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4章(2)

「───ノア様!」 途端に、クリアになった声に名前を呼ばれて目を覚ました。 朝寝を指摘されたかのように焦った身体が一度大きく跳ねて、一瞬にして意識が浮上する。寝台の上で勢いよく起き上がり、動揺を映した顔でまず被っていた羽毛布団を意味もなく見つめた。 「体調が優れませんか?すぐに診てもらって…」 次に、すぐそばから心配そうに顔を覗き込む侍女を見つめる。眉尻を下げ、そっと肩に手を添えながら言葉を続けるその姿に申し訳ないという気持ちが真っ先に生まれた。何が理由か分からないが、心配をさせてしまったことは確からしい。 「あ、あの、大丈夫。体調が悪いとかじゃ、ないから」 「庭師と約束していた時間になっても起床されず…心配して参りました。ずっと目を覚まさなかったのですよ」 離宮で働いている老爺の庭師と、つい最近、言葉を交わすようになっていた。 中庭で草花を植えていた彼の手元が目に入って、自分から頼んで、使用人の見守りの中で草木の世話を手伝わせてもらうようになった。元々、植物には詳しい方だったのだ。外の空気を吸うちょうど良い時間になって、ノアにとっては数少ない安らぎの時間の一つとなっている。 その庭師との今日の約束の時間は、確か昼食前だった。それを過ぎるまで眠っていたのかと理解して、驚いていた。 「ごめんなさい、僕…」 嫌な汗をかいていない。頭が重い感覚が残っているわけではない。 ただずっと、眠っていた。 不快な眠りではなかった。意識に残ることのない、普段と何一つ変わらないものだった。あまりにも必死な様子で名前を呼ばれて起こされたものだから、何があったのかと思ったが何もないことに違和感を感じてしまう。どうして、起きられなかったのだろう。貸してもらっている時計も合わせていたし、使用人も皆、ノアの生活時間に合わせて規則正しく起こしてくれていたというのに。 「虹……」 瞼の裏に、一筋の虹が煌めいた。 花弁が春風に流され、目の前を過ぎ去っていく。 「虹?」 「…虹の……」 どうしてか、詳細まで思い出せない。 虹色の光が目の前を覆い尽くしていたはずなのに、今は違う。最近になってようやく見慣れ始めた豪奢な部屋に確かに自分はいた。 思い出したいことがあるのは分かるのに、もどかしい。何かがすっぽりと綺麗に抜け落ちている…それが、分からない。もどかしい。何か夢を見ていたのか、よく分からない。夢なのか現なのかすら判別ができず、何か重いものを飲み込まされているかのように腑に落ちない。 そんなノアの様子を見て、何かを感じた侍女のひとりが口を開いた。 「やはり、体調が優れないのでは。すぐ殿下へ報告を…」 侍女の言葉を聞いて、ノアは反射的に焦った。 それは、だめだった。 「やだ、だめ…っ」 「ノア様」 腰を上げた侍女の袖を指で引き、この場に留まらせる。困ったような、心配したような顔の彼女と目が合うが、こんなことでいちいちアルフレッドの耳を煩わせるのは嫌だった。 どうにか使用人を引き止めて、ノアは言葉を続ける。 「全然、そういうのじゃないから、本当に大丈夫」 「ですが…」 体調は万全である。何しろ、今のノアには体調を悪くする理由が何一つない。衣食住は充実しており、気温の変化に困ることもない、過剰なほどの保護下にある。起きられなかったことは確かであるが、体調等が原因ではないのだ。アルフレッドがただそれだけで気にすることはないと思うが、それでも事実と異なることを耳に入れたくなかった。 「それに、アルフは仕事してるんでしょう?しばらく国にいないって、行く時に言われた」 「しかし…どんな小さなことでも、何かあれば連絡はして良いと仰せつかっております」 「本当に、大丈夫……」 主人の命令を絶対として長年仕えてきた彼女らの忠誠心と責任感は非常に強い。 しかし、ノアもこんな何一つ問題のない出来事を報告されるのは避けたくて、困ったように視線を逸らしてしまう。 そんなノアに助け舟を出すかのように、新たな声が横から入れられた。 「本人がそこまで言うのなら、そっとしておきましょう」 相変わらず、少しも乱れのない綺麗な姿をした女性が目に映り、ノアは彼女の言葉に無意識に安堵した。 侍女に緊張が走るのを感じる。身体に僅かな力が入り、表情にほんの少しの変化が生じた。 「レティシア様」 「大丈夫。今日はただの私用よ、気を遣わないで」 片手を上げて、仰々しく接する侍女らを制し退室を促す。賢明な彼女たちは逆らうことなく、慣れたようにその場を後にした。 使用人の後ろ姿を見送り、レティシアはノアのすぐ近くまで歩み寄って来て、湯気が立ち昇る陶杯をひとつ差し出してくる。それを両手で受け取り、ノアが好奇心に負けてその中を覗き込めば、真っ白な液面が揺れてほんのりと甘い香りが漂った。レティシアが持ってきてくれたものは、温かいミルクだった。 「ノアくん、おはよう。目が覚めたようで安心したわ」 「おはよう…レティシアさん」 「疲れていたのかしら。彼女たちが強く揺さぶっても起きないと言っていたから、心配したのよ」 「そんな……そうだったの」 陶杯を包むように両手で持ちながら、ノアは僅かに俯いた。 