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4章(1)
4章 過去の手
目の前で花弁が舞っていた。
微かな甘い香りが漂い、花吹雪の中を彩るように蝶がひらりと羽根をはためかせる。春の陽気を運ぶような、穏やかなそよ風が過ぎ去っては水面を波立たせていた。
昼の陽射しを浴びながら、鳥たちがさえずる声を聞く。
ぴく、と指先が小さく震えた。
深い眠りから徐々に意識が浮上してくるのを感じて、じきに目が醒めるのだと自覚する。柔らかな感触は他とは比べものにならないほどの上質な枕やシーツだ。決して、土で汚れた干し草などではない。ましてや、天上の楽園のような一面の花畑でもない。
「ん……」
亜麻を紡いだ糸を連想させる色をした睫毛を震わせて、言葉にならない曖昧な声を漏らす。
眩さに顔を背け、枕に押し付けたくなるようなことはなく、未だ陽が昇る前であることを頭の片隅で理解した。
そんな早朝に起きる理由が今はないのだ、もう一度寝入ったところで誰かに迷惑をかけることもない。
無意識に、本能的なところでそう考えて、寝相を少しばかり変えてから全身の力を抜いた。
「…ぁ……?」
しかし、二度目の心地良い眠りに入ろうとしたところで、違和感に気がつく。
離宮の主人以外に、この時間帯に黙って臥所に入ってくる者がいるはずはなく、隣に誰かがいるような気配は決してないはずなのだ。寂しい夜は侍女を寝台に上げて良いと言われていたが、その方法で解決できる種類の寂しさではないため、ノアはひとりで眠ることを続けていた。主人である男以外、この寝台に上がった者は一人もいない。
身近に何か別の気配を感じて、どうにか重たい瞼を持ち上げる。
「なに…っ?」
白布に手をついて僅かに身を起こし、その違和感の正体を探ろうと声をあげる。寝起きのせいで大した声など出ないものの、動揺は大きく、驚いた顔でその存在を目に留めた。
白銀、白……そんな色をした、今まで見てきた女性のものよりも長い髪が真っ先に視界に入る。顔や身体の細部まで観察する余裕はなかった。
「や、……───ッ!」
悲鳴をあげそうになった瞬間に、口元を大きな手で押さえられてしまう。
薄闇に包まれた室内はシン、と静まり返っていて別の気配はひとつも感じられなかった。押さえられたせいで感じる僅かな息苦しさと圧迫感に恐怖を感じて、心臓が勝手に早鐘を打ち始める。じっとりと嫌な汗が背中に浮かぶのを肌で感じながら、その拘束から逃れようとするが、ちっとも状況は変わらなかった。
「しーっ。まだ早朝だ、静かにしなければみんな起きてしまうよ」
口元を片手で押さえられたまま、力強い拘束からは考えられないほど穏やかな声で囁かれる。しかし、それで落ち着けるはずはなかった。
「ん、んうっ…!」
警備は万全なはずなのに、全く知らない男、なのか、女なのか、すぐそばにいることに緊張と恐怖が襲いくる。
───アルフレッドは今日はいない。
多忙を極めている彼は毎日ノアのもとを訪れることはなく、今日もまた例外ではなかった。有事の際には確実に助けてくれるであろうに。カルムーニュでの記憶が、ノアにそう印象付けた。どんなに恥ずかしいことをされようとも、ノアが一番頼りにしているのはアルフレッドであった。
あの日、村で男たちに襲われた時に一瞬で助けてくれたように、きっといつだって自分を助けてくれるのは彼なのだと、理由もなくノアは思っていた。
しかし、そんなアルフレッドは遠征のため隣国まで出向いてしまっている。今この場で彼に助けを求めることは不可能だった。
こんな朝早い時間に誰かが偶然部屋を尋ねるとは考え難く、どうにか大声をあげて兵なり使用人なり誰でも良いから助けを呼ぼうともがく。しかし、背後から羽交い締めにされるかのように大きな身体に抱き込まれて、口元を覆われ手足の自由も奪われていては、どんな抵抗もサラリとかわされてしまっていた。
「こらこら。そんなに嫌がらなくてもいいだろう?」
どこまでも穏やかで、優しい声だった。
柔らかな中低音の声はこの状況下でなければ心を落ち着かせてくれそうなほどで、幼い頃に聞いた父の声を思い出す。
声だけを聴くとあまりにも優しく、たしなめるような色を持っていて……気を抜けば心を許してしまいそうになるが、こうも強く押さえ込まれて、ましてやこんな早朝に不法侵入されているのだから信用できるはずがなかった。
そんなノアの胸中などお構い無しに、侵入者は少し身動いで耳元に唇を寄せる。
「可愛い拒絶をされると、逆に悪戯をしたくなってしまうよ」
「ん……っ」
「敏感な身体だ。それとも、もう彼に躾けられてしまったかな」
「っ」
こういうこととか、と言いながら項を指先でなぞられ、僅かに身体を跳ねさせてしまう。
指先は冷たかった。
「怖がっているのかな?人間の子どもの気持ちは、大人よりも繊細で難しくて、扱いづらいな」
