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1章(6)
何を考えればいいのか、分からなかった。
頭の中はぐちゃぐちゃになっていて、手足も指先も全く動いてくれない。
動くための命令を、脳が下すことができていないのだ。
思考が機能しなくなり、それでも今この場で考えなければいけないことは多くて、丸い瞳をより一層大きくさせたまま惑乱に満ちた眼差しを目の前の男に向けた。
一度は、危機が去った。
男たちに追いかけられ、ナイフを向けられ、強姦されそうに、命を奪われそうになったところを助けられた。
感謝してもしきれないほど、今、目の前にいる男には救われた大きな恩がある。そうして危機は去っていったというのに、どうして…どうして、こんなことになっているのか、訳がわからなかった。
知らないうちに何か悪いことをしてしまったのだろうか、それが気に食わなくてこんなことをされているのだろうか。さっきまでは命を助けてくれた恩人で、陽が落ち薄暗くなってしまったこの場において、これ以上頼りになる存在はいないと思ったのに。それなのに、どうして。
「っ……」
自分のよりも大きなアルフの手のひらが、そっと肌蹴た胸に置かれた。
「キスをするのも初めてだったんだろう、鼓動が早い」
想像よりも熱いそれに驚いた自分の身体が跳ねてしまう。
鼓動が激しいことは自分でもよく分かっていた。
張り裂けそうなほど強く、すぐ近くで大きく響いているように心臓が激しく働いているせいで全身が熱かった。恐らく、アルフの手よりもずっと熱かった。
「っ、あ……」
アルフはそれを手のひらを介してわかったのだろう。乱れた衣服の間から覗く白い肌の上を、添えていた手のひらではなく人差し指でなぞられ更に呼吸が乱れていく。
「や、ん……ッ」
視界は薄暗い。
日没の時間だからという理由だけでなく、アルフに覆い被さられているせいだった。
薄い、筋肉があまりついていない線の細い身体を丁寧に撫でながら、アルフが見つめてくる。
陽が沈んで、もう気温も下がり始めてきたというのにじっとりと湧いて出た汗は一向に引いていかない。
僅かばかりに、辛うじて残されている布きれのようになった服が、汗ばんだ肌に張り付いていて気持ち悪かった。
「おか、しい…」
肌に触れる体温に吐息をこぼしながらも弱々しく首を横に振り、ノアは声を振り絞った。
突然様子を変えて、自分にキスをしてくるアルフは絶対におかしいと思った。
初めて話したばかりの人間にキスをしてくるなんて普通はない。母や父が幼い頃によくしてくれた、頬や額へのキスとは明らかに違うことなど、ノアでも分かった。
「どうした」
「おかしい、おかしいよ…こんな、だって…」
───アルフに、突然キスをされて喜んでいる自分が、おかしいと思った。
「お、同じ…?さっきの人たちと、同じなの…?」
戸惑う瞳でアルフを見上げれば、何一つ様子を変えることなく自分を見下ろしている瞳と視線が交わった。
叶うことなら、アルフの口から違うと断言してほしい。
冗談だと、からかっただけだと言っても良いから、自分の上から身体を退けて、あの男たちとは違うのだと一言言ってほしいとばかり願った。あんな酷いことをしてきた野盗たちと同じことをしようとしているのだと、少しでも思いたくない。
(でも、)
全てを冗談だと言われるのは、悲しかった。
一緒においでと言った言葉まで、自分をからかうためのものだったら、嫌だった。本気にしてはいけないと思っていたのに、嫌だと思うほどまでには本気にして受け止めている自分がいることは隠せない。
しかし、アルフは真っ直ぐに見つめたまま尋ねてきた。人差し指をノアの顎に添え、親指の腹で下唇に触れてくる。
「お前には、どう見えるんだ」
「どう…?」
「さっきの男たちと、俺は同じだと思うのか?」
「そんな、ずるい…!」
