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1章(9)
すぐそこまで夜が迫っていた。
彼はしばらく、子どもの身体をそのまま抱いていた。
薄い胸の奥で鼓動が続いている。呼吸は少し不規則で、そのたびに胸が浅く波立った。全身は弛緩しきって、指の一本にも力がない。眠っているのではなく、気を失っている。幼い眉間に細い皺が刻まれて、苦しそうにしているのが見て取れた。
汗で薄く湿った肌が、ほんの少しだけ熱を持っている。行為のためだけの熱ではない。何か別のものが、この少年の中で動き始めた印のようにも感じられた。むき出しの額のそれに手をかざしてみれば、少年とよく似た微かな熱が、石の側にもあった。
外套の上へ、もう一度その身体を横たえる。
薄い身体だと思った。特別痩せ細っているわけではないが、彼の国の同じ歳の子どもは、もう少し上背があり、肩も腰も広い。この村は、実りはあっても富が溢れる土地ではない。ノアに限らず、村の子どもの発育は総じてこの程度だろう——そこまでの計算を、彼は抱いた腕の感触ひとつで済ませていた。
鎖骨のあたりに、小さな鬱血がひとつ目に入った。傷を残すつもりはなかったが、いつの間にかつけていたらしい。
細い、子ども特有の柔らかい内腿には、粘性のある体液が伝い落ちていた。自分が、この子どもの中に残したものだ。
少しの間、それを見ていた。
手に入れた充足はない。ただ、おさまるべき場所におさまった——その感覚だけが、名前を持たないままそこにあった。
体内に残した時に明確な拒絶はなかった。
国へ戻る前に確認しておかなければ、万が一があった場合に悟られる。それが確認できた今、この場に留まる理由はない。連れて帰る算段は、この子どもの正体に気づいた時から既に頭の中を走っている。
子どもの身体の上から外套を重ね、裾を肩から胸まで引き寄せて、布の縁の内側に細い首が収まるように整えた。それから、力のない身体を抱き上げる。動作の途中で子どもの首が鎖骨の近くへ一度傾き、肩で支え直した。細い、途切れそうな息が肌を掠める。不快ではない温度だった。
外套ごと抱えた身体は、想像していたより僅かに重かった。
地面には、夜露とは違うものが薄く残っている。
それを一瞥だけして、歩き始めた。
頭の中では既に、やるべきことが複数に枝分かれして走っていた。第一は、この子どもを連れて帰ること。そのために、会話の中に出てきた両親を説得する必要がある。残りは全て、連れて帰った後の話だった。
歩きながら、外套の中の小さな顔に目を落とす。胸に押し付けられるように傾いた顔。閉じた瞼、少し開いた唇。眠っているようで、眠っていない顔だった。眉間の皺は、少しだけ薄くなっていた。
森を抜ける頃には、辺りはうんと暗くなっていた。木立の間から月の光が幾度か落ちては外套の黒地に吸い込まれ、子どもの顔の輪郭だけを淡く浮かび上がらせる。歩き続けても、身体には疲れひとつ湧かなかった。
(——丘か)
初めて訪れた村の地形を、頭の中で組み直す。地図は見ていない。全て村人の口から拾った話だが、繋ぎ合わせれば、初めての土地でも位置関係は自ずと浮かび上がる。
ノアが襲われていた森は、村の中心からも、ノアの家からも離れている。家を出た子どもがここまで来るには、目的地が要る。村の中心なら、ここまで来る必要がない。丘——村はずれの、子ども同士で会うのに向いた場所。それなら距離の説明がつく。丘で誰かを待っていたか、別れた後だったか。これまでの情報の中で、当てはまる人間は一人しかいない。
セシリオ、と口の中で、音にせず確認した。
丘から森の奥へ逃げ、その道中で足首の腫れを生んだ。逃げ切れずに組み伏され、森の中だったから、村人の誰の耳にも届かなかった。
森を抜けると、緩やかな下り坂が続いていた。
坂の中ほど、木立の影に馬と彼女が立っていた。日が沈む前に分かれたきりの彼女は、手綱を片手に、完全な静止でもない位置取りをしている。歩み寄る影を遠くから捉えていたのだろう、視線は既にこちらへ上がっていた。この薄闇でも、碧眼の色はよく見える。