きっと、主人の番が目を覚まさないと心配され、偶然なのか意図的なのか、城内にやって来たレティシアにまで話がいってしまったのだろう。 ひとつひとつの自分の行動を誰かに見られている、その生活に慣れることはまだできなかった。誰かが自分に注目しているのだと、それを意識していないと余計な負担を誰かに強いることになる。今までの生活とは違うのだと、嫌でも認識させられた。今回のように、ちょっとした出来事で周囲に小さいながらも波紋が広がり、最終的にアルフレッドの元に届くことは避けたかった。これからは、本当に気をつけなければならない。ノアは、改めてそう思ったのだ。 陶杯を両手で包んだまま、ノアはレティシアの後ろにもう一人いることにふと気づいた。 レティシアの斜め後ろ、少し離れた位置に控えるように立っている。レティシアが侍女と話している間にもその存在は静かに視界の端にあった。けれど、ノアはそこに人がいることを今はじめて認識した。 黒い髪の、肩につくくらいの長さ。 前髪を上げているため、目元がよく見える。先ほどまでは全く見えていなかった細かな像がノアの目に映り始めた。 ──知らない顔だった。 けれど、ノアはあまり警戒心や疑心を持たなかった。理由ははっきりとわからないものの、恐らくはレティシアと一緒にいるなら、危ない人ではないだろうという根拠のない判断なのだと思う。 「あなたに紹介したい人がいて、今日は挨拶に来たの」 ノアの視線に気づいたのか、レティシアが小さく頷いてみせてからその人物を紹介した。 「アルフレッド殿下が、シエルもここに通って良いと仰って。あなたが少しでも退屈しないように…と」 気づかないうちにノアは瞬きをしていた。 少し前のことだった。アルフレッドは、ノアの周りに女性の、ベータの侍女しか配置していないと話していたのだ。男性の使用人がいないわけではない。庭師だったり厩番だったり、または廊下の遠くで仕事をしているのを見かけることはあったし、厨房にも男性が多くいる。しかし、ノアの私室やその奥に連なる寝室にまだ入ってくることはなかった。アルファかベータか、それともオメガなのかまでは、ノアにはまだ顔を見ただけでは判別ができない。 けれど、今日は違う人が入ってきた。アルフレッドが入って良いと言ったらしい。 その理由を考えてはみたものの、ノアに答えが分かるはずもなかった。 ただ、レティシアの「あなたが少しでも退屈しないように」と言った言葉だけが、意味を解さないままにノアの中にすとんと落ちて入ってきた。 レティシアが「彼が、シエルよ」と続けると、男はようやくレティシアの後ろから、ほんの少しだけ顔を出した。 それでも、すぐにはノアとの距離を零にすることなく、適度と言うにふさわしい距離を保っていた。 レティシアの隣に並ぶというより、まだ斜め後ろにいる位置に立ったままノアの方を見ている。 その視線がノアにはどこか不思議だった。 不思議と感じる理由は分からなかったものの、先ほど警戒心や疑心を持たなかった理由と同じところから来るものだということは分かった。 しばらくの沈黙の後、その男が口を開いた。 「シエル。シエル・ヴァイセンブルグ、少佐。…って言っても、家名はあんま使わねぇから、シエルでいい」 軽く片手を上げるような所作で、そう自己紹介をした。 ヴァイセンブルグという家名を一度名乗ってから、すぐにその家名を躊躇なく降ろすような言い方をしたことにノアは気づいていない。ノアのその様子に気づいているのかいないのか、男は何にも混ざりのない笑顔を向けた。 ノアが瞬きをしながらその名前を頭の中で繰り返す。 ───シエル。 そうしている間にも、シエルはレティシアの後ろから一歩前に出た。 歩幅は乱暴ではなかったものの、その一歩でノアとの距離が一気に縮む。女性としては背の高い──恐らく百七十を超えている──レティシアの長身をも上回る身長と肩幅の広さを見るに、その足の長さ、一歩の大きさは距離を詰めるのを容易にしていた。 「よろしくな、ノア」 呼び捨てだった。何も装飾がされていない簡素な呼び方と挨拶だった。 それにノアが少し驚いて、目を見開く。 驚いたことに、数秒の時差の後に気が付いた。今まではこれが当たり前のはずだったのに、すっかり反転してしまっていた。誰かにいきなり呼び捨てにされるのは、村にいた頃のセシリオ以来かもしれなかった。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、戻って来たような感覚さえあった。ここに来てから、ノアは侍女や使用人たちに様をつけて呼ばれ、ただの子どもではなく主人の「番」という装飾をつけられて呼ばれてきた。それに慣れてきていた自分と、こうして気さくに呼んでもらえることに喜んでいる自分がいることを自覚して、ようやく自分は距離を持たれ続ける今の毎日に寂寥感を抱いていたのだと気付かされた。 レティシアがふ、と視線をシエルに流すのを見ていたのは、特に意味はなかった。 彼女は何かを言うわけではなかった。 シエルは、レティシアの視線に気づいているのかいないのか、そのまま話を続ける。 「思ったより小せぇな」 「えっ」 陶杯を持つノアの両手に少しだけ力が入った。 「歳いくつだ?」 「じゅ、十八……」 「十八か」 シエルが軽く頷く。 「もうちょい大きくてもいいくらいだろ。