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3章(3)
すると、扉が開く音と共に、離宮の主が部屋の中へとその身を滑らせるのが見えた。
「おかえりなさいませ」
「お帰りが早く…ノア様も心待ちにしておりました」
そんなこと言ってない、という言葉は音にならなかった。
今日の夜に帰ってくると聞いていたのに、もう帰ってくるなんて想定外だった。心の準備も何もできていないのにアルフレッドと対面する羽目になるとは思っていなくて、ノアは心底焦っていた。唇の端についた甘いそれを舐め取ってから、視線を彷徨わせる。ノアの心とは裏腹に、侍女が用意したケーキはどこまでも甘く舌の上に広がっていった。
誰をも魅了できそうな、艶やかな笑みをひとつ見せてから、彼は乱れない足取りでノアの元へ歩み寄って来る。
「あ、アルフ、あの……」
「どうした」
相変わらず何一つ乱れることのない姿が近づいているのが分かった。
一歩踏み出す度に、いつもとは何かが違うと気づく。
「誰…?」
唐突にその言葉が出てきたのは無意識だった。どうしてそんなことを口にしたのか分からない。
「誰とはまた、悲しいことを言う」
顎を指先で持ち上げられる。口付けをされるかのように目線を合わせられた。
使用人は皆、帰ってきた主が早々に番と触れ合おうとするのをごく自然なこととして受け入れており、大して気に留める者は一人もいない。座っていた席を空け、主人の邪魔になることのないように綺麗にその場を明け渡して部屋の隅、そして外へと身を避けていくのだ。
しかし、それ以上の触れ合いを受け入れる気持ちにはなれなかった。
髪色から肌の色、瞳の形、香り、その指先まで、確かにアルフレッドだというのに…どこかが違うと感じて、それに違和感を覚えた。異質な感覚に戸惑って、ノアはその距離に恥じらう気持ちの余裕も持てず、ただ目の前の男を驚いた顔をしながら見つめる。
「アルフ、じゃ……」
瞳の奥に灯る光が、揺らめいた。
その瞬間に、顎を持ち上げていた指が止まった。
目の前の男はノアの揺らぐ瞳を、ほんの少しの間だけ無言で見つめた。
微かに、ほんの僅かにその瞳の奥が動いた気がした。けれどそれが何だったのか、ノアには理解することができず、言葉にならなかった。
触れていた指が、名残を引くようにゆっくりと離れていく。離れる動作までも、ノアが知っているアルフレッドの手のそれと寸分違わなかった。
「賢いな、お前は」
声色は、完璧にアルフレッドのものだった。
言葉だけが、アルフレッドではなかった。
ノアは何も返せないまま、目の前の男を見上げた。男は薄く笑んだ——その笑みすら、アルフレッドの微笑に何ひとつ違わなかった。
「茶は不要だ。下がっていろ」
控えていた侍女に向けて短く言うと、彼は身を翻した。
部屋を出る前に、彼は一度だけノアを振り返る。視線が、ノアの瞳に留まったような気がしたものの、その数秒の意味もまた分からなかった。ただ、少しだけ……アルフレッドが自分を見る時にはない、冷たい温度があった。
扉が閉まる音を、ノアは茫然としたまま聞いていた。
「……あら」
侍女のひとりが、首を僅かに傾げた。
「殿下は本当にお忙しい方ですね。早々に出ていかれてしまって」
「もう一度、お茶をお淹れし直しましょうか」
侍女たちは何事もなかったかのように動き出した。
床に膝をつきながらノアの足元のタオルを片付け、ティーポットの湯を入れ替える準備をする。
ノアの視線は、閉まった扉の方を未だに追っていた。見えない影を見るように、見えてしまった冷たさを確認するように、既にもう聞こえるはずのない靴音に耳を傾けようとしていた。
扉を閉める音すらも、アルフレッドが閉めた時と同じように聞こえた。侍女たちは皆、アルフレッド殿下と口々に話している。
でも、アルフレッドではなかった。
それだけは、ノアの中で確かだった。しかし、誰だったのかは分からない。
若い侍女がノアのすぐ近くを通った。何かを片付けている。
問おうと思ったものの、口を開きかけて止めた。ノアの中で、問いの言葉がすぐにはできあがらなかった。
あの人はアルフレッドではなかった、という言葉が正しいものなのか、ノアには判断できなかった。侍女たちはあの男を、当然のように主人として迎え入れていたのだ。
しばらくの沈黙があった。陶器が僅かに重なる音だけが響く。
侍女のひとりが、片付けたティーポットを下げて部屋を出ていく。残った年長の侍女が淹れ直した茶を運んできて、卓に静かに置いた。立ち上る湯気が、傾き始めた陽の中で揺れているのが見える。
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