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1章(10)
二人が戸を通された時、家の中には人が二人いた。
卓を挟んで女性が手前に、男性が奥に。座っていた椅子から立ち上がったきりの姿勢で、二人とも動いていなかった。
女性——母の指が、卓の木目に押し付けられている。男性——父の手は、母の肩に置かれず、そのすぐ近くの宙で止まっていた。扉が開くより前から、二人ともずっと扉を見ていた立ち方だった。
最初に動いたのは母だった。セシリオが戻ってきたのだと思ったのだろう。確かにセシリオは戻ってきた。しかしその後ろに知らない人間が二人いて、動きが止まり、そのうちの一人の腕の中に自分の子どもの姿を見つけて、言葉を失った。
先に開いた母の口からは、音にならない空気だけが漏れた。もう一度、唇が動く。
「ノア」
二度目で、ようやく音が出た。
母が卓を回り込もうとしたところで、父がその肩に手を置いて止めた。動かないでくれ、ではなく、一緒にいてくれ、という力のかけ方に見えた。
母は止まってから、扉の方の三人を——正確には、見たことのない二人を見直した。
セシリオの顔はどこか青白く、視線の動きも普段と違う。女——レティシアの顔は、この村にはないものだった。初対面のはずなのに、動揺のひとつも浮かんでいない。
そして最後に、自分たちの子どもを抱えている男が、母の瞳に映った。人生で初めて見る種類の顔だった。
整っている、という形容では足りなかった。
整った人間なら、村でも見たことはある。端正な顔の商人もいたし、自分の美しさを自負する者だって少なからずいた。だが、この男は種類が違った。顔だけではない。腕も脚も、髪も瞳の色も、この男を形作る全てが、どこか人から外れた美しさをしている。整いすぎたものが「美しい」の器から溢れて、溢れた分がひとつの脅威として機能している顔だと思った。
母は、その顔を見た瞬間、自分の中で何かを構えていた。
「夜分に失礼いたします。私はレティシアと申します。お子さんを…お連れしました」
そんな母の様子に気づいたのかどうか、息子を抱く男ではなく、半歩後ろの女——レティシアが身を滑らせて静かに言った。
「どうか、中へお招きいただけませんか」
母も父も、レティシアを見なかった。男も見ていなかった。目が合うことはないのに、ただ、男の腕の中の自分たちの子どもだけを見ていた。
「中へ」
低く抑えた父の声が、許可を落とした。
「中へ入ってください。その子を、降ろしてやってくれ」
男は頷いて居間に入った。重心は少しもぶれず、腕の中の子どもはほとんど揺れなかった。レティシアが続き、セシリオが最後に入って扉を閉める。村で作られた簡素な扉なのに、閉まる音がやけに重く響いた気がした。
一階の居間の続きの間の隅に、ノアの寝台があった。
母が慣れた手つきで素早く寝具を整え、片手を添えて男を誘導し、そこにノアを寝かせた。子どもを横たえる男の動作は、極めて慎重だった。
母は寝台の前に立ち、子どもの全身をさっと見て、それから顔を見た。呼吸はある。だが普段の眠りの呼吸ではなく、僅かにリズムの乱れる、苦しそうな息だった。熱を出して寝込んだ時の息遣いに近い。白い額には汗が薄く滲み、唇が薄く開いている。小さな頬には、細い筋のような傷。どれも、家を出る息子を見送った時にはなかったものだ。
男は寝台から僅かに距離を取って立ち、手にしていた物を母へ差し出した。
——額の宝石を覆っていた、髪に溶け込む亜麻色のリボン。そして、家を出る時にその小さな頭を覆っていた浅葱色のヴェール。
「……これは」
茫然と呟いて男を見上げながら、母は半ば無意識に両手でそれを受け取っていた。受け取るというより、その重さを引き取らざるを得なかった。
母はそのまま腰を折り、寝台の横で床に膝をついた。左手にリボンとヴェールを握り、右手を息子の頬へ降ろす。
頬は温かかった。否、熱かった。子どもの体温でも、眠っている肌の温かさでもない熱だと、手の腹が先に理解していた。
言うべきこと、聞くべきことは、もうあった。だが問いの形が整うより先に、男が話し始めた。
「順を追って話します。長くなりますので、座って聞いてください」
低く、平らな声だった。抑揚がないわけではない。ただ、波が立たない。
