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2章(5)

「アルフレッド・フォン・アルドヘイム。この…アルドヘイムの、第七王位継承者だ」 男の左胸にある黒鋼に金の紋章が、燭台の光を一度だけ跳ね返した。 ノアは膝を抱えながら、まだ男と目を合わせることができないまま……その言葉の意味を、何度か心の内で反芻する。 今まで散々呼んできた名前は彼の謂わば愛称であり、初めて聞かされた本名と…その、肩書きに、意識せずに身を竦ませていた。 ───王位継承者。 その言葉の意味が分からないほど、学がない子どもではなかった。 「おうじさま…?」 与えられた新たな情報に、ノアが不安に瞳を揺らめかせながら聞き返す。 「ああ」 「うそ、そんな……本当に…?」 「疑うのは自由だが、変な言動をすればお前が不敬と騒がれるぞ」 「なんで……皇子様なんかが、僕に…」 「お前以外に用はない」 短く落とされた声に、ノアの言葉が中途で途切れた。 彼の…アルフレッドの正体が判明した今、レティシアの言葉は更に虚ろなものになっていくようだった。 一国の皇子が、ノアを村から保護する意味がわからない。 村では全く見ない人だと思っていたが、まさか王族だとは思っていなかった。その衝撃に震えていると、アルフレッドが穏やかに笑んで艶を含んだ言葉を紡ぐ。 「よく覚えておけ。お前にとって、きっと一生忘れられない男の名前だ」 伸ばされた手で髪を丁寧に摘まれる。 「わ、忘れる…っ」 「下手な強がりを」 「そんなこと!」 「ないと?そんな風に言うのなら、また同じことをして思い出させてやってもいいが」 「───っ!」 もうあんな思いはしたくないと、考えるよりも先に身体が反応していて、自分が意識していないところで身を縮こまらせようと暴れさせ、足に響いた痛みに小さく呻く。 「いっ……た…」 「ほら…慌てるな、怪我に響く」 あまりの痛みに余計に身体を小さくさせ、痛みに耐えようと必死に両手で足首を包むがそれで和らぐはずがない。 涙を瞳に溜めながら悲鳴をあげるノアを見かねたのか、アルフレッドが諌めるように静かに声をかけてくる。その表情と声が、本当に心配しているようなものに見えて、ノアは余計に混乱した。 「何だ」 「優しいのか、優しくないのか…分からない…」 ただの子どもを、この人は本当に心配してくれるのか。 しかし、ノアが本心から思った疑問を小さく口にすれば、アルフレッドは瞳を細めわざとらしく耳元に唇を寄せてきた。 「そうやって、俺のことを考えるお前は可愛いな」 「な、違う…!」 「どこがだ。目が覚めてからも、俺のことばかり考えていたのではないか?あの日──、」 「やだ!」 心を見透かされている。怖くて恥ずかしくて、ノアは拒絶するように声を荒げてかぶりを振った。 あの日のことなんて思い出したくない。 ノアの中では、まだ治りきらない傷として残っているというのに、アルフレッドは気にした様子ひとつ見せない。 寄せられた身を押し離そうと腕に力を入れた瞬間に、片手でそれを封じられる。いつまで経っても拒絶ばかりするノアが面白くないのか、アルフレッドは揶揄する様子を感じさせない眼差しで真っ直ぐに見つめてきた。 ノアの片方の手首を掴んだまま、大人の大きな手がノアの顎を強く掴み、視線を外すことすら許してくれない。赤みを帯びた紫色の瞳があまりにも綺麗で、息をするのも忘れていた。 「……あの時のお前は、子どもだというのに美しかった。特にその瞳は得難いものだ」 真正面からそんな言葉をかけられて、嘘だとすぐに否定できるほど冷静ではなかった。 彼の瞳は、ノアのそれを正面から捉えて逸らさず、その奥に作り物の色を探そうとしても、何も見つけられなかった。本当にそう思ってくれているのだろうか、と僅かに期待して鼓動を早くさせてしまうほど、ノアは何も知らなかった。 「やあっ」 呆気にとられていると音を立てることもなく僅かに寝台が沈み、反射的にノアは身を後退りさせた。