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3章(1)
3章 呪われた双子
しっとりとした滑らかな手が、優しい力で足首に添えられる。
怪我を負った時よりも幾分か腫れは引いてきており、痛みも多少は和らいでいるが、未だに動くと鈍く響く痛みに呻くことが多かった。
丁寧すぎると思わせるほどの手がゆっくりと肌を撫でて、治癒程度を確かめる。激しい運動も少しばかり走るのもできそうにはないが、日常生活を送るぶんには既に支障はなくなっていた。それでも彼女たちにとっては、敬愛する皇子の番が怪我を負っていて、治りきっていないという点が重要なようで、困っていなくても毎日毎日患部の湿布を貼り替えては怪我の具合を心配してくれるのだ。
突然主人が連れて来た子どもを訝しむこともなく、生活の違いに苦しんで困りきっている様子を見ては、優しく声をかけて手を差し伸べてくれる。気配りが細部まで行き届いており、近頃のノアが生活をする上で困り果てることはなくなっていた。オメガであることも、未だ二十歳に達していない年齢であることも、名前すら知らない田舎で生まれ育ったことも、ノアを構成する要素を蔑まれることは一度としてなかった。王族に使える使用人としては当然なのか、教育は厳しくされているようで、ノアが不愉快な気持ちにされることは少しもなく、むしろ優しく接しては困らないように助けてもらってばかりで、心から感謝していた。
そんな侍女の手に触れることはせずに、ノアは少しばかり眉尻を下げ困った顔をしながら遠慮がちに口を開いた。
「あの、大丈夫。自分でできるから」
貼っていた湿布を丁寧に剥がしてから、侍女は足浴をさせてくれていた。
怪我をしてから数日は患部の疼痛を抑制するためにも冷やすと良いと言って、苦痛を感じさせない程度に氷頚を使用しながら冷やしてくれた。痛みが引いてきてからは、疲労が溜まった身体をリラックスさせようとアロマオイルを使いながらこうしてマッサージまでしてくれる。流石に入浴までなにかと世話を焼いてもらうのは羞恥心もあったため断固拒否しているせいか、彼女たちはその代わりと言わんばかりにノアが起きている時間に足浴や手浴、マッサージを施すのだ。着替えから整容から何まで、侍女はどこまでもノアの世話をしたがっていた。他人にここまで何かを施される経験をしたことのなかったノアにとって、ここに来てからの毎日は驚くことばかりであった。
侍女が今日使っているのはローズマリーだった。
針を思わせるような細く長い葉と、青みがかった白い花が多く咲く植物であり、海岸近くの湿度の高い地域でよく育つ。ローズマリーの精油はよく抽出され、市民から貴族まで人気が高いのだと以前に侍女が聞かせてくれた。香料への利用だけに留まらず、料理や化粧品や薬と、国によっては医療にまで幅広く利用されているらしい。
甘くほろ苦い、清涼感も引き連れてくる特徴的な香りがふわりと広がっていく。
ほんの僅かに柑橘系の香りがするのは、アロマオイルがブレンドされているからだろう。幅広い分野に使用されているローズマリーは鎮痛作用を持っている。
彼女たちはいつも、洒落た香りの種類も名前も分からないノアの代わりに、体調や気分に合わせて香油を選んでくれていた。未だ痛みが癒えきらないノアの身体を思い、少しでも苦痛が緩和されるようにと工夫してくれているのだと思うと、侍女の行いを完全に拒否することはできなかった。
控えめに申し出たノアを下から見上げ、侍女のひとりは少しばかり瞳を大きくさせている。驚いた顔をしてからすぐに頭を垂れた。
「申し訳ありません。力が強かったでしょうか?」
「全然っ。痛くないし、気持ちいいけど…でも、やっぱりここまで人にやってもらうのは悪いから」
「遠慮なさらないでください。怪我が治れば、きっと外の美しい花を見に行くこともできますわ」
「殿下もきっとお喜びになります」
「それはそれで困るというか、何というか…」
アルフレッドの存在を仄めかされてノアはほんの僅かに狼狽える。
実を言うと、怪我が完治していないから見逃してもらっている面もあったのだ。
あの日、体調が万全ではないからと不安げに見上げてきたノアを見て、アルフレッドはその手を止めてくれた。
代わりに額や頬、唇…胸や首、項、太腿や指先にまで口付けを何度も繰り返された。キスだけをされて、くすぐったくて、むずむずとするようなもどかしい感覚ばかり感じて逆に苦しかったことはアルフレッドに知られているのだろう。
彼には、ノアの反応など全てお見通しだった。
