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2章(1)

2章 第七皇子 柔らかく滑らかな感触が頬を撫でるのを感じた。 ほんのりと、温かみを持った甘く重い香りが空間を満たしているのを感じて、全身が和らいでいくような感覚に包まれる。 ほんの少し官能的な香りが含まれているようにも感じる甘い匂いはどこか上品で、自分の家ではないことの確かな証拠として突きつけられた。 生まれてこのかた、料理や牧草以外の香りに満たされて生活したことのなかった身にとって、この香りも周りの物も全て非日常として映し出される。ただの子どもにはあまりにも不似合いな、染みひとつない純白の寝台の真ん中で、シーツの波に身を沈めているのも普通ではない。昼の麗らかな陽気の中で、動物の世話をしながらついつい手を休めた延長に、牧草に包まれながら眠りに落ちることの多かった日々とは全く違う。星の煌めきすら映し出してしまいそうなガラスの装飾や、目を奪われるほど美しく豪奢な照明が広い室内を程よく照らしていた。 小さく震わせながら、瞳を覆っていた瞼をゆっくりと持ち上げる。 紫水晶(アメジスト)を想像させる二つの瞳は寝起きでつやつやと濡れていた。 自分が随分と深い夢路を辿っていたことに気がつくものの、目の前の煌めきを現実として受け入れるのは易くなく、逃げるように再び瞳を閉じる。思考はうまく働かず、そして瞳を閉じたため視界は薄闇に覆われているはずなのに、どうしてか瞼の裏に映るのはひとつの姿だけだった。何かを考えることすら億劫になるような、頭の中に響く鈍痛は全ての動きを鈍くさせている。 まるで幼い頃、村の子どもたちが集う場で読まれた御伽噺の世界に出てくるような光景は一瞬しか見えなかったはずなのに、脳裏にこびりついて離れてはくれなかった。 自分には想像することすら難しい気品というものに満ちた装飾の数々はその存在を主張し、上質なシルク素材のカーテンはふわりと揺れる。その度に、心地良い香りが鼻腔を掠め全身から余分な力が抜けていく。しかし、いつまでもこうしていては駄目だと、何一つ理解していない頭で考えては、どうにか指先に力を入れて真っ白なシーツを手繰り寄せた。 ───目覚める前の出来事を、輪郭があやふやになる夢のような感覚で記憶の中から辿っていく。 自分が見慣れた家の中ではなく、今ここにいる決定的な理由はどうしても分からないものの、もしかしたら…と、小さな可能性の芽をすくい取れば想像することだけはできた。それでもまだ、物語を読んでいるかのような、どこか非現実さを感じさせる記憶ばかりが過ぎ行くものだから、今すぐに自分が何をするべきなのか考えることができなかった。 「ぁ……」 ただ胸の内に居座り続けていたその名前を音に出そうとしても、思った以上に声が掠れていて無意味な声を出してしまった。 その名前の持ち主は今ここにいない。 子ども一人…否、大人でも一人で使うには些か広すぎる室内全体を見渡せたわけではないが、その雰囲気を感じ取れない時点で自分の考えは確かなのだろうと思った。周りが鮮やかに彩られるかのように、空間全体がただひとりだけのものに変化する…そうした先天的に獲得したものを、あの人はたしかに有していた。 うまく力が入りきらない指先でシーツを掴む。 刻まれた皺さえも美しく感じられる上質な素材を、ぼんやりとした瞳で眺めていた。 「お目覚めになられたのですね」 すると、先ほど漏れ出た頼りない声に反応したかのように、柔らかな女性の声が聞こえてくる。 全く聞いたことのない声と、慣れない丁寧な口調に恐る恐る応えるように視線を走らせた。 「なに……?」 「今、レティシア様を呼んで参ります」 お休みになられていてください、と優しく付け加えられる。言葉が切れてすぐに、本当に静かに扉が開閉する音だけが響いて人の気配が完全に消え去った。 誰かがいる気配すら感じられなくて、今まで何も分からなかった自分が少しだけ恥ずかしくなる。特に何かをしたり、言葉を口にしたわけではなかったから聞かれたり見られたりして恥ずかしいことはないのだが、それでも自分の知らないところで第三者に目撃されていたのだという事実は羞恥心をもたらした。 ここは、どこなのだろう。 疑問ばかりが湧き出てくるのに、何一つ自分の力では答えを見つけることができなくて、それなのに答えを少しでも知っていそうな人が今しがた出て行ってしまったものだから、不安が募っていく。 ───あの人は、どこにいるのだろう。 夜のような艶めいた黒髪と、自分が一生を費やしても見ることができないであろう高価な宝石のように美しい瞳が頭から離れない。あの瞳に見つめられて、綺麗な形をした唇で名前を呼ばれて、その手で触れられて、自分の全てが囚われてしまった。それがただ恐ろしかっただけなのか、それとも別の何かがあったのかは、今となっては判断が難しかった。 会いたいのか、会いたくないのか分からない。 それでも、このまま二度と会えなくなってしまうのは何だか胸が落ち着かない気がして、そんな風に考える自分にほんの少し戸惑った。 一目見た瞬間からおかしくなってしまった自分が怖いし、恥ずかしい。困惑するようなことばかりが一気に押し寄せてきて、自分すら理解できなくなってしまった。 (──会いたい……) 何を考えることもなく、そう思った自分がいることを自覚することができなかった。 自覚できなかったため、何故そう思ったのか、誰に会いたいのかまで深く思考を巡らせることもしないまま瞳をゆっくりと瞼の下に隠してしまう。そのまま、小さな自分の唇をそっと指先でなぞっていく。ここに触れた温もりを、忘れることはできないだろうと思った。唇だけではない……この身体全て、激しいほど奪われるように熱で満たされていった。 熱くなった吐息がか細く勝手に漏れ出る。 そんな自分に困惑して、再び瞳を開けたと同時に扉をノックする音が響いて、その身を跳ね上がらせた。静かな音だというのに、まるで自分の心臓に響くような感覚がして心底驚いてしまう。

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