ちゃんと食ってんのか」 矢継ぎ早に言葉が飛んできて、ノアは少し戸惑った。 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。何かを測られている気がしなかったからかもしれない。ただ、見えたままを言葉にする人なのかもしれないと、漠然と思った。 現にノアは自分の体格があまり良くないことを知っている。二歳しか違わないセシリオと並んでいても、ノアは背丈も肩幅も腰幅も、だいぶ華奢な部類に入るものだった。 「シエル」 そこで、レティシアの声がようやく入った。 「いきなりそんなことを言うのはやめなさい。それに、呼び方も」 「殿下が良いって言ったじゃないですか」 「ノアくんが嫌がるかもしれないでしょう」 「嫌か?」 シエルが、軽くノアを見下ろしながら聞いてきた。 二人の会話の調子が良すぎて、ノアは突然話題を振られて一拍だけついていくのに遅れていた。それでも、すぐに尋ねられた内容を理解して、ノアは半ば反射的にかぶりを振った。 「あ、ううん。嫌じゃない、ノアって呼んでほしい」 呼び捨てが嫌だったわけではなかった。 むしろ、ノアの理解が間に合うよりも先に、彼の距離の取り方に少し慣れ始めていた。 「だってよ、中佐」 「あなたね」 レティシアが、ほんの少しだけ眉を寄せた。 シエルが軽く肩をすくめる仕草を見せる。けれど、それは大きな反論でも文句でもなく、レティシアの言葉を受け流すような形だけの動きのように見えた。 ノアはその様子をぼんやりと見ていた。 シエルの顔は、ノアが今まで見てきた誰とも違っていた。 使用人たちのようにノアに気を遣って、最大の配慮を乗せて、礼を欠くことがないように心の中を慎重に閉じているような顔ではなかった。 アルフレッドのように、何かを計算しているような、見透かされない顔でもなかった。 レティシアのように、いつも一定の温度で揺れの少ない顔でもなかった。 幼馴染でずっと一緒に過ごしてきたセシリオの顔とも違った。誰に似ているものでも、当てはまるものでもないような感じがした。何も設計されていない自然の表情が、上げられた前髪のせいで何も遮られることなく全てが見えている。 シエルの顔はよく動いた。 驚いた時には驚いた顔、軽く言う時には軽い顔、レティシアに言い返す時にはほんの少し悪戯っぽい顔、でも彼は根本的なところにある上官、そして人への礼節を崩すことはなかった。 その一つひとつが、前髪が上げられ額をも露になった表情の中で全て表に出ていた。 親しみを覚えるところまではまださすがに届くことはないものの、怖くはなかった。それだけで、ノアにとっては十分なことだったと言える。 シエルが、ふとノアの寝室を見回した。 王族の番のために整えられた部屋は、本来は来客を想定していないことをここに来て数日のうちに侍女から聞かされていた。だから侍女たちも、ノアの身の回りの世話をすることはあっても、仕事を止めてノアの隣に座り、ゆっくりと話すようなことはしなかった。話すとすれば、侍女が床に膝をつき、ノアを見上げる姿勢での会話が多いのだ。 そのため、来客用の椅子は普段は部屋の隅へと片付けられている。アルフレッドがそれを使う姿はまだ見たことがない。彼は大抵、ノアの座る寝台に腰かけてくる。そしてレティシアは、ノアが初めて話したあの日のように、ノアの寝室でゆっくり腰を落ち着けるということをしたことがなかった。 シエルは特に困った様子もなく、部屋の隅にあった木製の椅子を一つ見つけては寝台の脇まで引きずってきた。彼は侍女ともレティシアとも違った。侍女のようにノアと話す時間を設けないのではなく、レティシアのように腰を落ち着かせることなく立ったまま話をするのでもなかった。 その動作を見て気が付いたノアは少し申し訳なくなった。 「ごめんなさい、椅子……」 ノアは慌てて言葉を続けた。 「寝台でもいいのに」 椅子を寝台の脇に置こうとしていたシエルの手が止まり、椅子の背を握ったままで彼はノアを見た。 先ほどまでの陽気な顔がほんの僅かに別の温度になったことにノアは気づいていなかった。 「ノア」 「なに?」 「アルファやベータの男を、寝台に座っていいなんて言うんじゃない」 シエルの声は鋭くなかったものの、軽さもなかった。 ノアを責めすぎず、でも釘を刺すという役目をその声に果たさせるように、適切なバランスを持ったものだった。 「あいつらに誘われても、お前から寝台に座っちゃダメだ。それは、身体を重ねることを許可したのと同じだ」 ノアはすぐには何も言えず瞬きをするしかできなかった。恐らくは、シエルに言われている言葉の意味について半分くらいしか分かっていなかった。 シエルは、ノアの薄い瞼の動きを見ていた。会って数分のノアの心中を、彼は測っていないような顔をして恐ろしいほど正確に当てている。 「一緒に寝なければいい、とか思っただろ」 「…思った」 「そういう問題じゃないんだよ」 シエルが、指先でノアの額をこつん、と弾いた。本当に微かな力だったため、ノアにとって痛くも痒くも何ともないものだった。ノアに責任を与えすぎないように、自分の言葉の重みを少し遠ざけさせるような温度の切り替えの動きのようだった。 「覚えとけ。お前は、自分が思ってる以上に、無防備に見える」 ノアは、何ともない額に手を当てたままシエルを見上げた。 