質問したのは自分の方なのに、質問に質問で返されてノアはかぶりを振った。
「ずるいよ…分からないから、聞いたのに…」
「自覚はしているよ」
アルフは小さく、苦笑するかのように笑って、今度は親指の腹でノアの頬を優しく撫で上げた。頬から目元まで、ゆっくりと撫でていく指の感触が気持ち良くて、ノアは少し黙り込んでしまう。
実際に見たことがないため想像にはなるものの、彼は貴族にも見える優雅な雰囲気を醸し出す美麗な容姿である。
それでいて、複数人を相手にするという不利な状況下でも男たちを退けた実力の持ち主でもある。その力は、もしかしたら、どこかの国の武人なのかもしれないと考えれば納得もいく。
しかし、戦う男の指にしてはあまりにも綺麗で、触れられても全く嫌な感触がなくてやっぱり違うのだろうかとも思った。
日頃から農作業に励んでいる父や母の手ですら肉刺だらけで、皮が切れたりして触られるとガサガサとしていて少し痛いのだ。
でも、そんな手が好きだった。
頑張っている、いつも自分に優しく触れてくれる大好きな手だった。
アルフの手はそんな両親のものよりもずっとずっと美しい。農作業どころか、武人であればなおさらこんな綺麗な手をしているはずはなかった。
正体が掴めない。貴族でも騎士でも、何にでも見えた。でも、何にでも見えなかった。
「アル、フ……」
結局、嫌だと思って拒んでいるはずなのに、優しく触られるだけで抵抗する気力が奪われていることに後から気が付いて、何もできなくなってしまう。小さくその名前を呼ぶことしかできなかった。
(同じじゃ、ない…?違う……?)
今も身体を押さえつけられてはいるが恐怖心を与えるだけの力ではなかった。
野盗のように、強引に押さえつけ、衣服を切り裂きナイフを向けてもこない。
訳の分からない状況であることは同じだというのに、ただ怯えるだけにもならなかった。
怖いことに、意味が分からないことには、変わりないはずなのに。
アルフが、強引さを持ちながらも、こうして痛いことをせずに優しく触ってくるから、余計に混乱していった。
怖い言葉をかけながら、自分に襲い掛かってきた男たちとは様子が違うから、心から恨むこともできない。彼らとは、どこかが違うのだ。それだけは、ノアにも何となく分かっていた。
でも、だからといって、本当にここでアルフと身体を重ねるなんて簡単に受け入れられるはずもなかった。
「やだ、嫌…、アルフ、お願い」
どうにか身を捩って彼の手から逃れようと試みるものの、その拘束が緩むことは一寸たりともない。
ノアは自分の片方の指先で、胸元に置かれたアルフの手の甲に触れる。筋張った関節の部分をなぞるようにしながら、懇願した。
「何か悪いことしたなら、謝るから…こんな、こんなの、いや…」
「やめるつもりはない」
「………っ」
何度目かになる拒絶の言葉だけでなく、心からの懇願も、はっきりと切り捨てられてノアは狼狽えた。
アルフの手が、辛うじて残っていたノアの衣服をゆっくりと剥がしていく。
夜が近いとは言え、まだうっすらとした…沈みゆく太陽の頼りない光がある中で、他人の目に自分の肌が晒されていくのに強い羞恥心を抱き、ノアはどうにかやめさせようとアルフの手に今度は自分の両手を添えた。
「アルフ、やだ…はずか、し……っ」
これ以上暴かないでほしい。
だって、幼子とは違い今はもう家族にだって自分の裸なんて見られることがないのだ。
それなのに、少し心を奪われたとはいえ他人であるアルフに自分の肌を見られるなんて、恥ずかしくて仕方がなかった。しかし、強引に進められることへの恐怖ではなく、彼に見られることが恥ずかしいという思考を持っていることのおかしさには気づけずにいた。
「ひぅ…っ」
いきなり耳朶をやんわりと食まれて情けない声が漏れる。
経験したことのない感覚に戸惑い、柔らかい耳にアルフの体温がじわじわと侵食してきて身を震わせた。
「何も知らなくても、感度は良さそうだ」