本当に悩ましそうに、不思議がるような声で囁かれてノアも混乱していた。
抵抗ひとつできないほど押さえ込まれているが、衣服を剥がされたり凶器を押し当てられたりすることもない。しかし、その事実に冷静に気づけるはずもなく、ノアは恐怖でいっぱいになった頭でどうにかこの拘束から逃れられないかともがき続けた。
「アルフレッドが連れて来たという可愛い子を見に来ただけさ。そう怖がらなくていい」
密着した体温が、温かくて心地良い。
抵抗は封じられているが何か害を与えられることは変わらずない。そんな中で、よく知った名前がその口から紡がれて、ノアはついつい無意識に強張った身体からほんの少し力を抜いてしまっていた。
アルフレッドの、知人なのだろうか。
それなら、彼が何かしら知らせてくれていたはずだった。けれど、知らせがなかったからといって、目の前の人物が悪意を持っているとも、限らない──アルフレッドの名前を口にした人だから、と気を緩めたくなる自分が、危ういのだとも分かっていた。
「君の夢はとても澄んでいるね。食べてしまいたいところだけど、彼に怒られるからそれは追々だ」
優しい声に惑わされる。
その言葉の意味は何一つ理解できないというのに。
「人の夢を覗くのは、僕の昔からの遊びでね」
ノアの耳元で、侵入者は囁き続けている。
「ずっと長いこと、退屈しのぎに人と関わってきたんだ。──けれど、随分前から僕には別の楽しみができてしまった」
音なのか、声なのかすら判別がつかなくなってきていた。
「だから今は、直接人で遊ぶことはほとんどしないんだよ」
何を言われているのか、ノアにはやはり分からなかった。
ただ、その声は自分に語りかけているような、語りかけていないような…不思議な距離を持っていた。
ノアが大声をあげては助けを呼べるほどの余裕が持てなくなっていることに気がついたのか、はたまた他の理由か、侵入者は口元を押さえていた手から力を緩めてノアの身体を寝台にゆっくりと横たわらせる。その動作に逆らうこともできず、ノアはされるがままになっていた。
「ア、アル、…」
「ああ。これは現ではなく夢だと思って良い……夢の中で、アルフレッドに会わせてあげよう」
頼りにしたいその名前を口にしようとするが、ひどく頼りない声だった。
唇を動かした途端に、うっすらと虹色が視界を埋め尽くしてくる。
星屑が舞い、花弁が目の前を過ぎていく。
目前に広がる不思議な光景にノアは息を呑んだ。
見慣れた広い部屋のはずなのに、一面が春色に染まり美しく煌いているのだ、非現実的な景色に言葉を失ってしまう。
「いけないよ、淫らな夢は見せられない。うっかり君が僕の胤で孕んでしまっては、取り返しがつかないからね。彼に逢うだけさ」
表情は分からない。
温度を感じられない手が下腹部に添えられて、ぐ…と臍下を押される。
覆い被さられて、非現実的なほど虹色に輝く長い髪が視界を埋め尽くした。小さな花弁が舞い、甘い香りが鼻腔をくすぐる。花畑にいるような感覚は村にいた頃を思い出させて、恐怖心が和らいでいった。
部屋にいるはずなのに、豪奢なあの寝台に寝ているはずなのに、ノアとその侵入者を取り巻く空間はひとつの小さな世界となって現実から切り離されているようである。
毎日朝早く起きて、太陽の光を浴びる。
母と父に挨拶をして、馬や牛の世話をして干し草の上でひと時の眠りにつく。隣の花畑から広がってくる花の香りに包まれながら束の間の夢を見ていた。
繰り返されていた過去の日常風景を思い起こして、ノアはどうしたことか全身から力を抜いた。故郷のはずがないのに、身構えて警戒しなければならないはずなのに、ノアは指先まで力を緩めてゆっくりと呼吸をしていた。
「そう。力を抜いて目を閉じて……ああ、良い子だ」
小さな子どもを褒めるように頭を撫でながら優しく言われる。
「……ふぅん」
その声が、一寸だけ温度を変えた。
「君の景色に、誰かの面影が淡く残っているね」
──だれか?
「ずっと前に…ここを通っていった者があるようだ」
ノアにはその言葉の意味が分からない。眠りに落ちていく感覚の中で、声だけが遠くに響いた。
その言葉通りに、ノアは瞼で瞳を覆い花の香りに身を任せていく。
こつん、と自らの額にその存在の額を押し当てられた。
「いずれ逢いにゆこう。何せ、今は怖い皇子様に仕事を命じられている最中なんだ、真面目にやらないと叱られてしまう」
どこまでも穏やかで優しい声に陥落する。
「アルフレッドは君に良い夢を見せる……現の世界でも」
アルフレッドの知り合い?それとも───。
最後までその疑問が解消されることも、ましてや自分の身の安全が保障されることもないままに眠りにつく感覚へと落ちていった。
「おやすみ、ノア」
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