その横で、レティシアは小さく頷いてから、ノアを見下ろして口を開く。 「あなたの村では、皆が一緒に眠ることもあったのよね」 「……うん」 「ここでは…というよりは、村の外では少し違うの」 彼女の言葉は普段と一切変わらず、穏やかだった。穏やかな声の中に確かめるような響きも含まれている。 その言葉を聞いてから、ノアはカルムーニュで過ごしていたつい最近までの日々を頭に思い浮かべた。 ───セシルとは、よく一緒に寝てたな。 雨の夜、星がきれいな夜、祭りの後の楽しさが残った夜、互いの寝床に潜り込んでは身を寄せ合って朝まで眠った日々がいくつもある。それが当たり前の生活で、父も母も誰も何も言わなかった。静かで虫の声しか聞こえない夜に、声を潜めて幼馴染と話しながらいつの間にか眠りに落ちる時間がノアは好きだった。 ここではそれが違うらしい。 しかし、ノアはここに来てから眠る時間がとても静かであることはもう知っていた。 虫の声は聞こえないし、外の音も風の音だけだ。月の光は見える、星の輝きも見える。 でも、人の気配はほとんどなかった。身を寄せ合うどころか、耳を澄ませてもこの広い離宮の中で、ノアが眠りにつく時間に感じられる人の気配はひとつもなかった。だから、夜の時間は驚くほど静寂に包まれていた。 シエルが息を吐きながら椅子に深く座り直した。その息の吐き方は彼の自然な動作ではなく、ノアに聞かせるような類のものである。 彼の口元が元の形に戻り、この話はこれで終わり、ノアを必要以上に責めることも注意することもない、という陰りを与えない切り替えの方法だった。 「ったく、本当に寝坊助なんだな」 シエルが手を伸ばし、ノアの後頭部の癖毛を、くしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でた。 「頭がヒヨコみたいになってるぞ」 「全く…揶揄う言い方はやめなさい」 「承知しましたよ、と」 その手の温度とレティシアに返す言葉の軽やかさを聞いて、ノアの口元は少しだけ綻んでいた。 髪を撫でる手は、強引だったし唐突さもあったものの、少しも嫌な感じはしなかった。 ノアの後頭部の癖毛に触れた手は、その後自然と背中を本当に軽く叩いてから自分の側へと戻っていった。頭の後ろで手を組み、ノアの亜麻色の髪を眺めるシエルと目を合わせながら小首を傾げ尋ねた。 「シエルも、えっと…軍の人、なの?」 ノアの問いに、シエルが人の良さそうな顔でひとつ笑った。 「おう。ガキの時からだから、今二十一だけど軍属だけやたら長い。少佐って言ってもよくわかんねぇよな。俺もわからん」 「レティシアさんも?」 「中佐は俺より偉いし、アルフレッド殿下の副官だから、俺よりずっと忙しいけどな」 「副官」 「そ。アルフレッド殿下は王位継承七位を持ってるんだが、十位以内の王族には色んな特権があるんだ。そのうちの一つに、軍の大隊指揮権がある。難しくてよくわかんねぇかもしれないが、四百人の軍人を日頃から統括してる。本当は大隊指揮権なんて名目上で、実戦に出てくる王族はほとんどいない。ただ自分の好きな時に、四百人の軍人を動かせる権利を持っている、それだけだ。でも殿下は実戦に出てきて指揮をとる。けどあの人は王族だから、軍の仕事だけをしてればいいわけじゃない。だからとにかく忙しい。その忙しい人をレティシア中佐がどうにか頑張って人並みの忙しさにしてる」 「う、うん……」 理解できていない様子のノアを、シエルは快活に笑った。理解を前提に話しているのではなく、とりあえず聞かせている、そんな温度だった。 「少将のおかげで、私はだいぶ楽をさせてもらっているわ」 「またまたあ、何を言ってるんすか。大体、少将はほとんど各地までとばされてるじゃないですか。事務仕事は全部殿下と中佐に降ってくる」 「殿下自身が各地を周っているのだから仕方ないわ。それに、騎士は皇子直結だから軍の仕事は本来しないの。それを少将の厚意で手伝ってくれているだけよ」 二人の会話を聞きながら、ノアは温められたミルクを少しずつ口に含みその程よい温度にほっと一息吐いた。 シエルのことを聞いたはずのノアの質問から、会話の内容がアルフレッドに段々と移っていくのが分かった。 しかし、その中に聞き慣れない単語が出た。ノアはそれが気になって、腰かけた寝台の縁から更に浅い所まで身を滑らせていた。 ノアは興味があると一歩身体が前に出る、距離が縮まる、そう教えてくれたのは幼馴染だった。 「騎士?」 「まだ会ったことがないんだな。アレン少将……アレン・ドレッドノート少将はアルフレッド殿下の騎士だ。王族の…王位継承十位までの特権のもう一つ、騎士がつけられるんだ、一人だけ」 シエルの言葉の続きをレティシアが頷きながら引き継いだ。 「殿下の場合はあまり形式に則ってはいないから、少し立場が混乱しがちなのだけれど…」 「そうだったの…最初、てっきり、」 「てっきり?」 「何でもない…」 アルフレッドを騎士だと思ってしまった。 少しばかり恥ずかしくて言えないが、村で助けてもらったあの時は、本当にどこかの国の騎士だと思い込んだものだ。まさか、一国の皇子だったなんて、あの時は想像できるはずがなかった。 