「や、だ…やめて…!」
すぐそこで濡れた音が響く。
耳を甘噛みされて、熱い舌が形に沿って這わされていく。気持ち良いのか気持ち悪いのかも判断できない何とも言えない感覚に、肌がふるりと震えた。
「あっ、……ッ…!」
柔らかい唇が耳を食む感覚が走ってきて、ノアは身をすくませて両膝を擦り合わせる。
事実、ノアは何も知らない。他人に身体を触られて、未知の感覚を徐々に引きずり出されていく経験を未だしたことはなかった。
「ぃ、いや…っ」
恩人だと、思っていたのに。
自ら行為を受け入れられるほど寛容でも、大人でも、常識から逸脱もしていなかった。
強引に迫ってしまえば、自分の言いなりになると思われているのだろうか。命を助けてくれた恩人に、こうして迫られることになるなんて予想していなくて、あんなにも感謝していた気持ちに曇りが混ざり始める。こんなの、裏切られたにも等しい。優しい人だと、頼りになる人だと、自分を助けてくれた…良い人、だと、信じていたのに。
「ん……っ」
アルフが、布に覆われていない脹脛から太腿にかけて手のひらを滑らせていく。
膝裏を弄り、そのまま太腿へと熱が移動する。
内腿をやんわりと少し揉まれて、そのまま衣服に隠された脚の付け根までアルフの手が這い上がってきて、ノアは全身が熱くなっていくような感覚に無意識で吐息を漏らしてしまう。
「柔らかくて滑らかで…悪くない肌触りだ」
「はあ、ぁ…っ、ん」
無自覚だったせいで、自分がどんなか細い声を漏らしているのか分からなかった。
しかし、アルフに触られた場所が熱くて気持ち良くて、引きずり出されるように自分が声を上げている自覚はあった。
「なかなか色気のある声を出す」
「嫌…!」
顔を寄せられ、耳元で囁かれる。
耳にアルフの唇を感じると、先程口に含まれて舐められた感覚を思い出してしまい頰を熱くさせた。
「悪いことじゃない。そのまま聞かせてくれればいい」
「ぁ、……っ」
恥ずかしい気持ちとこの場から逃げてしまいたいという気持ちが合わさって、ノアは顔を横へと背ける。焦燥と不安と羞恥に襲われているノアとは裏腹に、すぐ目の前には名もない小花が咲いていた。
自分で自覚をしていないのに指摘を受けて、途端に羞恥心に襲われていた。
色気なんて言われても、今までこんなことされたことなかったし、艶めいた声なんて出したことも聞いたこともなかったからどんなものなのか全く分からなかった。今まで十数年生きてきて艶聞が立つようなことなど一つとしてしたことがなく、周りでそうした場面に遭遇することはおろか話を耳にすることもなかった。
つまるところ、ノアは娯楽ひとつない小さな田舎村で両親に育てられ、荒波に揉まれることもなく至って平穏な生活だけを送ってきたのだ。家で普段していることといえば、動物たちの世話くらいだ。そんな少年が突然こんなことをされて、戸惑ってしまうのは当然の結果だった。
「は、ふあ……ン…」
露出した脇腹から下腹部を優しく撫でられる。
そこから腰までアルフの手は這っていき、時折指先でくすぐられてノアは腰を捩らせた。
その手つきにはずっと乱暴さがなくて、混乱する。野盗たちには荒々しく触られるのが痛くて嫌で仕方なくて、早く逃げたい気持ちでいっぱいだったのに、今は違う。慰めるように優しく触られて、自分が勘違いしてしまう前に逃げたい気持ちでいっぱいだった。
「んっ、やあ…っ」
未だ完全な大人になりきれていない身体が男の手でゆっくりと拓かれていく。
アルフの思わせ振りな手つきに翻弄され、抵抗が弱まっている隙を突かれる。大胆な手に臍下を撫でられ、ぐ…、と少しだけ押された。
「あっ、ん……!」
熱く、湿った吐息が首筋を掠めては鎖骨に唇が吸い付いてきて声をあげる。
鼻にかかったような自分の声を今度こそはっきりと自覚して、驚くと同時に羞恥心で泣きそうになった。
「もう、やだ…っ」
「まだ何もしていない」