その声で命じられたら、頷いてしまう気がした。頷く理由が何ひとつないのに、そう思わせる声だった。母も父も、この男にまだ身構えることができていなかった。
「ご子息は、村のはずれの森で三人の男に襲われていました。私が間に合いました」
襲われていた。
その言葉が届いた瞬間、父の喉が一度動き、母の指が息子の頬の上で止まった。セシリオは扉の近くで、両足が床に縫い付けられたまま動けずにいた。
「お話の続きは、お聞きしますが……」
父が、卓の脇から一歩動いた。辛うじて声を出せた、という状態だった。話し始めのたった二言で、この場の空気は男のものに変わっている。そして父が言葉を挟んだその位置には、最初から人ひとりぶんの隙間が開いていた。開けられていたのだと、父が気づくのは、もっと後のことになる。
「その前に、あなたは……どこのどなたなのかを伺いたく」
父は、男とまっすぐに目を合わせた。初めて、男の目を見た瞬間だった。
赤紫の瞳。父の人生で一度も見たことのない色が、宝石の表面のように明かりを弾いている。その奥に何があるかを確かめようとして、確かめきれるものではないとすぐに分かった。それでも父は逸らさなかった。逸らさないことだけが、今この場で父にできる唯一のことでもあった。
「アルドヘイム国の首都、カルディアから参りました」
男は先に、どこ、に対して答えた。
アルドヘイム——縁のほとんどない、大陸一の大国の名前だった。父も母も、その国の何かを実際に見たことは一つもない。それでも、その国の人間がこの村へ来ることが普通ではないことだけは、すぐに分かった。
「お名前を伺っても」
「アルフレッド——」
男が、ほんの数瞬止まった。艶のある黒い前髪が僅かに揺れ、赤紫の瞳が睫毛の影に伏せられる。
「アルドヘイムの軍人です」
名前の続きに接がれたのは、家名ではなく身分だった。父はその情報の重さを測ろうとして、測るための天秤を自分が持っていないことを知った。見たことも行ったこともない国の、軍人。何のためにこの村へ、という問いは、形になる前に崩れた。
アルフレッドの視線が、流れるように卓を見た。意図の見えない、それでいて美しい線だった。卓の上にはランプがひとつ。油はまだ十分にある。
父は、無言のまま卓の椅子をひとつ引いた。
引いてから、自分の手を見た。この男に椅子を勧めたのが自分なのか、勧めさせられたのか——それを判断する力は、もう父の側に残っていなかった。
「失礼します」
彼は椅子のひとつに腰を下ろした。レティシアは立ったままでいる。その位置は卓の脇、母と父の側でもアルフレッドの側でもない、ちょうど中間だった。
セシリオは扉のそばから動かなかった。否、動けなかった。
母は寝台の脇、息子のすぐそばに座ったまま、丸く柔らかい頬を、なだらかな形に添うようにゆっくり撫でていた。撫でる指の温度を、息子の頬の体温と同じにするように。
ランプの一灯が、部屋の全部を照らしていた。
「お話を、聞かせてください」
父が低く言った。
卓のランプが橙の輪を床に落としている。その輪の外側で、編みかけの糸玉が籠の縁に転がったままになっていた。誰かが途中で手を止めて、そのままにしたのだろう。寝台では亜麻色の前髪を散らしたノアが浅い呼吸を繰り返し、母がその枕元に膝をついている。父は卓のそばに立ち、セシリオは寝台と卓のちょうど間に、行き場を失ったように立っていた。
「申し上げます」
アルフレッドはランプの炎に視線を落とさなかった。卓を挟んで父とまっすぐ向き直り、それから母へ視線を向ける。
母の手は息子の頬の上にあり続け、身体は卓を向いていない。伏せた睫毛の先は眠る息子の顔に、首だけがほんの僅かに、声の方へ傾いている。瞳は息子に、耳だけをこちらに——母はそうやって、二つのものを同時に手放さずにいた。
「ヴェルメリオという国を、ご存知でしょうか」
「東の……」
父が記憶の底を探るように、視線を宙へ預けた。
「商人がたまに口にする程度で、ほとんど私たちとは縁がない国です」
窓の外で、夜風が菜の花畑をひと撫でして過ぎる。その低い音が止むのを待ってから、アルフレッドは言葉を継いだ。
「その通りです。しかし、ヴェルメリオは我が国と長く敵対しています」
一度頷いてから、アルフレッドは説明を続ける。
