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2章(2)
「ご苦労様。あなたたちには、殿下への伝言を頼んでもいいかしら。…この子が目を覚ましたと、伝えてきてちょうだい」
「はい、すぐにお呼びいたします」
「それと、この子に合う服をもう何着か用意しておいて」
「かしこまりました」
呆然と眺めている間にやり取りは自然と終わっていた。
後ろで綺麗にまとめられた髪を乱すことなく恭しく頭を下げ、ひとりの女性はそのまま姿を消してしまう。
見たこともない姿に困惑した表情を浮かべていることは自覚しないまま、自分の元へと凛とした足音を立てながら歩み寄る女性を見つめた。
輝かしいプラチナブロンドの髪を一纏めにした女性の碧眼が自らを見下ろし、視線が交わった瞬間に瑞々しい唇が動きを見せる。厳しさも感じさせるはっきりとした顔立ちの表情がほんの僅かに和らいだ。
「目が覚めて良かった。気分はどうかしら」
「ぼく……?」
「あなたの体調を聞いているわ。どう?どこか痛いところとか、気持ち悪いとか…ない?」
「だ、いじょうぶ…」
「無理しなくていいのよ」
ずっと頭が重いような、痛いような、そんな感覚が続いてはいるものの耐えられないほどではなかった。
声もほんの少し掠れてはいるが発声はできたし、先ほどと比べれば言葉もスムーズに出てくる。ひとまず自分の体調がそこまで悪いのではないと把握できて、安心するように深い息を吐き出した。
そんなノアを急かすことをせずに、女性は言葉を促すことなく優しく見つめてくる。そんな視線が少しだけ居た堪れなく感じて、ノアは目を合わせないようにして慌てて言葉を紡いだ。
「ここ、どこ…っ?」
視線を巡らせた瞬間に全く見慣れない、見たこともない景色が飛び込んできて動揺したノアが慌てて身を起こすと、反射的に動いた右足首に経験したことのない激痛が走った。
「いた…ッ!」
「足を挫いたところはまだ治ってないわ、無理に動かしてはだめよ。まだ横になっていて」
「挫いて…」
記憶が徐々に鮮明になってきて、怪我をしたての頃よりは治ったはずの痛みが強くなっていくようだった。ずきずきと響く痛みは余韻を引いていて、無意識のうちに手のひらで患部を撫で続けた。
そんな様子を見ていた女性は労わるような眼差しを向けながら眉尻を下げ、心底申し訳なさそうな顔をする。
「本当は治せるはずなんだけど…こちらの事情で、応急処置しかしていないの。ごめんなさい」
少しの間、辛抱してね。と言われる。
言われている内容が全く頭に入ってこないせいで、ノアは酷なことを言われている現実を実感できなかった。
自分がどんな状況下にいるのか少しも把握できないことには変わりなく、ノアは不安な色を宿した瞳で目の前の女性を見上げる。
「だれ…?」
「私はレティシア・ローズ。皇子殿下の副官として動いているわ」
「おうじ……」
理解はおろか聞き取ることすら困難な言葉ばかりを並べられて、ノアは頭痛が酷くなるようだった。教えてほしいことはもっとあるはずなのに、分かることは少ない。辛うじて分かった彼女の名前を緩慢に胸の内で繰り返しながら、口では違うことを音に出していた。
「なんで、僕…ここにいるの…?ここ、どこ……?」
「アルドヘイム国。あなたの村から移動して来たの。ここはアルドヘイムの首都カルディアと言うわ」
「そんなの、急に…どうして僕がここに…」
彼女の口から語られるものは全てがノアの理解を超えていた。
聞き慣れない言葉が滑っていく。
そんな混乱を隠すことなどできるはずなく、ノアは今にも泣きそうな顔をして視線をうつむかせた。
アルドヘイムは、ノアでも名を知っている大国である。
知っていると言っても、田舎育ちの子どもであるノアは本当に名前だけを聞いたことがあるというだけで、そこがどんな国なのか、どこにあるのかまで具体的には知らなかった。これまで各国との争いは絶えなかったと聞いていた。ノアが幼少の頃にも、大きな戦争があったと。そうした紙面上、あるいは口上の当たり前の事実だけしかノアの中には入ってきていない。
困りきった様子を見せるノアに対し、レティシアは怪訝そうに眉をひそめた。
「何も…聞かされていないの?」
「なに……?」
「……あなたが、オメガであることは?」
「聞いたけど…オメガって、本当に…?聞いたこともないのに」
「…本当に?」
「うん…そんなの、初めて…聞いて…でも、詳しいこと、なにも……」
あの人は、多くを語らなかった。
頭が痛くて、胸が少し苦しくなる。ただただノアを衝撃と混乱の淵に叩きつけて、考える時間も余裕も与えてはくれなかった。
──オメガもアルファも、分からない。
信じきれていない…否、信じたくないとどこかで訴えている自分の本心とは別に、あの場で意味もない虚言を口にするような人ではないのだと理解している部分もあった。
カルムーニュ村の人たちは、誰一人としてそんなことを言ったことなどなかった。
両親も、幼馴染のセシリオも、みんな。ノアがオメガと呼ばれる種の人間だなんて、そもそもオメガという存在を知っている者なんてきっといなかった。
ノアの中にあった常識は、たったひとつの出来事で塗り替えられてしまったのだ。
流石にこの歳にもなって赤ん坊はコウノトリが運んでくるのだという話を本気にしているはずなどない。
小さな村であれど基本的な教育のひとつはされているし、性行為のうえで子をなすことなんて理解している。しかしそれは、ノアの中では父と母のように男女が関係を持った結果であったのだ。
それ、なのに───。
「何を聞いたの?」
「え…っ」
「…ほとんど説明を受けていなかったのね」
動揺して狼狽えたノアの反応から解釈をしてくれたレティシアに内心で感謝をする。それ以上の追求を受ければノアは何も言えなくなってしまいそうだった。
しかし、詳細の説明をされたわけでもなく、彼女の言葉は遠からず当たっていた。
「…そう」
「だ、だめ…?」
「いいえ、そんなとこないわ。ごめんなさい、私の発言で気分を悪くさせてしまったかしら」
「う、ううん…」
年下の、ただの子どもに対して丁寧に扱うような言葉をかける彼女に謝罪されて、ノアは反射的に首を横に振っていた。
レティシアは何かを考えるように、一度だけ視線を窓の方へと流した。
それから、寝台の脇に置かれていた椅子を音を立てることなくすっと引き寄せて、ノアの目線の高さに合わせるように腰を下ろす。急かさず、しかし黙りもせず、ただ言葉を選んでいるのだということが、ノアにも伝わってきた。
「……あの方は、必要なことしか、お話しになっていなかったのね」
それは責める声ではなく、どこか確かめる意図をもったような、そんな声だった。
ノアは小さく頷いた。
あの夜の森で、あの人が口にしたのは、自分でも掴みきれないような熱い言葉ばかりで、その意味を考える余裕などノアには欠片もなかった。
「あなたが…これから先、自分の身体に起きることを知らないままでいるのは、あまり良いことではないと思う。最低限のことだけ、私からお話ししてもいいかしら」
「……うん」
落ち着いた声音に、ノアは自然と耳を傾けてしまう。
彼女は、決してノアに押し付けるようなことはしなかった。ノアの許可を取るような言葉を選びながら、それでいて、丁寧に研がれた刃のような清潔さも持ち合わせていた。
決して、その声は鋭く突き刺してくるわけではないのに、その先を逸らさせない響きも持っていることには、ノアは気づけなかった。
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