唇が触れる度に甘い吐息を漏らし、唇を震わせ、指でなぞられた肌を跳ねさせていたのも全て、身体が密着していたアルフレッドには伝わっていたはずだ。落ち着けるはずなどなかったはずなのに、アルフレッドに抱きしめられその香りに包まれるとどうしたことか全身から力が抜けていく。
そうしていつの間にか、ノアは上質なシーツにくるまりながら眠っていたのだった。
何度もキスをされたことも、あんなに拒絶していたのに男の腕の中でころっと眠りに落ちてしまったことも思い出して恥ずかしくなり、ノアは意味もなく何度もかぶりを振った。アルフレッドのことを考えると、羞恥心ばかりが先行して冷静に思考を巡らせることが困難になるのだ、あまり考えない方が自分の身のためである。
「今晩は殿下がお帰りになるそうですよ」
そんなノアの胸中など知る由もなく、侍女は良かれと思って更にアルフレッドの話を続ける。
アルフレッドとの出会いから何までを知らない彼女たちにとって、今のノアは会えない離宮の主人がいつ帰ってくるかと心待ちにしているようにしか見えないようだ。長年慕い続けている男が、まさか初めて話したばかりの子どもを組み敷いて同意を得ることはおろか、目的も何も告げずに貞操を蹂躙したなど想像できるはずがないだろうし、言ったところで信じてもらえるはずがなかった。短期間しか彼女たちを見ていないノアにも分かるほど、彼に仕える人たちは皇子を敬愛していた。
「アルフが…?」
「ええ。きっとノア様に会うためにお帰りになるのですね」
アルフレッドは常にノアの側にいるわけではない。
疑ったことは一度もないが、アルドヘイムの皇子であるのは真実であった。
世間知らずなノアが描くイメージの中では、皇子とは常に城の中で使用人を侍らせ、豪華な椅子に座りながら優雅なひと時を過ごしていた。
しかしアルフレッドは全く違った。
ノアが生活する離宮に帰ってくる日はあるものの常にいるわけではない。レティシアを始めとした部下を連れて王宮へ出向き、アルフレッドが抱える激務をこなしているらしいのだ。したがって彼が太陽の出ているうちにノアのもとに来ることはなく、仕事を終えた日だけ自らの離宮に帰ってくるという日々を繰り返していた。
そんな理由もあり、ノアはアルフレッドとまともに会話すらしていない。
村では両親の手伝いをして、子どもらしく規則正しい生活を送ってきていたノアにとって多忙な日々を送るアルフレッドと時間を共有することは難しく、あれ以来顔を合わせることもごく僅かであった。聞きたいことも教えてほしいことも多くあるというのに、言葉を交わす機会すら滅多にないのだから、ノアは大人しく離宮で暮らして養生するしかなかった。本当ならすぐにでも抜け出して村に帰るはずだったのに、何も知らないノアには帰る手段も方角も何もかも分からなかったのだ。闇雲にここを飛び出し、路頭に迷うわけにはいかない。
人肌に馴染む温かい湯がそっと足首にかけられる。
湯が波を立てる度に、余分な力が抜けていくようなほろ甘い香りが漂っていった。
「忙しいなら王宮で休めればいいのに…」
「殿下は大変お忙しい身ではありますが、休まる場所はここですから」
「そんなに忙しいの?」
「自ら戦場に出向く皇子は珍しいですからね」
「そうなんだ…」
「命の危険を伴いますから、王位継承を持つ皇子が戦うことはあまりにもリスクの方が大きいのです。本来なら王族の方は皆、王宮や離宮に留まっている方が多いですから」
言われてみればその通りだと思う。あながち、ノアのイメージは間違ってはいなかったのだ。
皇子という高貴な位を持つ人間が、庶民同等に扱われないことは、何となくわかった。アルドヘイムにとって重宝されるのは皇帝に連なる皇子であり、そんな王族が命を落とす危険と隣り合わせの戦場に自ら出向くなど、滅多にないだろう。
考え込んでいるせいでノアが少しの間黙り込んでいると、侍女は穏やかに笑んだ。
「殿下に会えなくて寂しいですね」
沈黙を一方的に解釈したその言葉にノアは違う意味で一瞬黙ってしまう。
ノアが寂しがらないようにと気を遣って、多忙な日々を送るアルフレッドの王宮内での様子のみならず、ノアと出会う前の彼について侍女はよく話を聞かせてくれた。使用人たちにも高圧的な態度をとることなく接してくれることや、仕事を労ってくれること、多くの部下や使用人のみならず国民からも慕われていること……彼女たちから見たアルフレッドを度々語る。これまで彼が指揮をした戦いでアルドヘイムが敗北を喫することは一度もなかったのだと、誇らしそうな顔で話していた。