十分にしている。アルフにとっては些細な戯れでも、ノアにとっては初めてのことだった。身体は熱くなり、アルフの指や唇が触れるほど火照って鼓動を激しくさせる。
「身体が熱くなってきた…少しはその気になったか?」
「違……っ」
否定したくて、思わず身を起こそうとするのを見越していたようにアルフが片手だけで肩を押さえつけた。痛みを感じさせない拘束だというのに、見た目を裏切り地面に縫い付ける力は確かにある。
「あっ、ぁ……っ、なん、で…こんなこと、するの…?」
「お前が欲しい」
それを聞いて、心が震えるようだった。胸の奥の柔らかいところが痛かった。
「そんな、の…こんな、一方的なの…」
「言っただろう?──」
アルフの手が汗で額に張り付いたノアの前髪を撫で上げる。
「ノア、お前を愛している。お前の全てが欲しい」
違う時に聞けば、まるで心からのプロポーズのような言葉に胸を高鳴らせた。
この状況下でなければきっと喜んで、迷うことなくその手を取っていたかもしれない。
しかし、そんな仮定が薄っぺらくなるほど、今のノアはこの状況下にあるというのに嫌な気持ちひとつ持たなかった。本気にしてはだめなのに、きっと思わせ振りなことばかり言っているだけで嘘をついているだろうに、自分の頰は熱くなり唇は震える。今日初めて話したばかりのアルフに求められて、こんなにも喜んでいる自分が分からない。
「好きなのに、こんな、一方的なこと…っ?僕のこと、嫌いだから、」
「お前が俺に嫌われるようなことをしたか?」
「分かんない、でも、こんな、おかしい…!好きな人には、優しくするって、」
「随分と、可愛いことを言う」
言われた瞬間に、一気に顔が熱くなって真っ赤になっていくのが分かった。
未熟な発想だと思われたのが分かって、羞恥心が湧いては出てくる。アルフから見れば自分なんて何の特徴もない人間なのだろうが、ノアだって『好き』という気持ちくらい持つ。それがどんな種類のものなのかはハッキリしなくても、アルフをあの時初めて見た時に抱いた胸の高揚を否定されたくなかった。
そんな気持ちを誤魔化そうと、胸の中にずっと居座っていて、気になっていたことを咄嗟に呟いた。
「オメガとか、そんな、うそ…。だ、って、今まで、聞いたこと一回も、」
「知らない人間がいたことに、俺は驚いたよ」
アルフに口付けをされて、覆い被さられてしまったせいで置き去りにしてきたが、ノアにとって自分がオメガであるという初めて聞いた事実もまた重要だった。
訳の分からない言葉ばかりを並べられて、自分の頭ではその膨大な情報を到底整理しきれていない。ただでさえいきなりそんなことを言われて混乱しているというのに、アルフにキスなんてされてしまえば、余計冷静に考えることなどできなかった。そんなノアを慰めるように、アルフが優しく頰を撫で上げてくる。その手つきに、またノアが混乱していることを自覚しているのかは分からない。
「信じられなくても、お前がオメガであることは事実だ。覆すことはできない」
「オメガなんて、わからないのに、そんな…」
「分からなくていいと言ったはずだ」
頬を撫でる動作の中で、風で頬の上に散らばったノアの亜麻色の髪を耳の上へとかける。
「そんな、自分のことなのに…そんなの嫌…」
「嫌なら、後で教えてやる」
今説明されたとしても頭に入ってくるかは分からない。
ノアも自覚していたし、きっとアルフも見抜いているからそう言ったのだろう。しかしそれは、これからアルフがしようとしていることが中途半端に終わってくれないことも意味しているのだということは分かった。
ノアは瞳を伏せて、戸惑いがちに口を開いた。
「オメガ、だから…僕に、好きって…愛してるって、言うの…?」
「──いいや」
自分が視線を逸らしているせいで、アルフの表情は分からない。
「お前のような人間を探していた」
ノアは息を止めていた。無意識だった。
(僕を?)