ノアはそれを誤魔化すように、そして同時に脳内に思い出してしまったアルフレッドと出会った時の出来事をどうにか追いやろうと両手で包んでいた陶杯を口に運んだ。飲むことはしなかった。ただ色んな恥ずかしさを押しやるための動作だったので、ほんのり甘いミルクの香りだけを嗅いでいた。 「──そういえば、ウィルフレッド殿下に会ったんだってな」 ノアの動きが少しだけ止まった。 「うん。会ったって言っても、ちょっとだけ」 数えれば、五分にも満たない邂逅だっただろう。 だがその短い時間の中で、彼がノアに与えたものはあまりにも濃密だった。それがまだノアの中で何も形にならないまま残されていて、それが声と表情に漏れ出ていた。 「どうした?」 「ううん。あの……ウィルも、アルフと同じなの?」 「順位のことかしら。…ウィルフレッド殿下は、半ば放棄されているわ。本当なら十位以内に入っていると思うのだけど、ね」 レティシアは珍しく言葉に含みを持たせた。持たせてしまった、という方が正しいかもしれない。ノアのこの質問には、持たせる以外に答える方法がなかったのだということを、ノアは知らない。 シエルがさりげなく話題を変えた。 「同じ顔が二人ってやりづらいだろ」 笑いながら言ったものだから、ノアもつられて少しだけ笑った。それでも、頷くことができていなかった。 ──ウィルフレッドという人のことがノアにはまだ分からなかった。 分からないから、自分が何を感じているのか…「やりづらい」というものを自分が感じているのかすらはっきりしなかった。 苦手と言うほどには知らない距離にいる。けれど、何度か思い出してしまうほどには近かった。 「双子なんて、こっちもいまだに見分けがつかねえし」 「見分け」 ノアが無意識にその言葉を繰り返していた。 あの時、ノアの中に見分けるという意識はなかった。ただ最初から別の人としてノアの目には映っていた。理屈なんて少しも分からなかった。外側の全ては全く同じものかもしれないが、別ものだった。それを彼らは見分けるという意識を持って見ていても別ものにはならないのだと言う。 「あの人ら、たまに入れ替わってんだ。俺たちにも言わずにな。その方が都合が良いからって言って」 都合が良いという言葉が新しくノアの中に引っかかってしまった。 初めてウィルフレッドに会ったあの時も、恐らく彼は入れ替わっていた…否、その夜に帰って来たアルフレッドにはその意思がなかったため、入れ替わったというより、アルフレッドの振りをしていた、と言う方が正しいのかもしれない。何のためかは分からなかった。分からなかったが、ノアの動揺を見てウィルフレッドはすぐに手を引いた。 そこまで思い出して、ノアはようやく一つの答えにたどり着いた。 どうしてこんなにもウィルフレッドの不可解さが引っかかっているのか。 あの赤紫色の瞳の奥にあった冷たさだ。 あの冷たい温度が、こんなにもノアを悩ましているのだと、今更気づいた。アルフレッドの瞳の奥にないものだった。これだけは、見分けるという語彙に並べられる、ノアが言語化できる一つの違いだった。 二人はそんなノアの気づきなど知る由もない。あの場であの瞳を見たのはノアだけだ。 「ウィルフレッド殿下は王位継承を放棄して表舞台にあまり立とうとしないから、アルフレッド殿下の影と称されることが多い。…実際、誰もお二人が入れ替わったことには気づけていないから」 レティシアが少しばかり睫毛を伏せながら言葉を続けた。 「仕草や記憶まで全て同じにしているから。それぞれが話した相手との会話、相手の反応、その後予測される動きまで……。最も長く仕えている少将や私も、見分けがつかないの」 「この前なんて、王族主催のパーティーに護衛で行ったっていうのに、アルフレッド殿下と入れ替わってるのに気付けやしなかった。たまに聞くと答えてくれるけどな、あの時どっちでしたかって」 シエルが手をひらひらと振り、苦笑する。レティシアも困ったように小さく笑っていた。 ノアは、二人の話を聞きながらある言葉が浮かんできた。 アルフレッドは、ウィルフレッドのことを「最も信頼できる」と言っていたのだ。 あの時、ノアはその最もという言葉が持つ重みや意味を深く考えなかった。 けれど、どうしたことか今になってその言葉の意味がノアは気になってしまった。最も信頼できる人がウィルフレッドなら、きっとレティシアやシエルは最もの中にはいなくても、信頼できる人間という枠の中には必ず入っているだろう。 自分はその信頼できる人間の枠に入れているのだろうか。それとも、まだその範囲には入っていないのだろうか。 その問いに対する答えをノアには出せなかった。そして、出す必要が…前提が成り立っていないということも、何となくわかった。自分はその側ではない気がした。彼らのようにアルフレッドの過去を共有しているわけでも、一緒の時を長く過ごしているわけでもない。ただ数週間前にカルムーニュ村で出会い、番にすると言われて連れて来られた。彼らと立っている位置が、もう一段階以上違う所にいる気がした。 そこまで考えて、胸の内が寒くなった。正確には違うのだろうが、ノアは胸の中が寒くなる感覚に襲われた。どう表現したら良いか分からない感覚が、なんだか怖かった。 「仲、良いんだね…凄く」 その寒さを取り除くことができないままに、ノアは小さく呟いていた。 