「正面から攻める国力を彼らは持ちません。持たないから、国境を越えて個別に人を攫います」
「……攫う」
「国がそれを止めることはない」
「黙認、ということですか」
「そう呼ぶ余地もない。彼らの国は、それで回っています」
父の喉の奥で、もう一度何かを呑む音がした。
なぜこの国の話なのか。今聞いているのは息子のことだ。関係のない話を、この男が口にするとは思えない。だが関係してしまえば、この危険な単語が息子と結びつく。父は何も返せずにいた。アルフレッドは止まらなかった。
「今夜、ご子息を襲った男たちはヴェルメリオの軍人です。剣の柄に、彼らの国の紋様がありました」
セシリオの視線が、卓ではなく寝台のノアへ動いた。その視線に、母とは違う種類のものが層になって積もり始めていた。
ヴェルメリオ。セシリオはその名前を、知識としてだけ知っていた。商人の話で何度か聞いた。聞いた回数だけなら、ノアの父より多かったかもしれない。だがそれ以上は、村の少年の手には入らなかった。どんな国で、どんな人間が住んでいるのか、知る術がなかった。
それを、今、目の前の男が埋めていく。自分が何年かけても辿り着けなかった場所に、この男は最初から立っている。
その事実が最初の小さな亀裂を作って、拳が握られた。視線はノアに注がれたまま、亀裂はまだ音を立てずにいてくれた。
「男たちは退かせました」
彼が続けた。
「殺してはいません。傷を負わせて、逃がしました」
父の目が僅かに細められた。最初の問いとは違う質のものが、その視線に混じる。
「殺さなかった、と」
「はい」
「なぜ……でしょうか」
アルフレッドは、応答に一拍を使った。
「三人が戻らなければ、捜す者が来ます。村ごと調べられる。生きて帰らせた方が、この村は安全です」
父の目が、初めて動いた。
「彼らは、この村で何に遭ったかを話します。話が広まれば、次に来る者の足は、少し鈍る」
理屈は、父にも分かった。分かってしまったことの方が、恐ろしかった。
そこで、セシリオが口を開いた。
「……でも…また、来るかもしれないのに」
何かを我慢している声だった。両手は身体の脇で握られている。誰かに訴えるための握り方ではない。自分の中のものを、自分の身体の中だけで抑えるための握り方だった。
「俺たちは……俺たちは、村の警備隊の人たちでも、対処できないって、もう分かった。あんたが、ちゃんと最後まで……」
言葉が途中で止まった。続きを、セシリオ自身が最後まで形にできなかった。自分にはできないから、力のあるあんたが、最後まで——そこまで言えば、自分が何を頼んでいるのか分かってしまうからだった。
父は頷きも、首を振りもしなかった。部屋の他の三人は、誰もセシリオを見なかった。見ないまま、それぞれの場所で青年の声を受けていた。
その中で、アルフレッドだけがセシリオを見た。
「それに——」
彼は続けた。
「ご子息の前で、殺さない方が良かったと思いました」
部屋の空気が僅かに止まった。止まるはずのないものが、止まったと感じられた。
セシリオが何か言いかけて、言葉にならなかった。彼の答えは、セシリオの問いに返したものではなかった。
母の指がノアの頬の上で一拍止まり、また動き始めた。再開した動きは、その前よりほんの少しだけゆっくりだった。
父は何も言わずに男を見ていた。男は、自分の応答がひとつ余分だったことに、気づいていないようだった。
「過去五年の事案を、ご覧いただきたい」
黙っていたレティシアが、革鞄の留め具を音も立てずに外した。
取り出した三枚の紙を、ランプの光がいちばん届く卓の真ん中に、縁を揃えて置く。指先に迷いはない。気負いもない。感情を抑えているのとは違う、この場に感情はいらないと先に決めてしまった手だった。
「アルドヘイム東部国境を越えて行われた、ヴェルメリオ軍人の個別略奪事案の記録です。我が国の軍が把握しているもののみとなります」
紙の上を、彼女の指が滑っていく。
整えられた爪。荒れひとつない指の腹。土を耕したことも、糸を紡いだこともない手だった。この家のどの手とも違う、まるきり別の世界で別の仕事をしてきた指が、息子の行く末を書きつけた紙の上を一行ずつ撫でていく。誰も、その手から目を離せなかった。
「過去五年…判明分のみでも、被害者の総数は四十七件」
指が、最初の数字の列をなぞった。
