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2章(3)
「人間には……私たちには、男と女の他に、もうひとつの区別があるの。それがアルファ、ベータ、オメガ……生まれつき決まっていて、後から変わることはないわ」
「アルファ、ベータ……オメガ…」
慣れない三つの言葉を音にするように、ノアは一つずつの単語を唇の上に並べるように声に出した。
「多くの人はベータ。あなたがカルムーニュ村にいる間に出会ってきた人たちのほとんどが恐らくそうだと思う。ベータには、特別な体の違いはないの」
「お父さんと、お母さんも……?」
「ええ、恐らくは」
それなら、自分は何故違うのだろう。ノアは少しばかり瞳を俯かせた。
両親と同じ血を受けて生まれてきたはずなのに、何故自分だけが……聞いたこともない側に振り分けられているのだろう。けれど、その問いを口にしてしまえば、レティシアの答えがまた自分を遠くへ連れて行ってしまう気がして、ノアはその問いを言葉にはしないまま、唇を結んでいた。
「アルファは、通常はほんの一握り。身体能力も、魔力も、生まれつき他の人より高い。社会の中心に立つことを定められている、とも言えるわ」
「レティシアさん、は……?」
「ええ。……私もアルファよ」
そう告げる彼女の声には、誇るような感情も、自分を卑下するような感情の色も乗っていなかった。
ただ事実だけを告げるように、表情も声色も変えることなく告げていた。
「そして、オメガは……アルファやベータと比べると、少ないの」
「僕が、それ……?」
「そうよ」
短い肯定が、不思議とノアの胸の底に重く落ちてくるのを感じる。
世界の中の珍しい区別の側に、自分は最初から立っていた。それを、十八になるまで誰一人として教えてくれなかった。両親も、セシリオも、村のみんなも、何も言っていなかった。それが優しさだったのか、それとも別の何かだったのかを知る術はノアにはなかった。
「……オメガには、フェロモンがあるわ」
「ふぇろもん」
聞いたことのない単語を、ノアは小さな声でなぞる。
そんなノアのたどたどしい言葉を聞き、レティシアは少しだけ言葉を探すような間を置いてから説明を続けた。
「匂いのようなもの…と思ってもらえれば、いいわ。あなた自身には分からないかもしれない。気づかないうちに、身体から出ているの。それを、私たちアルファだけが感じ取ることができる」
「僕、匂いを出してるってこと?」
不安そうに、戸惑うように、そして疑うように自分の手の甲を鼻先に近づけようとするノアの様子を見て、レティシアの口元がほんの僅かに緩んだ。
「今はほとんど出ていないわ。あなたの場合は、特に」
「特に?」
「あなたの身体は、これまで少し眠っていたみたい。普通のオメガなら、もっと早い時期から身体に変化が出てくるものなのだけれど……あなたは、それが遅かった」
なぜ、ということを、レティシアは語らなかった。語れない、と言うべきだったかもしれない。
「だから、村でも誰にも気づかれずに過ごしてこられたのだと思う」
口調は少しだけ弱まっていた。断言できる内容ではなかったからだ。
カルムーニュ村で何故バース性が知られていないのか。そしてなぜこの少年が十八になるまで身体の変化も起きず、オメガと知られることもなく、無傷でいられたのかも……全て彼女には説明ができなかった。
そんなことをノアが知る由もなく、ただ小さく首を傾げるだけである。
「でも、これからは少しずつ……本来のオメガの身体に、変化していくかもしれない」
「変化、って……」
ノアの問いにも満たないような小さな呟きを耳にして、レティシアは少しだけ姿勢を改めた。
ここから先の話は恐らくこの子の中に長く残る——。
それでも、伝えなければならない事実として、彼女は静かに口を開いて言葉を続けた。
「オメガには、フェロモン以外にも特徴的な身体の機能……発情期 というものがあるの」
「ヒート……」
「だいたい三ヶ月に一度の周期で訪れる。一週間ほどの間、フェロモンが強くなって……身体も、自分では抑えられないくらいになる」
「自分で、抑えられないって……?」
先ほどよりもずっと問いの形にもなりきらない言葉が、ノアの唇からほろりとこぼれ落ちる。
身体が自分の言うことを聞かない。
