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1章(11)

「お連れください」 飾りのない、ひとつの言い切りが静寂に響いた。 ランプの炎が、その声を受けたようにゆるく揺れる。 部屋の中の四人がその声を聞いた。寝台の中の五人目だけが、聞いていなかった。 母は何も言わなかった。ただ、息子の柔らかい肌を撫でて、なぞって、触れていた。その動きを止めないことが、母の応答でもあった。 「ひとつ…条件がございます」 続けられた父の言葉は低く、けれど揺らがなかった。 「ノアを、不幸にしないでいただきたい」 それが、父がこの男に差し出せる、たったひとつの条件だった。 剣も、力も、金も、この家にはない。息子を守る手立ても、追いかける術もない。ただ、言葉ひとつを男の胸に預けるしかなかった。 「我らには、何ができるわけでもありません。あなたが、ノアにどう接するかを見届けることもできない。手紙の一通も、ノアから来るとは限らない」 「手紙は届けます」 「ノアが望むなら、ですか」 「はい」 「……分かりました」 父はそれ以上を続けなかった。続ける言葉を、もう持っていなかった。 アルフレッドは、僅かに頭を下げた。 手紙というやり取りの間、卓の脇でレティシアの視線が一度だけアルフレッドの方へ動くのを見ていた者は、ひとりもいなかった。 「お連れします」 母が、初めて寝台の脇から立ち上がった。 長く同じ姿勢でいた膝がよろめいたが、夫の手は借りなかった。寝台の枠を握り、自分の足で立つ。 枠にかけてあった、編み終えたばかりの亜麻色の布を手に取った。それを、眠る息子の額に、自分の手で結ぶ。自分が紡いだものを、息子の額へ。今の母にできるのは、それだけだった。 結んでから、母はもう一度息子の頬を撫でた。今度の手つきは、これまでと違った。指の腹が、頬から目元へ、目元から頬へとゆっくり往復する。覚えさせる手ではない。覚える手だった。 それから、瞼に唇を寄せた。 その瞳を見たかった。話がしたかった。あなたはどうしたいの、と。眠る息子に、その一つだけは、最後まで置けなかった。 唇を離し、母の両手が頬をなぞって、引いた。 引いた手は、自分の膝ではなく、夫の手のなかへ収まった。父の指が、それをゆっくり包む。強くない、ただ温かい手だった。 二つの手のなかで、母の掌の半月の痕が、夫の指の下に隠れた。 アルフレッドが寝台に屈み、ノアを外套に包んだ。 腕の中の身体は温かかった。起きる気配はない。けれど、運んできた時よりも、その顔から険しさは抜けていた。今は、ただ眠っている子どもの顔をしている。 肩と膝裏に腕を通し、抱き上げる。傾ぎかけた首を、肩で支え直した。 その正面に、セシリオが立っていた。 セシリオの目は、外套の隙間から覗くノアの顔にあった。閉じた瞼。少し開いた唇。眠っているような、眠っていないような顔。 ノアへ手が伸びかけて、肘の高さで止まった。そこから上へは、上がらなかった。上がらない手のまま、セシリオはアルフレッドを正面から見た。 アルフレッドはその視線を受けた。受けて、止まらなかった。 ——最初から、この男の足を止められた者など、一人もいなかったのかもしれない。 セシリオの正面を、アルフレッドは通り抜けた。二人のあいだは半歩だった。半歩のなかで、どちらも何も言わない。セシリオの肩が、彼の肩をわずかに掠めた。 掠めた一点から、セシリオの肩に残っていた父の手の温度が、ほんのわずか、アルフレッドの肩へ移った。移ったことを、誰も知らなかった。 すれ違う一瞬、セシリオの唇が動きかけた。動いただけだった。 扉を音もなく開けて、レティシアが動線を空けていた。腕にかかった薄紫のヴェールが、その動きに合わせて小さく揺れる。 母は、見送りに立たなかった。父も、寝台の足元から動かなかった。 セシリオだけが、扉の前まで出た。そこまでだった。そこから先へは、一歩も踏み出せない。 外套の隙間から覗くノアの白い足首が、男の歩みに合わせて小さく揺れている。揺れは、ごく小さい。最小の揺れになるよう、アルフレッドが歩幅を加減していた。そのことに、セシリオは気づかない。 アルフレッドは、振り返らなかった。 振り返らないまま扉を抜け、背中で扉の閉まる音を聞いた。 その音に重なって、家のなかで、何かがことりと床に落ちた。 何が落ちたのかは、確かめなかった。 夜の街道をアルフレッドはノアを抱えて歩き、彼の半歩後ろを、馬を引いたレティシアが付いていた。 村の外れにある暗がりに、支度の済んだ馬車が待っていた。宿の者の姿は、もうどこにもない。 レティシアが馬を轅に付ける。手早く、音の少ない仕事だった。 アルフレッドはノアを座面に横たえ、外套の縁を整えた。襟を正す時と、同じ指の動きだった。けれど、レティシアの目には同じには映らなかった。 彼女は、その手の動きを見届けてから、腕にかけていたヴェールを二度折って、ノアの向かいの座面にそっと置いた。それから、御者台へ上がった。 馬車が動き出す音が響く。 カルムーニュ村の灯りが、窓の後ろへ、ひとつまたひとつと引いていった。 菜の花畑の暗い緑が、夜気の中をゆっくりと遠ざかる。丘の方向には、もう何の灯りも見えなかった。 揺れるその中で、ノアはまだ眠っていた。 アルフレッドは、その首が傾がないように、片手をノアの肩の後ろに添えていた。添えた手のひらの温度を、彼は自分でも確かめなかった。 レティシアは何も言わなかった。 アルフレッドも、何も言わなかった。 村のはずれの、舗装されていない道を踏む車輪の音だけが、夜の中にただ続いていた。

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