「うち、ヴェルメリオの軍人が現場で確認されたものが、二十九件。残りは所属不明——ですが、手口から類推されるものです」
父は、紙を見て数えていた。我が子の名前が、その列のどこに並んでいてもおかしくなかった。
母は、紙を見なかった。指は息子の頬の丸みをなぞったまま動かない。卓の上の数字は、母のところまで届かなかった。
「被害者のうち、生存して連れ戻されたのは、三件のみ」
レティシアの指が紙の一点で止まり、爪の先がその小さな数字を押さえた。
「三件のうち、二件は、半年以内に死亡しています」
父の胸が、一度だけ深く上下した。
「理由は、わかるのですか。半年以内に死ぬというのは……」
「彼らは、被害者を動力源として消費します」
レティシアの声には何の温度もない。事実の形だけを、足しも引きもせずに置いていく。それが、この場で彼女に選べた礼儀だった。
「ヴェルメリオでは、生きた人間の身体を、機械の動力に変える技術が発達しています。繋がれた者は、数日から数週間で死にます」
「人を……」
その先が、父の口から出てこなかった。
人を、機械に。
音としては耳に入っている。だが意味の方が、像を結ぶ手前で掴むところを失って滑り落ちていく。父の喉が一度動いて、結局なにも呑み込めずに止まった。理解が遅いのではない。この家の暮らしのどこを探しても、その言葉を置く場所がひとつもなかった。井戸の水を汲み、菜の花を間引き、子の熱を手のひらで冷ましてきたこの家に、人を燃やして動かす国の話は、どうしても載らなかった。
セシリオは一度だけ紙から目を逸らした。逸らしきれずに、すぐ戻した。
卓の上では、人が動力に変わる話が淡々と積み上がっていく。同じ部屋の隅で、話の真ん中にいる当人だけが、何も知らずに眠っている。寝台のノアの胸が浅く、規則正しく上下していた。死亡。消費。効率。そのどれも届かない場所で、子どもはただ息をしている。その無防備な寝息だけが、卓の数字とはまるで違う時間を、ひとりぶん刻んでいた。
「一度では終わりません」
レティシアの説明を引き受けて、アルフレッドが続けた。
「同じ者たちが村の地形を見ていれば、次を計画しています」
「複数人で来る、ということですか」
「次は複数で来ます。今夜の三人は、下見です」
父の手が卓の縁を握った。力は強かったが、震えてはいなかった。
「ですが、今夜のお話には、もうひとつ伝えなければならないことがあります」
アルフレッドの形の良い唇を、ランプの明かりが淡くなぞった。彼を形づくる一切が、一ミリの歪みもなく設計図の上にあるようだった。父がまっすぐその顔を見て、母は指を止めたまま、耳だけを卓上へ向けている。
ランプの炎が、誰の息にも触れていないのに、一度だけ細く伸びた。
「ご子息は、オメガです」
その一語のあと、部屋から音が消えた。
母も父も、瞬きひとつできずにいる。オメガ——この家のどこにも存在しなかった単語を初めてこの空気に放ったのは、今日初めて訪れた男だった。
レティシアは顔に何も写さず、止まった空気をただ見ている。その中で、セシリオの口が小さく動いた。
「俺、その言葉……」
それだけだった。続けなかった。続ければ、断片的な記憶の欠片同士が自分の中で組み上がってしまう。セシリオはそれに蓋をして、目を逸らす方を選んだ。
父の視線がセシリオへ動き、目が合わないまま、アルフレッドへ戻った。息子について知らなければならないことを、まず目の前の男から聞く。両親である自分たちではなく、今日初めて来たこの男が、息子の情報を持っているのだ。
「オメガ、というのは」
父が低い声で聞いた。
「三つの性のひとつです。アルファ、ベータ、オメガ。外見の性別とは別の体系で、男のオメガもいます」
「ノアは、見た目には男です。我々も…その三つの性というのは、何も」
「身体の機能が違うだけです」
説明は簡潔だった。だが父も母も、聞き取る速度が落ちていた。先ほどまでの話より、格段に遅い。自分の子どもに当てはまる単語ではないと、十八年——疑う余地すら持たずに来た十八年が、耳の入り口で言葉を堰き止めていた。
「オメガは、匂いを発します。それを感知できる者がいる」
母の手が、ノアの頬の上でまた動き始めた。ずっと遅い速度で、丸い曲線をなぞる。指の腹、手のひら、爪の先——その全部で、息子の肌を確かめようとする手だった。