「そうやってまとめちゃうところ、俺は好きだぞ」 ノアの胸の内など知らないであろうシエルは軽く笑いながら言った。 言葉の意味が分からなくて、ノアはまた小首を傾げる。胸の中の寒さは、いつの間にか消えていた。 「どういう意味?」 「いいんだよ、気にすんな」 レティシアは小さく頷くだけだった。 「アルフの小さい頃って……二人は知ってるの?」 自分でも、どうしてその問いが出てきたのか分からなかった。ただ、双子というきょうだいは、幼少の頃からずっと一緒にいるのだろうという、そんな些細なイメージが湧いたからなのだと思う。 ノアには両親も幼馴染もいたが、兄弟はいなかった。だから、二人一緒に育つという経験をしたことがない。 特に大した意図を持たずに出てきたノアの質問に、レティシアとシエルが一瞬視線を合わせた。 「小さい頃、ねぇ。俺は殿下より年が下だし、何より殿下と会ったのが三年前だから、あの人もう二十二歳くらいだったな」 シエルが顎に手を当てながら答えた。 「言われてみれば、王族の幼少期なんざ伝聞にも聞くことなんてねぇな」 「私も似たようなものよ。殿下にお仕えしている期間が、シエルより少し長い程度だから…王族の方は皆、幼少の頃から王宮で過ごしているし、王位継承十位を授かった方たちは、ここのように離宮に移り住む。アルフレッド殿下が例外だけど、私たち軍人が王族の方とこんなに近くで常日頃から行動を共にすることは珍しいから」 ノアは少し驚いた。 二人ともノアよりも長くアルフレッドのそばにいる人たちなのに、その人の更なる過去は知らない。 ノアにとっては驚くことだった。 カルムーニュ村では、実際に見ていなくても村人たちの幼少期も今も知っていた。みんなが話をして、共通の話題や経験として持っているのが自然だった。 子どもが生まれれば、その親だけでなく村人全員で抱っこをして、あやして、食事を与え、遊んでやる、そうやって村全体でひとりの子どもを育てるような場所だった。 だからノアも、後に生まれた子たちのことは良く知っている。両親やセシリオに教わりながら、赤ん坊を腕に抱き、おやつをあげて、土の触り方を教えて、遊び方を教えた。最初は抱き方すら分からなかったノアの身体は、もう一人の人間を危うげなく育てられる技術を持っていた。それが村では当たり前のことだった。 兄弟が生まれることは多くはなかった。 一つの家庭で、二人以上の子を育てられるほどの豊かさを持った家庭は中々ないからだ。ただ全くないわけではないので、兄弟が生まれるとみんなが喜んで顔を覗き込んだ。上の子と目元が似ている、額の広さは少し違う、物の覚え方が早い、など、誰もが子どもを幸せの形のように笑顔で見ていた。 「ただ、まあ……」 シエルが、少し言葉を選ぶように言った。 「王族の子どもってのは、普通の子どもとはちょっと違うらしい」 「ちがう?」 「物心ついた頃から、王位継承戦は始まってる。兄弟ってのは…何より先に、敵になる」 その言葉にノアは息を呑んでいた。 兄弟が敵になる。ノアにとっては全く想像していなかった言葉と、本来結びつくはずのない関係性が繋がりを持つことが衝撃的だった。兄弟はお互いを守りあって生きているものがノアの見た全てだったのだ。 「兄弟同士で剣を取り合うというのは、アルドヘイムでは特別なことではないの。全て説明できるわけではないのだけど、王宮の中で生まれるということはここでは色んな意味と背景があって。だから、アルフレッド殿下とウィルフレッド殿下は、お二人だけで、ずっとお互いを守り合ってこられたのだと思う」 レティシアの言葉は全てを語っていなかった。 王位継承者はそれぞれが二十歳を迎えるとそれまでの功績にあわせた継承順位が与えられる。裏を返せば、それまでに功績をあげなければまともな順位は貰えないのだ、十代のうちから、物心をついた頃から彼らは王位継承戦のために身を捧げている。 だからシエルの言う通り、兄弟…異母兄弟はまず敵と言う存在なのだ。 異母兄弟たちからお互いを守るために、幼少の頃から双子の二人はその術を磨き続けてきたのだという想像をすることは、外側からもできた。 「今は少し落ち着いているけど、いつ王位継承戦が激化するか分からない…ピリンキピウムの戦いも、そうだったから」 聞き慣れない単語が新たに耳を滑って、ノアは瞬きを忘れて聞き返した。 「ピリンキピウム?」 「数年前に終戦した、殿下が奇跡の生還を果たした戦いよ。国内外で有名なのだけど、あなたの村にまではさすがに届かなかったかしら」 「お前、ピリンキピウム戦争を知らないってすげぇ田舎から来たな」 「田舎って」 シエルの揶揄い交じりの笑いが伝わってきて、ノアが拗ねるように唇を尖らせる。田舎であることなど知っていたし、自覚していた。ここで生活を始めたら自覚せざるを得なかったという方が正しいかもしれない。 そんな幼さの残る仕草にレティシアが目尻を緩め、唇に微かな笑みを浮かべたのを、二人は見ていなかった。何かを懐かしむような色を含んでいた。 「ピリンキピウム戦争は、アルフレッド殿下が十七歳で戦場に出て、大躍進した戦争なの。あの方が現在英雄として知られているのは、その戦いが契機だったわ」 「十七」 「ええ。十七歳で戦地に赴いて…戦争が長引いたから、戦地で誕生日を迎えたと聞いているわ。