そんなささやかな抵抗よりもアルフレッドの腕のリーチはよほど長く、すぐに捕まってしまい全身を強張らせる。 「そんなに怯えるな」 「酷いことばかりしないで!」 ノアの言葉はアルフレッドの中には留まらず、するする通り過ぎているようだった。 「していない。俺はお前に優しくしていたと思うが…何せ、ようやく見つけた番なのだからな」 「そ、そんなの違う…だって、僕…」 「違うと否定できる根拠を、お前は持っていないだろう?」 「でもっ!でも、違う…そんなの、僕、知らない…」 ノアは力なく、ゆるゆると首を横に振った。 番だなんていきなり言われても、何も知らないし、受け入れられない。 「番がどんなものか、いずれ俺自ら教えてやる」 アルフレッドの香りに満たされるのが分かるほど近い距離だった。 少しでも身動ぐのならアルフレッドの身体に触れてしまう。息をする度にその体温を間近に感じていた。 そう思っていると、不意に彼の手が伸ばされてびく、と肩が跳ね上がりか細い悲鳴が漏れ出てしまう。 「や…っ」 「…怖がるんじゃない」 繊細な線を持った指が、寝台脇の小卓の方へと伸びていく。畳まれて置かれていた亜麻色の布——母が編んでいた最も新しい布——に、アルフレッドの視線が一度だけ落ちた。けれど、彼の指がすくい上げたのは、その布ではなかった。 同じ小卓に、もう一つだけ別の布が用意されていた。 亜麻色のそれよりも細く、染みひとつない純白のリボンだった。眠っている間に知らない誰かがノアの傍に置いたのか……誰の手で運ばれたものなのかノアには知る術もなかった。 アルフレッドの指はその白を選び取っていた。 「あ……」 何かを言おうとして、声にならなかった。 母の編んだ布は寝台の脇に畳まれたまま、彼はそれを退けることもせず、しまうこともしなかった。ただ、自分の選んだ白をノアの額に通していく。 慣れているのかと思うほど、その手つきには迷いがなかった。額の硬質の煌めきを覆うように白い布が一周し、結び目がノアの後ろ髪の下で静かに作られていく。首の後ろ側に回された手が肌を掠める感触に、ノアは堪え切れなくて瞳を俯かせた。 「……俺は言ったはずだ。お前を愛していると」 ノアの頭の上で結ばれていく白の温度と、低く落とされた声の温度が同じ場所で重なった。 あの夜に聞いた言葉が、今この明るい部屋の中で明け渡され、身体の中の熱が一段上がっていく。 「……っ」 何かを言い返したかったのに、何も出てこなかった。息を呑む音だけがやけに大きく響いて、ノアは狼狽えてしまう。 アルフレッドの指が、最後に結び目を確かめるようにそっと触れて、離れていく。 ノアは、自分の額に乗った新しい布の感触を、生まれて初めての温度のように受け取った。 母の手のものではない布が、自分の額にある。 それが何を意味するのかノアは言葉にできなかったものの、何かが入れ替わったのだという感覚だけは肌の奥の方で感じ取っていた。 たった今巻かれたばかりの白い布の上を、ノアは指先でなぞっていく。 「これ…やっぱり、何かあるの…?」 たどたどしく問えば、アルフレッドの視線がノアの指先と、その下の煌めきの上で静かに止まった。 「これ…これが、あるから…僕、こんな所まで…?だから、アルフも、」 必要なのであれば、譲り渡したい。できるかなんて知らない。宝石だけを渡して、村に帰してほしい。 しかしアルフレッドは首を縦には振らなかった。 「……その宝石は、お前のものだ。お前が持っているべきものだ」 静かな瞳で、声色で、ノアを諭すように言いながら宝石に添えられたその手をそっと掴んだ。 「じゃあ、なんで…」 「何度も言っている。お前を探していたと」 どうして、探していたのだろう。 どうして、待っていたのだろう。 宝石が欲しくて自分を連れて来たのではないのだと、彼の言葉は告げていた。ノアの中の小さな期待が、それと同じ大きさだけ、痛みを伴って震えた。 「僕のこと、…僕の、こと……どう…」 どう思っているの、と。 