彼女の視線はまず彼の顔へ行き、数秒に満たない間で無傷を確認してから、外套の中の小さな身体に降りた。降りた瞳がしばらくそこに留まる。その数瞬、彼女は何も言わなかった。
「……宝石があったのですね」
一言目はそれだけだった。感情を含まない、事実の確認。問いですらなく、自分の目で見て分かったことを言葉にしただけの声だった。答えを待たずに、彼女は頭の方へ手を上げる。村の女主人から贈られた薄紫のヴェールがまだそこにあった。乱暴にはせず、慎重に外す。その動作の中で、結い上げた金の髪が数本だけ崩れるのが夜目にも見えた。
「お名前は」
僅かに視線を彼女へ動かした。普通なら、宝石の有無より先に名前を聞く。順序の逆に、一拍だけ違和感が残った。
「ノア」
少年から直接聞いた名前は、思ったより早く音になった。いつもより、わずかに短い声だった。
「ノア……」
発音の良い声が、その名前を一度だけ口の中で転がした。そこに何が含まれていたのかは、彼女自身にもおそらく言語化できない種類のものだろう。
短い沈黙のあと、碧眼が一度瞬く。目が合ったのを確かめて、彼は短く尋ねた。
「家は」
「割り出してあります。村長宅はこの子の家から徒歩で十分弱。隣接する区画です」
いつも通りの、事務的で発音の良い、波のない声だった。感情がないのでも、堪えているのでもない。情報を渡すのに最適な声を、彼女は常に作る。
「ヴェルメリオが動いている」
腕の中の身体を抱き直し、短く事実だけを置いた。それだけで、この子どもに起きたことの最低三つまでは、彼女の中で組み上がったはずだった。
「やはり、ここまで動いていたのですね」
「軍人だった。剣の柄に紋様が見えた」
「個別……の、動きでしょうか」
「個別だろう。だが複数で来ていた。村の地形を調べていた可能性がある」
形の良い指が、手綱の上で一度だけ動いた。短い計算の動きに見えた。
「次の襲撃が来る前に、出立する必要がありますね」
「ああ」
「カルディアへの帰路は——」
「南東に取れ。馬車を一台、用意できるか」
彼女が頷く。カルムーニュは大陸の東の奥、険しい山地と深い森に囲まれた谷あいの村だ。街道は未整備の細い一本きりで、雨が続けば泥濘んで通行が絶える。距離よりも、道そのものが困難な土地だった。動けるうちに動かなければ、足を取られる。
「村の宿に一台、既に押さえてあります。轅の支度に、半刻ほどかかるそうです」
「それだけあれば十分だ。——金は惜しむな。宿には、余計な話をさせるな」
半刻。
その中この男の計画が終わりまでが収まっていることを、彼女は問い返さなかった。
頷いたあと、彼女はもう一度だけ外套の中の子どもを見た。
「ご家族へのご説明は、殿——」
言いかけて、止まった。止まったことに、彼女自身が一拍遅れて気づいた。何も言わず、聞かなかったふりもせず、頷いてから答える。
「俺がする」
彼女はもう一度頷いた。
「レティシア。お前はデータを揃えろ。過去五年、東部国境のヴェルメリオ軍人による略奪事案。被害者数、生存率、年齢、性。手短に、両親に提示できる形で」
「既に。ご出立前に予測される事案として整理してあります」
「よし。使う」
「はい」
レティシアが、鞍の傍らから革の鞄を取り出した。中の書類は、村に入る前から揃えてあったものだ。彼女の仕事は、いつも彼が必要を感じる一歩手前にある。礼を言ったことは、一度もない。それで回る形が、二人の間には最初からあった。
「歩いて行く。その方が警戒されない。ノアは俺が抱える」
「承知いたしました」
レティシアが手綱を引き、馬が静かに歩き出す。彼女はいつもの位置——半歩後ろについた。前を行く男の腕の中、外套の裾から華奢な白い足首が覗いている。力のない、気を失った人間の揺れ方だった。
坂を下りきった先に、菜の花畑が広がっていた。
昼間なら黄の波が地平まで続くはずの畑が、今は夜気の中で暗い緑に沈んでいる。風が渡り、花の上がゆっくり一方向へ倒れて、また戻った。