だから、あなたと同じ歳ね」 ノアが年齢を繰り返した意図を、レティシアは正確に汲み取っていた。 今のノアと同じ年齢で戦争に出た。ノアの村では知られていない戦争の名前だったが、アルドヘイムだけでなく国外でも有名な戦争だったのだと言う。その戦争にアルフレッドは十七歳で行って、戦争中に十八歳の誕生日を迎えたのだ。 ノアの思考は、そのあたりからほんの僅かに速度を落とし始めていた。戦争で、誕生日を迎える。誰に祝われることなく。 「今では第一次王位継承戦とも言われることもある。その名の通り、諸外国との戦争を利用した王族同士の戦いでもあったの」 ノアは戦いも戦争というものも全く想像できなかった。 幼い頃、一度だけ話は聞いたことがある。カルムーニュ村から離れた所で、周辺諸国が戦争をしているから、万が一があってもその方向に行ってはいけないと大人たちが話していた。 ノアはその時十歳だった。十歳のノアが村の外に出るはずもなく、自分とは遠い世界の話として聞いていたのだが、その時期は村の外からやって来る商人などの足が途絶えてしまったため、少しばかり不便で退屈な日を過ごしたことを覚えている。隣町へ出かけることも、隣町からやって来た人を交えた祭りも、その時期だけは開けなかったのだ。その思い出だけは、戦争と言う言葉と共に結び付けて思い出せるものだった。 それ以外では、戦争を見ることも知ることもない。暴力を目にしたのも、故郷であるカルムーニュ村で暴漢に襲われたあの時が初めてだったのだ。 しかし、アルフレッドはこれまで幾度となく戦いに身を投じてきた。 どんな戦いが繰り広げられているのか、ひとつも想像することは難しいが…ノアが真っ先に思うのはただ一つで、アルフレッドに怪我はしてほしくないというものだった。 「アルドヘイムは魔術が他国より群を抜いていて、その魔導を利用した技術もあるの。軍事力も強大だから、この数十年でどんどん強い国になった…だからこの国を敵視する国は多かった。ピリンキピウム戦争を、王族同士が利用した」 レティシアがほんの少し、視線を俯かせながら小声で語る。金色の睫毛に縁取られた瞳には、どこか憂いを感じさせる影が落とされていた。 「その戦争はあの方を葬るためのものだった……他の王族、アルフレッド殿下の異母兄弟の方の陰謀が作戦に織り込まれていて、その戦争によって殿下が戦死したのだと情報操作しようとしていた。……都合よく、殿下は亡き者にされるところだったと言われている」 「犯人は特定されてないっていうのが気に食わねぇ」 食い気味だった。シエルが嫌悪を隠すことなくレティシアの言葉に被せてそれを言った。 「魔術師の才能がずば抜けてるわ、剣術も秀でてるわ、政治力もあって軍人からの支持も厚い…他の王族にとってアルフレッド殿下が一番邪魔だったわけだ。だから消すために戦争を利用した。普通に正面から戦っても勝てねぇからだ。まだ二十になってなかった、十七の皇子に勝てねぇと判断して陰謀で殺そうとした」 ノアは息を止めていた。無意識だった。 「アルフが……殺されそうに、なった?」 「……ええ」 レティシアが頷いた。 「十七の時に」 ノアは俯いてしまう。 アルフレッドはアルドヘイムの皇子であり、他にも王位継承者は多くいる。それはもうノアでも知っている事実だった。しかし、彼らは皆、同じ父親の血を引いた兄弟のはずであり、家族なのだろう。 兄弟同士で、戦争の中でも継承戦を続け、殺害を試みた。外国との戦いをしている、つまりはアルドヘイムという国を守るための、対他国との戦いの中のはずなのに、味方であるはずのアルフレッドを殺そうとした。 どうしてそんなことができるのだろうとまずは思った。他国との戦争も命がけでやっているのだろうに、その中で身内同士でも殺し合いをするなど、そもそも戦争すら知ることのなかったノアには何ひとつ理解できるものではなかった。 ノアの様子を見ながらもレティシアは話を続ける。 「……それを、アルフレッド殿下は戦い抜いて生き残った。大きな功績を持って戻られたわ。圧倒的不利な状況下での帰還は他の王位継承者への大きな打撃となり、同時に殿下を支持する者が爆発的に増えた。そして…帰還した十八歳で、王位継承第七位を授かった」 レティシアが少し言葉を選ぶ様子を見せた。 「第二皇子のシュヴァルツ殿下と、第四皇女のヴィレリア殿下が皇帝陛下に推挙されたの。あの戦果の前では、慣例を超えても構わないと言って」 「シュヴァルツ殿下が陛下にあそこまで進言するのは、前例にないって軍でも有名っすね。ヴィレリア皇女殿下も、そん時はもう軍の中枢に入っていましたし…軍の声を、無視できなかったんでしょうね。中にいたからよく覚えてますよ、俺も」 シエルが続けた。 「ええ。ヴィレリア殿下はともかく、シュヴァルツ殿下が口を出されるのは……本当に必要だと判断された時だけだから、王宮の外、軍でも語り継がれるようになってしまったわね」 その時になって、ようやくノアは少しだけ顔を上げることができた。 ──アルフレッドの異母兄弟の誰かが、推挙してくれた。助けてくれたということだろうか。 その事実だけは別のものとしてノアの中に置かれたのだ。殺しあう兄弟だけではなかった。アルフレッドの周りは敵だけではなかった、その安心感だということには気づかなかった。 