あの時のことを思い出すと、期待ばかりが先走ってしまう。 聞くべきことはもっと違うはずなのに、真っ先に聞きたいと思ったのはその本心だった。 そんなことを聞いてどうするのだとすぐに気づいて大半が出てきてしまった言葉を飲み込む。聞いて真実を語ってくれる保証はなく、真実を語られてもそれを信じられる自信だってない。今この場で聞くのは間違っていた。 慌てて誤魔化そうと、ノアは言葉を詰まらせながらたどたどしく違う言葉を口にする。 「た、助けてもらった時…良い人だって、思ったのに」 「今の俺は悪い男か?」 「ずるい…また、そうやって…」 「お前を手に入れるためなら、良い人になんてならなくていいと言った」 あの時を彷彿とさせる言葉を言われて、ノアが頰を赤くさせたままじっとりと見つめた。 「純情な割に、疑わしい目を向けてくる」 「し、信じられない。僕である、必要性…なんて…」 ノアの言葉を受けてなお、アルフレッドがたじろぐことも、怯むことも、言葉を詰まらせることも一つとしてなかった。 「飾られた花には飽いていた。お前のような子どもを囲うのも良いかと思ってな」 「囲う……?」 「保護だ。お前の身の安全のためにもここに置いてやると言っているんだ。それに、村にいた頃よりもずっと良い生活は保証してやる」 アルフレッドの言う通り、生活水準は明らかに上がるだろう。 この部屋を、アルフレッドの姿を、そして今着ている自分の服を見るだけで生活の差をはっきりと思い知らされる。 寒さに震えることも、暑さに項垂れることも、雨風に作物が育たないことを不安に思うこともない。自分が汗をかいて朝早くから農作業をしなくても、きっとここにいるだけで快適な生活を送ることができる。 それでも、ノアは頷くことができなかった。 「そんなの…いらない……」 「欲がない子どもは扱いが難しいな」 「じゃ、じゃあ…帰らせて」 「今は無理だ。俺の手元で幸せを見つけてみろ」 あっさりとノアの要望は却下されてしまう。両親から離れ突然連れて来られたこの地で、どうやって幸せを見つけられるのか、今のノアには見当もつかなかった。 「そんな…」 「レティシアから聞いただろう。お前のような子どもが村にいたままで、この先どうなっていくか」 レティシアの低くなった声音が、ノアの胸の奥にまだ残っていた。 フェロモン、発情期ヒート、奴隷、物として売り買いされる場所……ノアは、僅かに身を縮めて頷いた。 「身一つで隠れて生きていけるような身体じゃない。それはもう、お前にも分かっただろう」 「……うん」 「俺が、お前を村から連れて来なかったとして」 アルフレッドの声が低くなる。 「お前のような子どもが、どこかの王族や貴族の手に渡って、何をされていたか。あの森の連中のような輩に連れて行かれて、どこの兵舎で何をされていたか。──想像くらいは、ついたか」 「……」 「俺の手の届かないところで、お前が何をされていたか分からん。それを許せるほど、俺はお前のような子どもに無関心ではいられないと言っているんだ」 ──囲われている、と思った。 村にいられないことを諭されているはずなのに、ノアの胸の中ではそれが、まるで両腕で抱え込まれているような感覚にすり替わっていた。あの森で告げられた言葉と、今ここで低く落とされた声が、理解しきれないままにノアの中では繋がっていた。 それが恐ろしいのか嬉しいのかノアには分からず、目尻に薄く涙が滲んだ。 「あ、アル、フ…っ」 声が変な所で詰まった。 アルフレッドは少し目を細めて、ノアの頬を伝う前の涙を指の腹ですくった。 「俺以外の手の中で泣くお前を、想像する気はない」 「……っ」 「だから、ここにいろ」 ──ここにいろ。 たったその一言が、ノアの胸の一番深い場所でずっと張り詰めていた何かをふっと緩ませた。 帰りたい。帰りたい。村に、両親のもとに、セシルの待つ丘に。 そう思っていたはずだった。今もそう思っているはずだった。それなのに、彼の言う「ここにいろ」を、ノアの身体は拒みきれていなかった。 