レティシアの言葉の意味がノアにすぐに理解できるはずがなかった。それでも……身体の奥深い所が、勝手に受け入れていた。
丘へ向かう坂道の途中、身体の中の知らない場所が熱を持ち始めたあの瞬間のこと、そしてその後───。
ノアは思い出して一気に全身が硬くなるのを感じた。性愛のことを身体で知らない自分のあの時の言動が、記憶から全て消え去ってくれてはいなかった。あの感覚がこれから何度も、もっと強く、自分の中に来るのだということだけは、本能のようなところで理解しているような気がした。
「いつ来るの?」
「こればかりは、私にも分からない。明日かもしれないし、数ヶ月先かもしれない。あなたの場合は、初めての発情期 がいつ来るか…予測できないのだと思う」
「ずっと、毎月……?」
「平均的には、三ヶ月に一度くらいと言われているわ」
それが続く——という言葉を、レティシアは口に出さなかった。長く続くという言葉をこの少年の前に置くことには、彼女自身がほんの僅かに躊躇いを覚えたようだった。
ノアは、それ以上何も言えなくなった。
季節がひとつ巡るごとに、自分は自分の身体を制御できなくなる。そんな身体を抱えて、自分はこれから生きていかなければならない。
教えてくれなかったというよりは、誰も知らなかったのではないか、と思った。村のみんなも、両親も、セシリオも。ノアがそうした性だということを、ノアの身体がそうした作りをしていることを。本当に、十八年生きていてそんな単語が耳を掠めたことは一度もなかったのだ。
「ただ……」
続くレティシアの声を聞いて、俯きかけていたノアの肩が小さくぴくりと動いた。
「抑える方法もあるの」
「抑えられるの……?」
ええ、とレティシアは平坦な声で答えた。
そしてそれから、ノアと目を合わせはっきりと告げる。
「アルファに、項を噛まれること」
「項を、噛む……?」
ノアの手が無意識に自分の項に触れた。柔らく薄い肌の上を、自分の指がそっと滑る。
誰かに噛まれるという言葉の意味を、頭ではなく肌の方が先に受け止めようとしていた。頭では、何も理解できていなかった。人に噛まれるという行為について、ノアは何も分からなかった。
「噛まれると……外に漏れるフェロモンが止まるの。発情期 も、表に出にくくなる」
「噛まれるって、痛いの?」
「一瞬の、ものよ」
レティシアは少し言葉を選んだ。
彼女自身が、項を噛まれたことはない。アルファである彼女にはその経験はない。噛んだこともなかった。そして身の回りに、真っ当な状態で項を噛まれ番関係を結んだことのあるオメガもいなかった。
彼女の周りは、どこまでも欲と闘争の最中にあり……オメガは力のある人間に犯され、悪戯に項を噛まれ、健常な生き方ができなくなる例で溢れていた。
そのため、書物や報告書の中で読んできた事実をできるだけ削ぎ落とすことで、温度のない説明だけを彼女は言葉でノアに渡した。
ノアは項に触れたまま、しばらく黙っていた。無意識の行動だった。
黙ったまま、身体の中の知らない場所が薄く熱を持ち始めているような気がした。けれど、その熱が何を意味するのかは、もうノアには問う気力もなかった。
「……あなたが村で襲われたのも、フェロモンが出ていたのが理由。あの男たちの中にはアルファがいたから、あなたのフェロモンを感じ取ったのだと思う」
「……ぼくの、せい……?」
「違う」
その瞬間だけ、レティシアの声がほんの僅かに強くなった。
「あなたのせいではない。絶対に」
その語気の強さに少し驚いて、ノアは顔を上げた。
彼女の瞳は静かなままだったけれど、その奥に、何か……怒りに似たものが、隠しきれずに残っているように見えた。
「とても嫌なことを言うわ」
隠しきれずに残ったものを打ち消すように、一度だけ瞬きをして、レティシアはノアの青紫色の瞳を見つめた。
「オメガは……世界の多くの場所で、人として扱われないことがある。奴隷や物として売り買いする場所もあるし、もっと酷いことになる場所もある。身体に、値段がつくの。……あなたがカルムーニュ村にいたままでは、いずれもっと辛い目に遭っていた可能性が高い」
「そんな……」
「だから、ご両親はあなたを送り出された」
レティシアの言葉に偽りはなかった。しかし、全てでもなかった。
「お父さんと、お母さんは……」
「あなたの安全のためだけとお聞きになって、頷かれたわ」
