいほどに整ったアルフの顔が寄せられた。 整わない呼吸さえも奪うように、唇を合わせられる。 温かく、柔らかな感触に覆われて嫌だと思うことはおろか、一気に胸の内側が満たされて……喜んでいる自分がいることに、ノアは戸惑いを隠すことができなかった。

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