「……でも、ぼく……」 何を言おうとしているのか、自分でも分からなくなっていた。 こんな自分が、この人の隣にいていいはずがない。村のことしか知らない、何も持ち得ない子どもが、王族の人の傍に置かれていいはずがない。そう思って言葉を継ごうとして、けれど、その続きを口にすれば、自分が本当にここにいたいのだと認めることになるような気がして、ノアの声は途切れた。 「僕じゃ、ない方が…ずっと……」 言いかけて、また止まった。 「お前だ」 短い断言が、ノアの言葉の続きを封じた。 他の誰でもなく、お前だ。その声音の中に、ノアが入り込む隙はなかった。何故、と問うことすら、その一言の前では許されないように思えた。 「───顔色が良くなってきたな」 不意に、まったく違う調子の声が落ちた。 攻勢を引いたというよりは、自分の口から発した言葉の重さから自分自身が一度距離を置こうとするような、そんな調子だった。ノア自身、それに気づくはずもなかった。アルフレッドはノアの頬から指を離し、自分の指先を一度だけ何でもないように見て、それから視線をノアの方へ戻した。 「孕む可能性はないと思っていたが、あまりにも寝込むから俺でも心配したぞ」 「し、しないって言った!」 「お前の中は狭くて奥までは入らなかったし、通説通りならな。だが例外などいくらでもある」 行為中の様子を思わせるようなことを言われて、一気に赤面する。 体の奥までいっぱいにされたと思って苦しかったのに、アルフレッドはそれを既に過去の出来事かのようにさらりと話した。 忘れたくても忘れられない生々しい体験が鮮やかに脳裏にこびりついては目の前に映し出されるようで、ノアにとっては堪らなかった。 「そもそもっ、本当に…そんな…僕が、」 「発情期(ヒート)を迎えたらの話だ」 「でも僕、そんなの…、そんなの、困る。やっぱり家に帰りたい、帰らせて…」 理解できて受け入れたはずなのに、ノアはまた言葉を繰り返していた。 危険だと分かった今でも、村に…両親のもとに帰りたかった。 ただただ平穏に、のんびりと変わらない毎日を過ごしていたかったのに、あの日から全てが変わってしまった。 帰りたい。 ノアの願いは、今もなおただ一つだった……はずだった。 そう願う声は、自分でも分かるくらい、先ほどよりずっと弱くなっていた。 そんなノアを見たアルフレッドは少しわざとらしく溜息を吐きながら言う。 「一度は肌を合わせた男に、もう少し心を開いても良いんじゃないか?」 「変な言い方しないでよ!」 「事実しか言っていないが」 「ちが…っ」 だって、あんなのは無理やりだ。 完全に合意の上で成り立った行為ではなかったというのに、心を開けだなんて難しすぎる。 アルフレッドのような大人であれば、初体験のみならず性体験全てが珍しいものではなくなるだろうし、羞恥だって少なくなるだろう。しかしノアにとっては違うのだ、それを──……。 「…お前が頑なに信じようとしないのは、嘘だと言われるのが怖いからか」 「なに…?」 アルフレッドの言葉が理解しきれなくて呆然と聞き返す。 しかし、何にも覆われていない、肌が剥き出しの喉元に熱い感触が押し当てられて固まってしまった。何度も何度も肌に這わされた、柔らかくて湿った熱があの日の感触を思い起こさせて、ノアは身体を震わせることもできない。 「あっ、え……?」 いつの間にか背中を支えるように添えられた手のひらに導かれるように、シーツを背に押し倒され、襟元を両手で広げられ…そこで、アルフレッドが覆いかぶさってきたことにようやく気がつく。 「う、うそ…?」 経験や知識の乏しいノアでも分かる。 彼がこれから何をしようとしてきているのか理解して、それでも信じられなくて揺れ惑う瞳で上目に見つめた。 「本当にしてやるさ。どうやら、俺に求められている自覚がないらしいからな」 「で、でも、できない…!」 「動いた方が汗をかいて熱も引いていくんじゃないか?ああ、足は動かすなよ」 体調が万全な時でも、あんなに痛くて苦しかったのに、今こんな身体で彼の熱を受け止めきれるはずがなかった。 