「ヴィレリア殿下はアルドヘイム第四皇女で、唯一王位継承者の中で女性の方。アルフレッド殿下の七歳上だったかしら。シュヴァルツ殿下は、第二皇子……アルフレッド殿下の兄に当たる方よ。賢才に富んだお方で政治能力も高い……現在の最有力王位継承者と言われているわ」 第二皇子シュヴァルツ、そして第四皇女のヴィレリア。 新しく聞いた二つの名前を、レティシアは噛み砕いてノアに端的に説明してくれた。ただ、顔がわからないノアにとって、その二つの名前はまるで記号のように、人の名前として実感の沸かないものになってしまった。 「元々王位継承者は約百人いたの。継承戦含め、諸外国との戦いでそれが半分以下まで減った……ピリンキピウム戦線の殿下のように、他の王族に仕組まれ命を落とした方も多かった。ここ数年は特に、王位継承順位の入れ替わりが激しかった」 レティシアがどこか寂しそうに語った。 現皇帝の子は当初は約百人、そのうちアルファは三十人ほど。驚異の出生率に隠された闇はこの国特有のものだ。そしてそこから更に、戦いの最中で数を減らしてきた。 その強さの頂に立てる者、アルファの中のアルファこそが、この強大な軍事大国アルドヘイムの王として相応しいとされているのだ。 「難しい話ばかりしちまったな。全部覚えてなくていいぞ」 ノアの様子を見ていたのか、シエルは明るい笑顔のままでそう言ってくれた。 今まで戦争や殺し合い、王位継承、といった冷たさを孕んだ話をしていた男とはまるで別人のようだった。友人、といえるほど気さくな距離の人間ではないものの、ただの軍人と言うには親しみを持った音でノアに話しかけてくれていた。その声の温度に、ノアは少し救われていたのかもしれない。 「うん。話してくれて…ありがとう」 「おう。あとは殿下にでも聞いてみろよ」 「でも…」 彼の周りの人々は、自分が仕える皇子について誇らしげにいつも話をしていた。 ノアに優しくしてくれた使用人、庭師、料理人……アルフレッドの部下であるレティシアやシエルも。彼らの口からアルフレッドについて語られる度に、どこか寂寥感を感じる。彼のことを知る機会が増えて本当は嬉しいはずなのに。 「なんだか、僕」 ノアの口から、小さな声が漏れた。 アルフレッドとの間にある距離は、そう簡単には縮まらない。彼のことをひとつ知る度に、またひとつ分からなくなっていく。彼を知ることができれば近づけると思ったのに、知れば知るほど、自分との距離が遠くなっていく。それは悲しいことなのか、当たり前のことなのか、ノアにはまだ分からなかった。 「住む世界が、あまりにも……違いすぎて。どうして、ここに……」 シエルが少し止まったのをノアは見ていない。ノアは、太腿の上で緩く組んだ指先を所在なく絡ませたり解いたりを繰り返している。 瞳の動きを止めてから、シエルは明るい調子に戻して言う。 「いいんだよ。んな難しいこと考えたって、どうしようもないだろ?」 わざと音を立てて椅子から立ち上がり、シエルは今日何度目かの、ノアの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるような撫で方をした。最早、ノアもその手のひらの大きさと硬さと体温に驚くことがなくなっていた。 その様子を見ていたレティシアもまた、視線を僅かに落とした。その間は誰にも気づかれないくらいの動作だった。 ──カルムーニュ村のあの家の中での最後の会話を、レティシアはまだ覚えていた。 何かを考えて、少しだけ迷って…次に伏せていた視線を上げた時には、もう迷いの色は一切なくなっていた。澄んだ青い瞳を撫でられているノアの方へ向けて、組んでいた腕を解きながら言葉を口にする。 「何か気にかかっていることがあるのなら、手紙でも書いてみたらどう?」 突然言われた言葉があまりピンとこなくて、ノアは不思議そうな目をして彼女を見返した。 「手紙?」 「お母様やお父様、ご友人に。こちらから住所は調べることはできるし、準備もしてあげられるわ。遠く離れていても、今は数日で郵送できるから」 「お母さんたちに……何書けばいいの?」 「どんなことだって。状況が状況だから、一度検閲はさせて貰うけど……」 手紙といえば、ノアは相手に書いたとしても自分で手渡したことしかない。まさか、郵送できるなど知っているはずもなく、初めて知った一般的な常識に密かに驚いていた。 アルドヘイムから離れた故郷まで、手紙を届けられるのなら、それはきっと嬉しいことだ。もしかしたら、母や父からも手紙を貰えるかもしれない。今はまだ、村に帰って会うことのできない二人から。 村に帰ることを諦めたわけではない。わけではないが、すぐに帰られないのなら、せめて言葉を文字でも良いから交わしたかった。 「あなたが伝えたいこと、全部書いたらいいわ。あなたが言葉にしたいこと、……嬉しかったこと、悲しかったこと、やりたいこと、食べたいもの。何だって、手紙をもらえたらご家族は嬉しいわ」 レティシアの言葉を聞いて、シエルがうんうんと大袈裟に頷いた。 ノアの脳裏には、母の笑顔と、父の少し困ったような顔が浮かんだ。不思議と、ここ数日ずっと頭に思い浮かべていなかった二人の顔である。 「───うん」

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