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2章(4)
「数日寝込んでいた割に調子は良さそうだな」
ノアの心、思考の大半を奪い取ってはその存在だけで身の内を占領し続けている張本人の声が聞こえて、ハッとする。息を呑む音が大きく響き、頭の中が一気に鮮明になっていくのを感じて全身が震えた。
「あっ…」
第一声は、有意味な言葉を出せなかった。
痺れて、下がまわらず、唇が小さく震える。
まるでずっと前から焦がれて求めていたかのように、姿を視界の中に捉えてすぐ言い表せない熱に覆われていく。
あの時出会ってからこんな状態ばかりだ、自分ではコントロールできない感覚が押し寄せてきて支配されてしまう。自分の意思であり、自分の身体であるはずなのに、なぜ言うことを聞いてくれないのか分からなくて勝手に涙が出そうになった。
「ア、アルフ……僕、」
「どうやら、俺のことは覚えているらしい」
「あんなことされて、忘れられるはずないのに……!」
抑えきれず、声が漏れた。
一生をかけても忘れることなどできないような経験を強いられ、残り続ける痕をつけられた。それなのに忘れる可能性があったのだと冗談でも言われて抑えきれない感情が込み上げてくる。
あんな強引に身体を重ねて、掻き乱して今もノアを悩ませ続ける本人を忘れることなどできやしないだろう。分かっていてそんな言葉を投げかけてきたのだとノアでも理解できて、ノアは怒りたいような泣きたいような、訳の分からない感情に呑まれそうになった。
「ノア君、この方に対してその言葉遣いは、」
レティシアの言葉を、彼は軽く手を上げるだけで制した。
「構わん。俺が許可した」
「ですが」
「お前は下がっていい」
言いながら、靴音を響かせ乱れぬ姿勢でノアが身を任せる寝台にまで歩み寄って来る。ノアは、思わず足を寄せながら白い布の上で身を後退させようとした。
「後は俺が話す」
村に来た時とは違う装いだ。
黒を基調とした礼装は軍服を連想させる。襟部分は蘇芳で染められ金色で縁取られている。片肩から前部にかけて吊るされた金の飾緒は組紐状になっており、胸元の金具で留められている。得物を扱いやすいようにと作られたのだろう、左肩のみペリースがかけられており歩く度に優雅に揺れていた。
そんな姿をじっくりと見る余裕などノアには欠片もなく、ただ近づいて来る気配に慄き全身に緊張が走る。どうにか自分の元へ来るのを止めたくて、それでも有効な手段を持っていなくて、唯一できることとして懇願するように声を出した。
「こ、来ないで…」
広すぎる部屋だと言うのに、あっという間に距離は縮められていて、ノアは狼狽した。
「だめ、そこから動いちゃだめ…っ」
それ以上近づかないでほしい、お願いだから、やめて。
そんなに近寄られたら、また自分が弱ってしまう。どうすれば良いのか分からないのに、何も構えることも防衛手段のひとつもないのに、あの時みたいにまた自分を見失ってしまいそうになる。
ノアの言葉を聞かず、そんな心情を知ってか知らずか彼は歩みを止めてくれなかった。無情な足音を耳にしながら、薄い透明な膜が張った瞳で男を見上げる。
「だめって言ってるのに……っ」
「そんな弱々しい顔で言われても、抱きしめてやりたくなるだけだと教えてやろう」
「…ぁ……っ」
身を屈め、まるで何か特別な言葉をかけるような声でそう諭されて、驚くと同時に羞恥心が生まれ出てノアは頰を赤くさせた。身がすくんで力がうまく入らないようだった。
その言葉を意識してしまい、自分が既に彼の手の届く距離にいることに気がつく。腕を伸ばされたら、体格差も相まってすっぽりとその中に収められてしまう…そうすれば逃げ場など本当になくなってしまう、ノアは慌てて身をよじらせた。
「ぃ、や…!」
どうにか腕を突っ張って至近距離にあった男の身体を押し返す。
まるで小さな子どもの悪事や悪戯を微笑ましく見るように小さく笑い、男は身を離した。それが、ノアの力に負けたからなどではなく、わざと押し負けて離れてやったのだと分かってノアは僅かばかりに悔しくなる。自分の不慣れさが如実に行動に出ているものの、悪いことをしているわけではないのだと言い聞かせて、どうにか自分を保つ。