そうして、アルフレッドのことをひとつ知る度に、彼のことがどんどん分からなくなっていくのだ。
話に聞けば聞くほど、アルフレッドという男はノアとは何もかもが違った。生まれた瞬間から道は分かれていたのだと思わせるほど、ノアの想像を超える世界を彼は生きている。それなのに、どうして。あの日から、何度も何度も答えの出ない問いかけを繰り返していた。
「寂しいとかじゃ…」
ひとまずは、この場の誤解を解こうと呟く。
アルフレッドにここまで連れて来られたというのに、連れてきた本人が不在を続けることに少しの不満は抱くが、顔を合わせない今に救われてもいた。会いたいという気持ちとできれば会いたくないという気持ちが複雑に入り混じっていて、ノアは困り果ててしまう。
しかし、そんなノアの言葉を素直になれない年頃所以だと受け取った彼女たちは穏やかな笑みを絶やさなかった。
「寂しいとお伝えしても、殿下はノア様を蔑ろにはしませんよ」
「そう……かな」
「ええ」
どうなのだろう、と正直思った。
アルフレッドは自分がいなくても変わらず生きていく男だと、ノアは直感的に思ってしまう。自分だって、アルフレッドがいない今…村に帰りたいという希望を叶えてくれないから会って話をしたいとは考えるものの、会えない現状を寂しいと感じているのかは分からなかった。それでも、アルフレッドと離れることを苦に思わないかと問われると言葉に詰まってしまうのも真実だった。ノアの底に根付いている記憶が、アルフレッドとの離別を拒絶しているようである。
──三ヶ月に一度、一週間ほど。初発は予測不能。
──項を噛むことでフェロモンと発情期を外に漏れなくする。
レティシアの言葉が、なぜか胸の内を過った。理由は、わからなかった。
(痛みは、──…)
ノアが気づかないところで、熱い吐息が漏れていた。
視線の先に、母が作ってくれた亜麻色のリボンがあった。彼はあの時、あの布に触れた。
アルフレッドに抱かれた時、痛くて苦しかったのに、気持ち良くて…ずっとアルフレッドに抱きしめられ続けたいと思っていた。どんなに頑張って否定しようと考えても、乱れた自分を覚えている限り完全には否定できなくてどうしようもなくなってしまう。
ほんの少しの間、物思いに更けていると首元でさら、と耳触りのいい音が響いた。目の前にこれまた綺麗な宝石で彩られた鏡を置かれ、ちょうどいい角度に合わせられた自分の姿が視界に映る。明るい笑顔で見つめている侍女と鏡越しに視線が交わった。
「ノア様、今日こそ首元を飾ってみてはいかがでしょう?」
「えっ」
「肌に傷をつけてしまうのは勿体ないですから耳飾りは避けて、首飾りを今日は選んでみました」
「紫水晶 を使った腕輪もございますし、殿下の瞳と似た色の宝石も用意しております」
目の前の鏡台にどんどん並べられていく輝きの数々を見て、ノアは慌てて首を横に振った。
「い、いいっ!僕、そういうのつけないから」
「勿体ないですわ。殿下もきっと、着飾りたいと思っています」
「思ってない、思ってないよっ」
こんな飾りがいのない子どもに装飾を施したところで見栄えなど良くならないだろうに、侍女たちは仕える主人に喜んで貰おうと事あるごとに宝石がふんだんに使われた装飾品をノアにつけようとしてくるのだ。悪意が全くないことが更に厄介なもので、ノアが何度断ろうとも毎度毎度豪華な宝石を用意してくる。
「せっかくお似合いですのに」
「高そうだし、壊したら嫌だから」
「そしたら、きっとノア様にもっと似合うものをプレゼントしてくださいますね」
「そんなこと、アルフがするはず…」
着飾る美女ならともかく、子ども相手にこまめにプレゼントなど普通は贈らないだろう。
贈り物をするのに、宝石の価値も分からないような相手に見た目だけで喜ばれてもきっと贈り手は嬉しくないはずだ。アルフレッドが普段から手にしている高価なものを思えば、そう考えるのが妥当というものだった。
「殿下はノア様の魅力をよく理解しておられますからね」
「それは…魅力とかじゃなくて、不恰好にならないようにしてくれてるだけじゃ、」
ノアが身に纏う衣服も、侍女に華やかなあれそれを押し付けられそうになった時に、最も着るのに抵抗がないものを選んでくれた。侍女に押し付けられそうになった衣服をどうにか断ろうと必死になっていたところで、アルフレッドは助け舟を出してくれた。自分の格好など大して気にしたことのなかったノアは服の選択を迫られ困惑した。そんな子どもの代わりに、彼は似合う色だと言ってノアにも抵抗がないものを選んだ。決して一瞬見ただけで人目をひく派手な装飾ではないというのに地味なものには見えないそれを見て、アルフレッドはそうしたセンスも持ち合わせているのだとその時に実感したのだった。相手の魅力を引き出すことも、喜ばせる術も自然と身につけているのだ。主人に言われては使用人もそれ以上は口を挟めず、ノアは肌が透けて見えそうなものや装飾過多な服を着るのは回避できたのだった。