真意を確かめたくて逸らしていた視線を戻せば、アルフに真っ直ぐ見つめられる。赤みの強い紫色の瞳は艶めいていた。そんな瞳に魅せられて、唇を動かすことも何もできずにいると、ふと視線を外したアルフに喉元を甘く噛まれる。
「あ、はぁ、う……っ」
焼けそうなほどに熱く感じるアルフの唇と舌を感じて、身体がビクンと跳ねた。
身体中に押し当てられた唇や這わされた指に嫌悪感を抱くどころか、喜んでしまう自分の気持ちと…下腹部の、奥の方から響く疼くような感覚が押し寄せてくる。体感したことのない、正体不明の疼きに惑わされる。
「悪いようにはしない。お前にも…悦い思いをさせてやる」
「いい…?」
揺れる瞳のままにノアがうわごとのように言葉を繰り返せば、アルフは首筋から顔を離して蠱惑的に笑んでみせた。
「気になってはいるんじゃないのか」
「ちが…っ、そんなことない!」
「それは、寂しいな」
アルフが困ったように…またしても、暗く、小さく笑む。
「あ……っ」
何故ここで怯むのか、自分のことなのに全く理解できなかった。
嘘かもしれないのに、アルフが寂しいと言うと途端に抗う気持ちを持っていかれてしまう。そんな言葉、本当であるはずないのに。
でも、この人にそう思ってほしくなかった。
「愛してるなんて、嘘…どうして、そんな風に…思うの…?」
何度も何度も同じようなことばかり質問しているのに、アルフは嫌な顔ひとつしなかった。
ノアには何も自覚がなかった。同じ質問を繰り返すことも、順序が乱れていることも。
それなのに、アルフはノアの言葉全てに対して真摯な声と表情で答える。まるで、自分がそんなアルフの姿を見て安心したいがために質問を繰り返しているように思えてきて、ノアは尋ねてから少し自分を責めた。こんなことをしたいわけじゃないのに。でも、アルフの言葉を本気にして後で嘘だと言われるのが一番怖かった。
「───運命だ」
返ってきた言葉に、ノアの心臓はどくんと一際大きく跳ねた。
「うん、めい…?」
その一言は、ノアの胸の奥深いところに、意識せずに勝手にしまわれた。
「俺とお前は強い絆で結ばれている。お前にも…自覚はあるんじゃないのか?」
「そんなの、そんなのない…っ」
「本当に?」
「だって、そんなの…」
語尾がか細くなるのを、アルフは聞き逃さなかった。
「最初に目が合った時…何も感じなかったか?」
「っ……」
息が詰まる。
胸が苦しくてたまらない。
アルフの姿を目にした時に感じたものを思い出すと、呼吸が苦しくなるほど自分の中がアルフという存在でいっぱいにされてしまう。
大きな手に触れた。その温もりが、ずっと残っている。
「あっ、あっ……い、や…っ」
何も答えられないノアをどう判断したのか、アルフもまた何も言わずに首筋に舌を這わせ、その手で内腿をやわやわと揉んできた。
「ひあっ、あ、……ふ、あ……!」
アルフの舌の熱さを感じながら弱い太腿の内側を触られると、自分の身体は言うことを聞かなくなる。腹の奥に灯された火がどんどん大きくなっていて、触られるほどにじわじわと熱く疼いてしまうのに戸惑った。
こんなの、怖い。
知らない感覚は何よりも恐ろしい。そんな感覚を振りほどこうと、ノアはアルフの手が這わされた足を暴れさせた。
「いっ…、痛…ッ」
途端に走った激痛に、足首だけでなく全身が悲鳴を上げる。忘れていた痛みに冷や汗が噴き出して、ノアの目尻に透明な山ができあがる。涙に気づいたアルフが綺麗な指ですぐにその雫を拭った。
「動かすんじゃない、悪化する」
「じゃあ、もうやめて…っ」
「それは無理な頼みだ」
「痛い、のに…!」
「お前が無理に動かなければ、痛くない」
そう言われなくても、もう動かす気力はなくなってしまった。わざわざ自分から痛い思いをしたいはずはなく、ノアは全身を強張らせたまま、痛みのせいで上がってしまった息を必死に整えようと肩を大きく上下させる。
「力を抜け。酷いことはしない」
「してる…!」
「酷くしていない。俺はお前に優しく触れている…分かるだろう?」