「今夜の男たちが、ご子息を襲った理由はこれです。彼らはオメガを判別して、連れ去る。オメガは動力源として、効率が良いと言われているからです」
母の指が震えた。震えが、ノアの頬にぶつかった。
それから、母は初めてアルフレッドを見上げた。身体ごとは振り向かない。ノアのそばを離れるつもりは一切なく、首だけを僅かに向けた。その角度の中で、母の視線が男の顔の輪郭を捉えた。
「……ひとつだけ」
母の口が開いた。静かな声だったのは、声に何かが乗れば自分が崩れると分かっていたからだった。
「どうして、息子がオメガだと分かったの」
部屋の温度が下がったような、空気の変化があった。レティシアが、紙の上の指を僅かに浮かせる。
アルフレッドは、答えを選ぶ時間を取らなかった。ただ、応答の最初の一音だけが、平常の声より僅かに低かった。
「オメガの匂いは、近づけば分かります」
彼は言った。
「ご子息は、襲われた時にフェロモンが立っていました。気づかぬ距離では、ありませんでした」
母は、男の顔から視線を外さなかった。息子の頬の上の指は撫で続けている。だがもう一方の手——膝の上で布の縁に触れていた手の指が、僅かに動いた。
布の縁を、握りしめた。
関節が白くなり、爪が掌に食い込んで痛みを生んだ。それでも母は、その力を緩めることができなかった。
母の左手と右手が同時に別の動きをしているのを、アルフレッドは見ていた。
「……それを、感知できるのは」
母が、また聞いた。
「どんな人」
彼は、ノアの頬の上の母の指の動きを視野の端に置いたまま、答えた。
「アルファです」
母の手が止まった。
「私は、アルファです」
それだけだった。それ以上の説明を、彼はこの時には加えなかった。
地面に縫いつけられていたセシリオの足が、初めて動いた。
商人の古い本の隅で読んだだけの言葉だ。アルファ。オメガ。番。どれも別の頁に転がっていた、自分には縁のない言葉だったはずなのに、それが今、ノアという一点に集まって、嫌な形をひとつ作っていく。
拾い上げたのは自分じゃない。何年かけても拾いきれなかった欠片を、目の前の男がこともなげに摘まみ上げて、セシリオの見ている前で組んでいく。それが、悔しかった。悔しいなんて言っている場合じゃないのに、腹の底が、じりじりと焼けた。
視線が、勝手にノアへ走る。
衣服の縁から覗いた鎖骨に、薄く赤い跡があった。口づけの跡かどうかなんて、セシリオには分からない。分からないが、いつものノアの肌にそんなものがないことだけは分かる。雨の夜に背中をくっつけて眠って、川で一緒に水を浴びて、夏に同じ木陰で昼寝をした、十八年見てきた身体だ。その肌に、知らない誰かの痕がある。
視線が、その一点から動かなくなった。掌の中で、爪がさっきと同じ場所に食い込む。痛くはなかった。
「……あんた」
喉の奥が引き攣れて、続きが出てこない。それでも無理やり押し出した。
「あんた、ノアに、何を……何を、したんだ」
最初は震えていた声が、最後だけは震えなかった。
部屋の空気が、ぴんと張った。張り詰めた細い糸のように、触れたらすぐに切れてしまいそうなものだった。
母の手が、ノアの頬の上で止まっていた。
その手とは別に、膝の上のもう片方の手が、布の縁を握り潰していた。関節が白い。爪が掌に食い込んで、薄く血の色が滲んでいる。それでも母はその手を緩めない。緩めれば、その手は卓の向こうの男へ伸びてしまう。母は、自分の手を自分で押さえつけていた。
その手を、セシリオは見ていない。セシリオの目は男から動かなかった。
見ていたのは父だった。妻の左手が何をしているのかを、父だけが分かっていた。分かっていて、何も言わなかった。自分が問えなかったことを、この子が代わりに言ってくれている。だから父は自分を引いた。今この問いは、ノアの隣で育ったこの子のものだった。
男は、逸らさなかった。
セシリオの目をまっすぐ受けている。赤紫の瞳は揺れもしないし、声を低くもしない。
「ご子息と関係を持ちました」
セシリオの肩が、跳ねた。
「ノアの、同意は」
出てきた声に迷いはなかった。躊躇も、震えもない。ただ口が、勝手にその問いを選んでいた。
「あったのか」
「私が状況を主導しました」
「答えになってない」