首元に下げられた青紫色が、光を反射して上品に煌めいた。海の底のような、深い青が光の当たり方で淡い色にまで変化を見せている。繊細な色の変化を映し出すそれに、ノアの心は釘付けになっていた。
「綺麗……」
侍女が上品に微笑む。何も言わずに、ノアが心からの感嘆が込められた声を漏らした首飾りを、そっとその首に飾った。
「あ、や、そんなつもりじゃ…」
「気分転換というものです。飾りひとつ加えるだけで、気持ちも変わりますよ」
「でも」
つけたくて感想を素直に口にしたわけではなかったが、彼女の気持ちは変わらないらしい。下手に触って壊したりするのも怖いため、ノアも迂闊に手は出せない。
指先から脹脛まで、肌触りの良いタオルで丁寧に水気を拭いてから花のような香りのする保湿クリームを塗っていく手を眺める。こんな風に、他人に世話をしてもらうどころか自分で手入れをする経験もなかったノアでも、数日繰り返されればくすぐったさにもだいぶ慣れてきたものだった。
「殿下に喜んでもらうのは、嫌ですか?」
「そういう、わけじゃ…」
───アルフレッドのしたことは、きっと酷いことだというのに。
ノアが知りたいのはアルフレッドという人間そのものであり、彼のこれまでの栄華ではない…いや、本当は過去も全て気になってはいるのだが、今のノアにとってこのままアルドヘイムに留まっていいのか判断するには、アルフレッドの人間性をもっと知りたかった。
しかし、知ったところで今のノアひとりに何ができるのかと問われると何もできないだろう。
偶然、奇跡的にここから逃げ出せたとしても、人々の話を聞く限りオメガの子どもがひとりでいてはすぐに捕まえられて異国へと連れて行かれてしまう可能性が高い。闇雲に逃げ出したところで、ノアがあの平和な暮らしにすぐ戻れるかというとそうではないことくらい理解していた。
どうすればいいのだろう。
あの日、アルフレッドと一緒にいたいと、行きたいと言った。その言葉に嘘はなかった…確かに、あの時の自分はどこかおかしいような、何かに呑まれて冷静には頭を働かせられなかったが、離れたくないと思うのは今も同じだった。
アルフレッドの、アルドヘイム第七皇子の側にいて、自分はどうなるのだろう。
ずっと関心を持っていてもらえるのか、ある日突然捨てられてしまうのか…ノアは自分の未来が全く思い描けず、毎日不安になっていた。アルフレッドの興味が自分から外れる現実を恐れていることに、ノアは葛藤してしまう。ここから出て村へ帰りたいのに、アルフレッドの心の中に居座っていたいと思ってしまうのも、認めざるを得ないノアの本心だった。
「ふう……」
小さな吐息がひとつ溢れる。
これほどの大都市であり、アルドヘイムの中枢を担う首都を拠点とする皇子なのだ。それなのに、権力者らしく便宜を図ってやるからと地方のオメガを寄せ集めるようなことは一切していないようだった。罪だと知りながらも、他の王族や貴族、将校…権力を手にした人間は振りかざすように立場の弱いオメガを囲っては愛妾や奴隷として側に置く人間もいると言う。どうして、こんな容姿も知識も能力も際立ったもののない子どもを番として欲したのか…何をすることもなく、時間を持て余しているノアはずっとずっと考えてしまっていた。何か他にすることでもあれば気を紛らわせることもできるのだが、生憎今のノアに与えられた生活では叶わない。
「ずっと悩んでいらっしゃるのですね」
女性のような長さもなく、大した手入れなど必要ないだろうに彼女たちは優しく髪を梳かしながら言う。土で汚れることの多かった以前と比べて、癖のつきやすい亜麻色の柔らかな髪にも艶が乗せられていくようだった。
そんな言葉に頷くことも首を横に振ることもできないまま、ノアは曖昧に視線を俯かせる。
「僕、これからどうしたらいいの?」
「殿下のお側にいる…それだけではいけませんか?」
「そんなの……わからない」
一国の皇子の側にいるなど、自分には明らかに荷が勝ちすぎている。いくらオメガの人口が多くはないとはいえ、あえてノアを番に選ぶメリットなどないはずだろうに。
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