まさしくその通りで、否定できなかった。強引であることは確かなのに、アルフの手は優しかった。傷をつけようとしているわけでもなく、泣かせるためにしているわけでもない。
ノアの濡れた瞳に、覆い被さっている男の姿が映る。
夜を溶かし込んだような黒い髪が風に揺れるたびに、洗練された良い香りがした。
周りの大人には決してない艶を含んだ赤紫の双眸が黒い前髪から覗き、見れば見るほど引き込まれそうで、自分を惑わす唇は形が綺麗で見惚れてしまう。少し持ち上げられた口角…大人の、優美な微笑はあまりにもアルフによく似合っていて、それなのに事を進めようとしてくる強引さも持ち合わせているから、もうどうしたら良いか分からなかった。
「ン…」
ノアの小さな唇にアルフの指が触れる。
ゆっくりと、唇の形を確かめるように親指の腹でなぞられていく。その絶妙な力加減が、ノアの身体の底に熱を灯してしまう。
「ふ…、ぅん……っ」
「可愛らしい唇だ」
「ぁ、あ…っ」
熱心に見つめられて、触れられている所を意識してしまう。
アルフの身体が少しだけ離れたかと思えば、膝裏を掴まれる。大人であるアルフの手では容易に掴めてしまう細さであり、良いようにされてしまう。怪我をしていない方の足を少し持ち上げられ、そこにアルフの唇を押し当てられた。
「ぁ…っ、やだ…!」
膝の内側に唇を寄せられただけなのに、ノアの足は大きく跳ねてしまう。
「本当はそう思っていない…違うか?」
「ちが、…ちがぁ、う…っ」
「素直に認めろ。これは、嫌がっている人間の反応じゃない」
言われて、涙が出そうなほどの羞恥に突き落とされる。
「ん、ん…っ、はぁ……、あ…」
唇は太腿にまで上がってくる。
漏れ出てしまう声を抑えようと、両手を口元に当てても跳ねる身体を止める術は持っておらず、自分が反応していることはアルフに筒抜けだった。
くすぐったいだけではない、力が抜けていくような感覚を引き連れてくるアルフの唇に容易に堕とされていく。太腿の内側を唇で撫でられ、やんわりと吸われるとびくん、と跳ね上がった。
「初めてで、何も知らない割に気持ち良さそうな反応をする。肌も熱いな」
「は……、ぁ、ふ…」
困ったように眉尻を下げ、頰を赤くさせたままノアは有意味な言葉ひとつ紡げず震えていた。
「俺は大人の男だ。プラトニックな愛し方だけをしてやれるわけじゃない」
愛していると言うのなら、もっと。
もっと、段階を踏んでくれても良いのに。
自分は何も知らない、未経験だと分かってくれているのなら、少しくらいペースを合わせてゆっくり事を進めてほしいのに。
淡い期待を裏切って、性急に求められると自分の気持ちは置いてきぼりになってしまう。
(───裏切られた?)
自分の思考があまりにも突飛であることに気付かされた。
何を期待していたのだと考えて、自分自身に驚き恥ずかしくなる。きちんとした段階を踏んだ上でなら、身体を重ねてもいいと思っているのだろうか。そんな、違うのに。違うはずなのに、自分が魅了された男がこんなにも強引に事を進めようとしていることにショックを受けているのだから、言い訳もできないことに気づいてしまった。
「こんな、酷いことしないで…僕、こんな…できない、他のことならもっと…それか、他の人に…やぁ、うっ」
言葉の途中で強く顎を掴まれて、上向くことを強制される。
汗が伝う喉元が無防備に晒され、少しばかり苦しくて思わず呻いた。
「お前でなければ、意味はない」
「そんなの、信じられない、ゃ、う、んん…っ」
そのまま整った顔を一気に寄せられたかと思えばすぐに唇を重ねられて、途端に自分の身体が固まってしまう。
首や鎖骨、太腿に触れられた時よりもずっとずっと気持ちが良い。最初にキスをした時は今よりももっと動揺が大きかったせいか、今唇が重なり合った瞬間から背筋を走り抜けていくような甘い刺激は、あまりにも官能的でこのまま溶けてしまいそうだった。
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