「これが、答えだ」
足が、もう一歩前に出かけた。弁解もしない、謝りもしない、それが何より許せなかった。
だが、一歩で止まった。止めたのは、父でも母でも、この男でもない。すぐ脇の寝台で、ノアが規則正しい寝息を立てていた。
——起こす。
声を荒げかけたことに、手が出かけたことに、セシリオは遅れて気づいた。気づいた指が、掌の同じ傷を、もう一段深く抉った。
その震えを、アルフレッドは確かに見ていた。
「ご子息は……オメガであり、宝石を持っています」
言葉に応えるように、ノアの額の宝石が、ランプの炎を吸って一度だけ深く瞬いた。偶然なのか、そうでないのか——アルフレッドは問わなかった。
父はその煌めきを見なかった。あえて、宝石から視線を外しているようだった。
母の指が頬から額へゆっくり上っていき、硬質の輝きに触れる手前で止まった。長く知っているものに、今さら確かめるように触れることを、母はしなかった。
息子の額にいつからそれがあるのか、母はもちろん知っている。知っていて、誰かに語ったことは一度もなかった。語らないことを何年も続けてきた。触れる手前で指を止めたのも、その沈黙の続きのようだった。
「アルドヘイムにおいて、宝石を持ったオメガは、特別な意味を持ちます。……詳細は、申し上げません」
アルフレッドは、両親の視線の動きを視界の端で確認する。
「ご子息を狙う者は、これからも来ます。複数の方向から。今夜のヴェルメリオは、その一部に過ぎません」
両親が宝石について何かを知っているのか、いないのか——彼はここでは確かめなかった。両親が話さないものを、彼の側から問うこともしなかった。
「他にも…いるということですか」
父が声を落としながら、半ば確信を持っている聞き方で尋ねた。
「います」
「どれくらい」
「数は申し上げられません」
彼は父から視線を外さなかった。
「ヴェルメリオは、乱暴なだけまだ分かりやすい…とだけ」
しばらく誰も何も言わなかった。その間に、ランプの炎がもう一度揺れた。
母の指は、ノアの額の宝石に触れる手前で止まったままだった。いつの間にか、左手の力は少しだけ緩んでいた。
そこで初めて、父の視線が、眠るノアの額へ移された。
「……これは」
父の声は、認める声でも否定する声でもなかった。ずっと胸の底に置いてきたものを、初めて言葉の形にする声だった。
「この子を、助けてくれたものです」
それだけだった。父はそれ以上を続けなかった。持っていないのではなく、続けないことを自分で選んでいた。
母は何も言わない。言わないまま、触れる手前で止まっていた指が一度だけ宝石を撫で、息子の頬へ戻った。
アルフレッドは、その言葉を受けて、何も問わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ頭を下げた。
深くはない。けれど、形式だけの会釈とも違う。両親がその石に対して持っている何かを、踏み荒らさない——父の目にはそう見える角度で、首筋が傾いていた。
それを、父は正面から見ていた。
「お話を続けてください」
父は一度瞳を閉じてから、アルフレッドへ言った。
「この村に留まる限り、ご子息は守れません」
言葉は何も飾られていなかった。誰にでも分かる、はっきりとした言い切りだった。
「私はヴェルメリオの軍人を退かせました。しかし、次は別の者が来ます。次の次も。村の警備隊では彼らを止められません。アルドヘイムは軍事大国ですが、国外であるこの村に、我が軍が常駐する理由もない」
父は、何も返さなかった。
話は最初から全て明瞭だった。どこへ向かう話なのか、筋が先に見えてしまう。だからこそ、次に突きつけられる言葉も、父にはなんとなく想像できていたのかもしれなかった。
「──ご子息を、アルドヘイムへお連れしたいと思っております」
父は、アルフレッドをしばらく見た。すぐには問わなかった。問えなかった。
それを理解しているように、彼は続ける。
「私の番として、お連れします」
父の眉が僅かに動いた。セシリオの瞳が揺れる。ランプの炎の動きではなかった。
聞き慣れない単語が、もうひとつ、部屋の中に置かれたのだった。
「番というのは」
母の声は、これまでの問いの中で最も静かだったかもしれない。問わなければ、息子を渡すことはできない。確かめないまま手放すことだけは、母の身体が拒んでいた。