その先に、家が一軒。屋根は夜目にも赤い。果物店の女主人の言葉と、レティシアの割り出した地理が、ここで一致した。
赤い屋根の家には、全ての窓に明かりが灯っていた。
息子はこの腕の中にいる。家にいるのが両親だけなら、この灯り方は自然ではない。家中に明かりを灯すのは、中の人間が何かを探しているか、誰かを待っているか——どちらにせよ、探され、待たれているのは腕の中の子どもだった。
「赤い屋根の家に複数人」
レティシアが足を止め、馬をそれ以上近づけないよう押さえながら言った。
「玄関の前に人影が一つ。家の中に、二つ」
「両親だけではないな。……セシリオがいる」
「おそらくは」
頷いてから、外套の中の顔を確かめる。首の角度は変わっていない。気を失ったままの身体だった。
——連れて入っても、目を覚ます心配はない。
目を覚まされては、最も穏便に済む道を選べなくなる。この子どもには、眠っていてもらう方がいい。
家から少し離れた杭に馬を繋ぎ、レティシアが革鞄を肩にかけ直す。ヴェールは腕にかかったままだ。それを気にする様子もなく、男は玄関へ歩みを進めた。
玄関前の人影は、まだこちらに気づいていない。歳はノアより少し上、十代の終わりから二十歳前後。背は並で、肩幅も広くない若い男だった。窓から漏れる明かりに栗色の髪が照らされて、夜の中で柔らかく光っている。男は家の方を見ていなかった。ノアが帰ってくるはずだった方向——丘のある北を見ていた。
忍んで近づけば要らぬ警戒を生む。あえて地面を踏む音を立てれば、夜の中で男が振り返った。
肩を跳ねさせ、驚いたままの視線がまず彼の顔を見る。それから、外套の中の小さな塊に降りた。視線の動きが遅かったのは、それが何であるかを認めるのに時間が要ったからだろう。
「……ノ、」
唇が動いたが、声にはならず、最初の音だけが漏れた。言い直すこともできないまま、男の両足は地面に縫い付けられたように動かなくなっていた。
男の正面で立ち止まる。外套の中の顔が見える位置までは、進まなかった。男の視線は、外套の縁から半分だけ覗くノアの白い瞼に釘付けになっている。瞼は固く閉ざされたままだ。その視線を見た上で、静かに尋ねた。
「──セシリオか」
問いの形をしていたが、半ば確認だった。男は最初、頷くことすらできなかった。一拍遅れて首だけが小さく動き、ようやく言葉の形をした音が出た。
「あんたは」
声は低くないが、微かに震えていた。恐怖というより、疑念と不審の色だった。
「あんたは……誰だ」
「カルディアから来た。この子のご両親に話がある」
「ノアを、どうしたんだ」
「中で話す」
セシリオの足が、ほんの僅かに前へ出た。彼はそれを気に留めず、少年を抱く腕も緩めないまま、ただ男を見ていた。
「ノアを、どうしたんだ」
同じ問いが、二度目は低く落ちた。瞳の中には男の意志があった。それでも何かが彼を止めている。直接触れることも、隅々まで見ることも、自分で自分に止めさせているように見えた。
控えていたレティシアが、半歩後ろから静かに前へ出る。足音はなく、布の擦れる音すら立たなかった。
「中へ、入れていただけませんか」
波のない声だった。その声がした途端、セシリオの視線が声の方へ移り、そこで初めて、相手が二人いることに気づいた顔をした。男と、女。どちらも、この村で一度も見たことのない顔だった。
──ノアの隣に、知らない人間が二人いる。
意識していないところで、セシリオの拳が僅かに握られた。
「……入って、ください」
絞り出された言葉は、彼の意志というより、身体がノアを家に入れることを優先しただけの言葉だった。言い終えると同時に扉を押す。視線はノアを向いているようで、ほんの少しずれて、家の木目に落ちていた。扉を押した手は、震えていなかった。
扉が開く。
家の中の明かりが、夜気の中に広がった。
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