そんなことはアルフレッドも分かりきっているはずなのに、彼の手は無遠慮にノアの身体を弄ってくる。 「ぃ、やあ…」 苦しくて熱くて、荒波に飲まれるように何も考えられなくなる。 アルフレッドの吐息が肌を撫で、その指に触れられ、体の奥まで熱で満たされると自分が自分でなくなってしまうほどの激しさに呼吸が苦しくなって恐ろしくなるのだ。 そんな感覚を思い出して、ノアが瞳を強く閉じながら何度も首を横に振る。震える手でどうにかアルフレッドの手の甲に指先を添わせ、少しでも動きを鈍らせようと試みた。手首を掴むころもできただろうに、ノアのそれはあまりにも弱々しい制止だった。 「…そんな顔をするな。うっかり慰めてやりたくなる」 「だって……」 「キスは好きだろう?」 違う、と声に出したつもりが全く出なかった。 アルフレッドとのキスに溺れた記憶が蘇ってはノアの心も身体も乱していく。 全身が熱いのは体調が悪いせいなのだ。熱も出ているし、今日はずっと調子が悪かった…それだけ、のはずなのだと思いたかった。 「でも、風邪ひいてたら…移っちゃ……」 「…………」 「なに……?」 的外れなことを口にしたということに気づいた時には既に遅く、アルフレッドの指先で顎をく、と持ち上げられていた。 「や、うぅ、ん……っ」 アルフレッドの唇に自らのものがそっと塞がれる。 「ふ、……ン…」 舌で唇をなぞられて、少しだけ開いた隙間からぬるぬるとしたそれが入り込んでくる。簡単に捕まった舌がやんわりと吸われて、絡め取られていく。 違う、これではまるでキスをすること自体を拒んでいないようだ。そういうわけではなかったのに。性行為よりは負担も少ないものの、キスをするのだって恥ずかしいしよく分からなくてできない。 自分の体調が悪化していくのを気にしてばかりいたせいで、変なことを口走ってしまった。後悔しても言葉を取り消すことはできず、アルフレッドに口付けられると本当にそうなのだとばかりにその熱に心地良さを感じては身を任せてしまうから、もうだめだと思った。 「ただそれだけの理由か」 「ち、ちが…」 「……こうして移されるなら、それくらい貰ってやるさ」 項にアルフレッドの指が這わされる。レティシアの声が、ノアの頭の片隅で薄く蘇った。 アルファに項を噛まれること。一瞬のものよ——。 その言葉が今この瞬間の自分の身体と結びついた瞬間、ノアの背筋が震えた。けれど、アルフレッドの指は項を撫でただけで、それ以上のことはしなかった。指は、項の薄い皮膚の上でゆっくりと弧を描いただけだった。 噛まれるという言葉が、何故か遠ざかっていった。 唇の上に重ねられた熱だけが、ノアの思考と身体の感覚を覆っていく。 拒んでいると自分では思っていたはずだった。 押し返そうと持ち上げていた手の力が、いつの間にか抜けていた。指の節がアルフレッドの胸の生地に触れたまま、それ以上動かなくなっていた。 アルフレッドの舌がノアの口の中でゆっくりと奥を探ろうとしている。逃げたいと思った舌が、いつの間にか追われる側ではなく、迎え入れる側に変わっていた。 違うと思った。 思ったはずなのに、自分の唇は閉じなかった。それどころか、ほんの少しだけ自分からアルフレッドの方へと角度を傾けてしまっていた。 「ふ、……ぅ……」 その自分の動きに気づいた瞬間、目の奥が熱くなった。 何故ここで涙が出るのか、ノアには分からなかった。 痛いわけでも、怖いわけでも、悲しいわけでもなかった。ただ、自分の身体が、自分の意思と違うところでアルフレッドの口づけを受け入れているという事実が、どうしようもなく自分の中の何かを揺さぶった。 静かに、涙が一粒だけ頬を滑り落ちた。 アルフレッドは口づけを解かないまま、頬の上のその一粒を親指の腹でそっと拭った。 拭われた跡から、新しい涙がもう一粒とノアの目尻を伝い落ちて行った。

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