「オメガとアルファの間に成立する、生涯の関係です。項を噛むことで結ばれます」
アルフレッドは、一般的な説明だけを彼らに渡した。
アルドヘイムにおける「番」の意味は、この場では必要がなかった。嘘を口にしていないものの、真実を全ても口にしていなかった。
「結ばれたら…どうなるの」
「ご子息の匂いは、抑えられます。私以外の者には感知されなくなります。……この先、ご子息の身体に現れるものも、同じです」
「他のアルファに襲われなくなる、ということ」
「ええ」
この先、身体に現れるもの。
それが何なのかを、父も母も、問わなかった。問えば答えが返ってくることは、もう分かっていた。返ってきた答えを置く場所が、この家にはなかった。
母の手が、息子の頬の上でゆっくり動き続けている。聞いた言葉を、ひとつずつ自分の中の棚に納めていくような手つきだった。眠っている息子の生涯を——息子の意思が入っていない形で——この男に託す。その重さを、母は撫でる動作の下で量っていた。
しばらくの沈黙の後、父が低く言った。
「ひとつ、お聞きしたい」
妻が問いたくて問えなかったものを、代わりに発する。その役を、父は静かに引き受けていた。
「ここを出た後……ノアに、また会えますか」
父の声は、揺らがずまっすぐだった。
アルフレッドは一寸の間だけ口を閉ざした。
「約束はできません」
父の表情が硬くなる。
言葉を聞いた後に少しだけの間が生じた。
「ご子息が望めば、私が動きます。それだけは、申し上げられます」
セシリオは、寝台の足元の側で立ち尽くしていた。自分も、それを聞きたかった——その認識が遅れて立ち上がる。だが口は開かなかった。彼は、両親が問うのを聞く側に自分の位置を置いていた。
「ですが…今、ご子息はお眠りです」
彼が短く言った。
「目覚めれば、ご子息は何が起きたかを少しずつ理解されるでしょう。理解には、時間がかかります。私は、その時間をご子息の傍で過ごします」
「ノアが、目覚めた時に……」
父が半ば無意識に言葉を口にしていた。
「あなたが、傍にいるのですね」
「はい」
「ノアは、それを望むでしょうか」
責める声ではなく、ただ父としての問いだった。
彼は一度ゆっくりと瞬きをする。長い睫毛が動きを作り、ランプの火を受けた瞳で父を見返した。
「分かりません」
返ってきた答えに、父は目を細めた。
「分かりません、と」
「はい。ご子息の意志をまだ確かに知らない」
「それでも、お連れすると」
「お連れします」
「ノアが嫌だと言ったら、どうするのですか」
「──嫌だと言わせない方法を、持っています」
父の喉が、音もなく一度上下した。返す言葉が、出てこない。
この男は、その気になれば息子の意思など飛び越えて連れ去れる——その事実を、感情の乗らない声で差し出された。
「ですが」
沈黙の縁で、アルフレッドが続けた。
「それは、私が望む方法ではありません」
「……では」
「ご子息が、私の傍にいたいと自ら言うこと…それを望みます」
「あなたは、それを得られると」
「思っています」
父は、何も返さなかった。返せなかったのではない。返すべき言葉を、まだ選びかねていた。
この男は、欲しいものを、自分の手で取りに来ている。受け入れがたい。けれど、受け入れがたいことと、信じられないことは別だった。父の中で、その二つが静かに分かれた。
ランプの炎が、大きく揺れた。
窓の外では、菜の花畑の上を夜風がまた渡っていった。
部屋の中の五人——立っている四人と、寝台の中の一人——の上に、夜の重みがゆっくりと積もっていた。
ノアを見つめているうちに、母の中で、長く眠っていたひとつの記憶がゆっくりと持ち上がってきた。
息子を渡すことが、息子を守ることになる——男の話は、そういう形をしていた。形は、分かった。分かった瞬間、母の中で天秤が傾きかけて、傾き切らなかった。
母の手が、息子の頬からこめかみへと移る。薄い皮膚の上を、指の腹がゆっくりと辿った。その手つきは、もう男の話を聞いていなかった。卓上の言葉から母の意識は静かに離れ、息子の閉じた瞼の上に落ちている。白く薄い、開けば青紫の瞳がのぞくその瞼を、母は長く見つめた。
八年前。息子が十歳だった頃のことだ。
