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3章(2)

そんなノアの思考を少しでも紛らわしてくれるような甘い匂いがふわりと漂ってきた。食の欲求が大きく占めているのは、未だ二十に満たない少年らしさゆえである。 「いい匂いがする」 「今日はオレンジとショコラのケーキですよ。たくさん作りました、おかわりもございます」 「丁度いい時間になりましたので、お茶の時間にしましょう」 毎日ほぼ決まった時間に、仕えている職人のみならず、使用人たちが手作りの菓子でノアを喜ばせてくれた。 三食きっちりと食べていても、十代の子どもにとっては足りないもので、昼食と夕食の間にもたらされる時間は至福のものである。 ダークチョコレートチップが入ったアーモンド生地にオレンジピールやリキュールを混ぜ込んだ、香りの良いクグロフ型のケーキが目の前の真っ白な皿の上に乗せられている。チョコレートでコーティングされた表面には銀色に煌めくアラザンが飾られており、トップはオレンジコンフィで仕上げられている。母の手作りとは違う、上品でまとまった良い香りが鼻腔を過ぎていった。 「美味しそう…いただきます」 ノアが食べやすいようにと、丁寧に一口サイズに切り分けてくれたケーキにフォークを刺し自らの口へ運ぶ。 「おいしい」 「お茶も用意いたしますからね」 美味しいものを食べている間は幸せな気分に浸ることができた。 まだまだ育つ余地のある年齢であることも要因なのか、元々食べることは好きだった。毎日毎日、どんなに忙しくても両親はお腹が満たされるまで料理を作ってくれていたこともあり、偏食なく色々なものを美味しく食べることができる。それはアルドヘイムに来てからも同じで、何かを食べている時間はノアにとって唯一の安らぎとも言えた。 長年母の手料理を一番美味しいものだと感じながら食べてきたため、どんなものを口にしようと自分の中での一番は不動である。それでも、見た目も綺麗な料理やお菓子の数々は、未だ幼さを宿すノアを十分に満たしてくれていた。 「ん…」 口の端についたチョコレートを指先で掬い、それを舌で舐め取っても、よく教育された使用人たちは嫌な顔ひとつすることがない。貴族たちの優雅なティータイムを見てきた彼女たちにとって行儀が悪い仕草は気になるだろうに、言葉で優しくたしなめることはするが厳しい表情でノアが落ち込むまで叱りつけてくることはなかった。 「みんなも食べよう?」 「まあ。いつもそうお声かけしてくれて…ありがとうございます」 「いっぱい作ってくれたし、それに僕、ひとりで食べたことないよ?」 「それは……素敵なことですね」 少し驚いた顔をしてから、目尻を緩めた優しい笑みでノアを見つめる。 ひとりで食事をするなんてノアには考えられなかった。母や父だけでなく、時間がある日には幼馴染や村の人たちと食卓を囲むことも珍しくはなかった。 ここに来てからアルフレッドに何度か欲しいものを聞かれた。 村に帰りたい、帰らせて欲しいとばかり言ってはそれはできないと却下され続けたノアが初めて口にした他の要望が、ひとりきりでずっと部屋にいたくないということだった。 初めて豪華な食事をひとりで座った卓に並べられた時はどうしたら良いのか分からず、困った顔をして近くに控えていた使用人に隣に座って貰った。一緒に食べるようにと促しても、職務中だからと断固として食べることがなかった。室外の物音ひとつ届かない空間で食事をする気にもなれず、その日は食べることができずに終わった。 それをどこからか聞きつけたのか──ノアの様子は逐一報告されているらしい──アルフレッドが体調がまた悪化したのかと尋ねてきたものだから正直に言えば、次の日からノアが望めば一緒に食事を摂ってくれるようになったという経緯がある。 アルフレッドは常に側にいられるわけではないから、自分の代わりにとノアが話しやすい者を近くに置いてくれているのだと気がついて、やはり彼のことがますます分からなくなってしまう。 (だめだめ、やめよ…っ) せっかく安らぎをもたらすお茶の時間を堪能しているというのに、またもや考え込んでしまいそうになりノアは何度かかぶりを振って思考をかき消した。 数人がノアのために美しく並べてくれたティーポットやカップを眺める。綺麗に磨かれた磁器製のカップは光沢があり、薄手で軽く口当たりに優れている。広く浅い形は紅茶の香りが広がりやすくなっており、紅茶の鮮やかな色もよく映してくれた。 「すごい、綺麗な色」 「殿下のためにと世界中から良い茶葉を集めてきておりますから。ノア様にも気に入ってもらえると、職人たちもきっと光栄ですわ」 「ケーキも全部美味しい」 「たくさん召し上がってくださいね」 優しい人たちばかりだ。ノアの言葉で彼女たちが嬉しそうに微笑むと、それを見てノアも嬉しくなるようだった。 奥深さも感じさせる芳醇な香りと力強い味を感じさせるアッサムを使ったミルクティーがふわりと湯気を立てた。ブレンドされた花の香りが程よく漂う。ノアでも苦味を感じることなく味わえるよう、いつもたっぷりのミルクを注いで用意してくれるのだ。 熱い湯から作られる紅茶で火傷をしないように少しずつ口に含んでいく。 ふと視線を窓の外へと移した時に、見慣れない光景が目に入ってきてノアの動きが一度止まった。 本当に遠くにある小さな影だった。ノアが出ることを許されていない離宮の「外苑」の位置にそれがあった。 「日差しが入ってきますね」 少しのぎこちなさも感じさせない、自然な動作でレースのカーテンを引く。 「……あの人は?」 しかし、一度でも見てしまったものを綺麗になかったことにすることはできず、外まで聞こえるはずなどないというのにノアは声を小さくさせながら隣の侍女に尋ねた。 「アルドヘイムの貴族のひとりです」 「隣の人は、……」 「ノア様」 視界を遮られる。物知らずなノアでも、それがあまり見せたくないという反応であることは理解できた。 侍女が貴族とだけ情報を与えてくれた男の足元で、小柄な少女が跪いていた。穏やかな陽射しが花々を輝かせる中で、この二人はノアの目に異質なものとして映し出される。 「……悪い人なんだ」 「良い噂はあまり耳にはしません。どうか、お近づきにならないようにだけ…」 ノアは何も言わずに、一度だけ頷いた。そしてまた、アルフレッドのことを思い出した。 短期間しか見ていないが、アルフレッドは添えられた華の役割をノアに対して押し付けてくることはなかった。 自分の番なのだと、連れてきたオメガなのだとひけらかすことなど一切せず…かと言って奴隷のように酷い扱いをすることもない。客人が来ても、これまで侍女が教えてくれた他の貴族が愛妾にするように、ノアを着飾って侍らせることも、酌をさせることもしないだろう。彼がそうした輩よりも根っからの高貴な身分であるという理由もあるだろうが、そうした性分でもあるのかもしれない。 本当にただ自分の手の届くこの離宮の中で生活をさせ…それも、不自由ひとつすることのないような生活環境と日々尽くしてくれる使用人までつけて、ただそれだけだった。離宮の外に出られないという現実ではあるが、自分が破格の待遇でここにいることは理解し始めていた。 ショコラオランジュを一口、また一口と食べながら口に広がっていく甘みを堪能する。 チョコレートの甘さの中にオレンジの爽やかな味が絶妙に混ざり合っていて、ノアはその味に夢中になっていた。

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