熱が上がってきたのか全身が熱くて怠くて、それを逃がそうと重い息をゆっくりと吐き出して落ち着かせた。
「何で…あんなこと…」
「何度も理由は話したと思うが」
「し、んじ…られない、だって、…理由があっても、あんな強引に」
「強引に事を進めたのは認めるが、お前も満更ではなかったのではないか?」
「ちが、そんなこと…っ、無理矢理されて…!」
まるで望んで身体を拓かれたのだとでも言わんばかりの言い草にすぐさま否定する。
あんなことを望むはずがない。
ノアは情を交わす行為自体が初めてだったのだし、何より自分が突然そんな対象になると思っていなかったのだ、いくら相手が誰もが羨む美丈夫であり、初めて見た時から魅力を感じた人間であろうと進んで行為に及ぶはずない。それなのにこんな言い方をされればノアでなくても誰だって反発するはずだ。
しかし男はどこ吹く風でノアの言葉を受け流し、小さな笑みをその唇に浮かばせたまま更に続ける。
「それなら俺を殴るなり罵るなりしても良かったと思うが、お前は一切しなかったな」
「した!」
「小さな抵抗だけをな。それも形だけだ」
「そんなことない…っ」
頭がくらくらする。
自分の目に映る物の形がぐにゃりと歪んで、視界がぼんやりと揺らいでいく。
「どうせお前は俺を知らなかったんだ。他の人間ならともかく、お前が俺を拒絶しない理由はないな?」
「そ、そんな…違う、のに……」
「お前の身体は素直に悦んでいた」
「────っ」
揺れる視界と熱に覆われて、明らかに自分の体調が万全ではないことに気づき、ノアはシーツの海へと沈みそうになるのをどうにか堪えた。
熱くて熱くて、息がうまくできなくて苦しい、苦しくて仕方がない。
じわりと涙が滲み出て、熱に浮かされた頭の内側から鈍痛が響いてくる。全身を襲う倦怠感が酷くなっているような気がして、ノアの瞳がぼんやりと揺らいだ。
様子に気づいたレティシアが、彼の半歩後ろから身を乗り出してその手を差し伸べる。
「殿下!」
非難する眼差しが、ノアの体調を気遣わない男に向けられた。
「何も知らない子を相手に、大人気ないとは思わないのですか」
「ようやく見つけて手をかけた番に、こうも頑なな態度を取られる俺の心情も考えてみろ」
真っすぐにノアを庇ったレティシアの姿に苦笑を浮かべながらも、彼に反省している色は見られない。
彼女の行動を咎める様子も全くなかった。彼女がその行動をとることを、最初から予測したうえで言葉を選んでいたような素振りすら見せた。
「この子は何も知らなかった。こんな急に物事を進められて、動揺しないはずありません」
「いずれにしても動揺する結果になるのは違わないと思うがな」
「それでもです。物事には順序があります」
「丁寧に順序に沿っている最中に横取りされるなど、笑い話にもならん」
真剣な声で語る言葉に、レティシアが僅かに視線を俯かせる。
「……まだ、本調子じゃありません。可哀想なことをしないであげてください」
「三度同じことは言わん。下がっていろ」
「…承知いたしました」
レティシアの手が離れる。ノアは思わず手を伸ばそうとした。
「ぁ、待っ…」
唯一この空間で少しでも助けてくれそうな…否、彼と二人きりという状況を作らないでくれる第三者に留まっていて欲しかったのに、彼女は命令を受けると一度頭を下げてすぐに部屋を後するように背を向けてしまった。
静かに扉が閉まる音が響いて、ノアの表情は目に見えて暗くなり、泣きそうにくしゃりと歪む。
この状況で二人きりにされると、もうノアには逃げ道一つない。何を言われるのか、何をされるのか分からなくて孤独を感じてしまい、視線を下げたままベッドの上で自らの膝を抱えた。
男は、すぐには口を開かなかった。
寝台の脇まで歩み寄って、しかし足を止めた位置からノアの膝の抱え方を見ていた。怪我をした足を、抱える腕の中で庇っている小さな姿を、彼は短く視線だけで確かめた。
それから、ノアが作ったほんの少しの距離を保ったまま、強引にそれを詰めることをせずに彼は口を開いた。
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