それ以上のことは私からは何も言わない——という形で、レティシアの言葉は閉じられた。
両親が何を聞いた上でノアを渡したのか、どこまで知った上で頷いたのか。その全てを彼女はノアに伝えない。伝えないという選択を、彼女は副官として…否、ひとりの人間として自分に課していた。
ノアは何かを言いかけて、唇を震わせたものの、結局何も言わなかった。
両親が頷いたという事実だけが、頭の中で何度も繰り返された。
会いたい、帰りたい、と思う気持ちと、それでも両親は頷いたのだという事実が、自分の中で同じ場所に置けないでいた。
置けないものの代わりに、ノアは俯きながら別のことを問いとして口にした。
「……セシル、は……?」
ぽつりと、ノアの口から漏れた名前だった。
レティシアの瞳が、ほんの一瞬だけ動きを止めたのは、俯いていたノアには見えなかった。
「……セシリオ君のことね。村長のご子息の」
「うん……丘の上で、会う約束してたの。僕が行かなかったから心配してる……よね」
「あの子も、あなたが村を出ることは説明を受けたわ」
「……怒ってた?」
「怒っては…いなかったと思う」
レティシアは短く答えた。
最後まで反対していたあの少年の眼差しを、彼女は今もはっきりと覚えている。
最後の最後で、両親に「ノアを行かせるな」と懇願したがっていたあの瞳。けれど、それを今ここでノアに渡すわけにはいかなかった。今この少年に必要なのは、それではない。
少しの沈黙の後、レティシアは静かに付け加えた。
「ノア君」
「なに……?」
「これから先……ここでは、その名前をあまり頻繁に口にしないほうがいいかもしれない」
「どうして?」
「……あの方のご機嫌を、損ねることがあるかもしれないから」
理由としては、薄かった。常に嘘をつかない数字やデータを武器に言葉の重みを持たせてきた彼女にとって、機嫌という根拠はあまりにも薄いものだった。
けれど、それ以上の言葉をレティシアは選ばなかった。
自分が今、なぜこの言葉をノアに渡そうとしているのかをはっきり理解できていなかった。ただ、あの男の眼差しを……自分は副官として長く見てきた。その経験が口を動かしていたのだ。
ノアは戸惑った顔のまま、何も理解できないままでも小さく頷いていた。
理由も何も分からないというのに、レティシアの声に込められた重みのようなものを感じ取って、頷いてしまっていた。
あの人も機嫌という言葉も、ノアは察することも理解することもしていない。それを、レティシアも分かっていて、あえて詳細の説明を加えなかった。
「あとのことは……」
レティシアは、ほんの少しだけ視線を扉の方に動かした。
普段なら完全に消している足音が、今は遠くから微かに聞こえ始めていた。意図を持っている、とすぐに判断できるほどには長い付き合いをしている。
「私からお話しすることではないわ」
「レティシアさん?」
「あの方が、直接あなたにお話しなさるはずよ」
何のことを言われているのか、ノアにはまだ分からなかった。
オメガの体のこと、フェロモンのこと、発情期 のこと、項を噛むこと、両親のこと、セシリオのこと。
既に頭の中はそれだけで満ちきっていて、これ以上何かを受け入れる余地は正直なかった。何も知らない場所で、何も知らないまま置かれている……それだけでも、ノアにとってはいっぱいいっぱいである。
それでも、レティシアはあえてその余地を残したまま、腰かけていた椅子を最初と同じように音を立てることなく元の場所に戻し、背筋を伸ばしてから扉の方へと歩みを進める。
彼女の足音の二つ目を聞いたと同時に、ノアは身体が熱くなっていることに気が付いた。
経験したことなどないから分からないはずなのに、甘美な毒を舐めたかのように舌の先がびり、と甘く痺れて鼓動が一度大きく跳ねる。数回の呼吸が乱れて、一雫の汗が頰の曲線を辿り、滴り落ちていった。
扉が開く音が、ちょうどその時に響いた。
レティシアが扉の前で足を止めたタイミングは恐ろしいほど正確で、入って来た部屋の主の動線を邪魔することなく、しかしすぐに視線を交わして沈黙の中で状況を伝えられる位置だった。
赤紫の瞳と視線が交わったのは一秒にも満たない。
そのまま寝台の方へ進む背中の半歩後ろに付きながら、レティシアはゆっくりと瞬きをした。
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