家のすぐ近くのあの大木の下で、息子が何かを抱えるようにしゃがみ込んでいた。
小さな背中だった。
母と父を呼びに走って戻ってきた時には、その下にはもう何もなかった。草が浅くへこんだ跡と、不気味な色だけが残っていた。
何があったのかを、息子は言葉にしなかった。
その夜から、息子は三日泣いた。抱いても、頭を撫でても、止まらなかった。何かがなくなってしまったことだけは、母にも分かった。けれど、何がなくなったのかは、息子の中にしかなかった。
四日目に泣きやんで、それから、夜空を見上げることが増えた。あの大木の下には、行かなくなった。
泣かなくなってからしばらくした夜、息子は両親の前で何かを話そうとした。
その話の中身を、母は今、思い起こそうとしなかった。
息子が何かを言いかけて、両親の顔をうかがって、それからその言葉をもう一度自分の中へ呑み込んだ。呑み込んだあとで、息子はまた少しだけ泣いた。短い涙だった。けれど、その短さの中に確かに何かがあった。
それから、ようやく問いを口にした。
───あの時の問いに、自分はちゃんと答えてやれたのだろうか。
母は、精一杯のものを返したつもりではいた。けれど、確かめはしなかった。
八年の間、息子の額のリボンに触れるたび、母はふとあの夜を思い出した。思い出しても、確かめることはしなかった。確かめれば、息子の中の何かを自分の手で動かしてしまう。動かせば、それはもう息子だけのものではなくなる。母は、その何かを息子のものとして、そのままにしておいた。
息子の頬を撫でる手を止め、前髪を優しく払う。払った先に、閉じた瞼があった。白く薄い瞼。開くと、青紫色の綺麗な瞳が見える。大切な大切な、自分たちの宝物。
その瞼を長く見て、それから男の方へ、もう一度視線を上げた。
「……あなたは」
その声は、震えていた。
「あなたは、この子に……」
震えた言葉は、そこで途切れた。
唇がもう一度小さく動きかけて、続きは紡がれなかった。母の瞳は男の顔から息子の閉じた瞼へ戻り、その動作の中で、言いかけた言葉の先を呑み込んだ。
確かめてはいけない。
迷って選ぶようなことではなかった。選ぶより先に、身体のほうが決めていた。問えば、その答えは母のものになってしまう。息子があの大木の下から持ち帰った何かは、息子のもので、母のものではない。
卓の脇で、セシリオが母のほうへ一歩踏み出しかけた。
その足が床につく前に、母の声が低く落ちた。
「セシリオ」
その一言だけで、セシリオの動きは止まった。母の目はずっと息子の上にあり、セシリオの方を最後まで見なかった。
しばらく、誰も口をきかずにいた。
その沈黙の中で、ノアの肌をなぞる指先に浅い寝息が返ってくるのを、母は聞いていた。
───天秤が、ようやく傾いた。
握りしめていた指がゆっくりと開かれていく。掌から爪が離れると、そこには半月の形をした小さな痕が四つ並んでいた。母はそれを見なかった。
父がゆっくりと息を吐いて、寝台の方へ数歩だけ歩み寄った。
母の隣ではなく寝台の足元に立ち、布の上から、ノアの足首の輪郭へ触れた。
それだけだった。顔には触れず、撫でもしない。
その手がどれほど珍しいものかを、部屋の中で知っているのは母と、セシリオだけだった。肩車をして夜空を見せる時のほかは、息子に触れない人だった。触れないことが、この人の触れ方だった。布越しの足首に置かれた手の、ためらいと不器用さを、セシリオは見ていた。
父の手がノアの足首の上で留まり、それから……ゆっくり離れた。
離れた手は、母の肩を経由せず、まっすぐセシリオの肩へと降りた。
青年の身体が一度だけ揺れた。父の手は、強くなかった。しかし、しばらく肩の上で動かずにいた。
——お前のせいではない。
——お前ではなかった。
——お前は何もできなかった、それで、いい。
どの言葉にも取れた。どれとも、決められなかった。父の視線はセシリオを見ておらず、寝台の中の息子の足元に置かれたままだった。
その手の温度を感じながら、何かがセシリオの身体の中で深く沈んだ。
父はゆっくりと瞼を閉じた。閉じている間に何を考えていたのかは、誰にも見えなかった。やがて瞼が上がり、その目がまっすぐにアルフレッドを捉える。
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