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4章(3)
ノアに与えられた私室の机の前の椅子を引き、そこに座ってから木の目の上に置かれた真っ白な便箋を意味なく指先でなぞってみた。
インクの匂いが少しだけ鼻先に届くのを感じながら、ノアは頭の中でいくつかの単語や文章を並べていた。
ペンを手に取ってみるものの、慣れない重さが少し意外で、何度か手の中で遊ばせてみる。馴染むことはなかったものの、違和感は感じなくなっていく。
「お母さん、へ……」
そのまま、ペンを動かして白い便箋の上に黒い文字を走らせていく。
「お父さんも入れないと、拗ねちゃうかな……」
───いつの日かの出来事を、何故か思い出した。
十歳の頃だった。
周辺の国が戦争を繰り返しているから、一人で出歩いてはいけないと何度も言われていた時だった。商人も村に来なくなり、隣町からの来訪者もなくなり、村の祭りも二つ減ってしまったあの時期。
同じ頃に、家のすぐ近くで見慣れない姿を見つけたのだ。
大木の下の、花々に埋れた傷だらけの身体だった。血を拭うことも、傷の手当をすることもできず、意味があるのか分からないままその近くにしゃがみ込んで、声をかけていた。
だいじょうぶ?
しなないで。
ぼく、いるからね。
待っててね。ぼく、またくるから。
言葉を覚えているが、あの時出た言葉の意味は今でも分からない。途切れ途切れの呼吸を心配し、自分よりも随分と大きな手を両手で握っていた。大きくて、でも冷たい手だった。
そして、その日初めて額の宝石が輝いたのだ。
倒れている人を助けたくて両親のもとまで急いで走って行った。
この人を家に入れてあげないと。傷の手当てをしてあげないと。
両親は、ノアの言うことを疑うことも邪険にすることもなく、ノアが付いて来てと言って手を引いたらすぐ一緒に、エプロンをつけたまま、内履きのままついて来てくれた。
しかし、戻った時にはもぬけの殻だった。今よりもずっと幼かった自分は、すぐにいなくなってしまった存在に泣いてしまったのだ。
いなくなっちゃった…ぼくの…ぼくの……。
なくしたものの名前も知らないまま、三日間泣き続けた。
両親は何があったのかも分からないままにノアの頭をただ撫でていた。何かなくなっちゃったのね、と母が口にした時にノアは何も答えられなかった。答えられないことが悲しくて、ノアはまた泣いた。
何があったの、どうしたの、泣いていても仕方ないんだよ、もう泣き止んで、大丈夫だから。
両親は、どれも何も言わなかった。
ただ、泣き続けるノアの額のリボンを結んであげて、ご飯を並べて、温かい湯を張って、そして寝台の中で寝付けるまで、傍らでその頬と頭を撫で続けてくれていた。
三日目の夜。泣き疲れて寝床に横たわったノアは、ぽつりと声を出して母と父を呼んだ。
「お母さん、お父さん」
「うん、どうしたの?」
寝台から上体を起こしてノアは縁に腰かけた。母は急かすことなく、ノアのその動作を見ていた。
青紫色の、両親にとって宝物であるその二つの瞳が、淡い睫毛の陰に隠れる。
「ぼく……」
ノアは一度言葉を止めた。
その時、また一つだけ涙が音もなく流れるのを母は見ていた。
しかし、寝台に近づいた母は間近で見ていたそれを自分の手では拭わなかった。拭ってはいけないと思った。ノアの瞳から、泣きたくて流しているものを途中で拭わない方が良いと何故か思ったのだ。
「ううん……なんでも、ない」
「……そう。眠れそう?」
「うん」
言葉を止めたノアを、母は咎めることも、もう一度聞き返すこともしなかった。
ただ、よく眠れるように、その腫れた瞼にそっと口づけを落として、リボンを外したその輝きを優しく撫でた。
その翌日のことだった。
ノアは両手の指を膝の上で絡ませながら、窓の外を見たり、卓で編み物をする父を見たり、花瓶の水をかえる母を見たりしていた。
「あ、あの……」
ノアが小さく口を開けば、聞き逃すことなく父が顔を上げて、編み物の手を止めた。
「どうした?」
「男の人、好きになっちゃ……だめ?」
母は驚かなかった。
「まさか、好きな人でもいるのか」
父は、少しだけ慌てていた。
途中だった小さな犬の編みぐるみが床へ転がっていくのを見て、やはりいけないことなのだとノアは思った。少しだけ身体を小さくさせ、視線を床に落として、転がってしまった編みぐるみを意味もなく見つめた。
同性同士の恋愛など、きっとあってはならないことだった。それを証明づけるように、村の夫婦はみな男女で一組である。
「…やっぱり、だめ…だよね。ごめんね、忘れて」
「いる、のか…?」
「う、ううん……聞いてみただけ」
ノアは首を横に振った。
言葉を口にしてから、少しだけ胸が痛んだ気がした。否定するということが、何故かノアには痛かった。
「正直に言ってくれ、お父さん怒らないから」
「でも、いつもそう言って怒るのに」
「ああ、あれか……村長さんとこの」
焦った父を制するように割り込んできた母は、優しく諭してきた。
「お父さん心配しているだけよ。男の人を好きになってもおかしいことじゃないわ、だって気持ちの話だもの」
母は瞳を細めながらノアに話を続ける。
「そりゃあ、女の子と結婚してくれたら、あなたの子どもが見られるもの。絶対に可愛いわ、あなたの子どもは。お父さんそれを楽しみにしてただけよ」
楽しみにしていた、という言葉を聞いてノアは少し落ち込んだ。
「……やっぱり……やめる」
「こら。お母さんとお父さんのこと気にしなくていいのよ、あなたの人生だもの」
頭を撫でられる。母は、何かあってもなくても、どんな時でも優しく頭を撫でてくれた。
「それに、やめるって言ってやめられる話でもないのよ、好きっていう気持ちは」
幼いノアには、その言葉は理解できなかった。
ただ、母はそんな自分の反応を見越していたのか、それ以上難しいことは語らずに、興味深げにノアに質問をしてきた。
「ねえ、どこのだあれ?お母さん知ってる子?」
「知らない……」
ノアも知らない。名前すら知らなかった。
顔もあんまり分からなかった。血の気のない、震える瞼に覆われた瞳がどんな色をしているのかも、分からなかった。
それなのに、少しの時間の邂逅だったというのにノアの心は傾いたままだった。
知らないと答えた息子の頭を相変わらず撫でながら、母は柔和に微笑んで言葉を続けた。
「そう。いつか会わせてくれるのかしら」
「どう、だろう……」
「ま、まだ好きとすら言ってないのに、そんな話は早すぎて、」
父は完全に編み物をやめていた。
「でも、きっとあっという間よ。わたしたちから離れて、一人前の幸せを見つけるのよ」
「な…っ」
「好きな人ができたら、ちゃんとお母さんに言ってね?」
母はノアと目線を合わせるように屈んで、その宝石を指先でなぞった。
「この宝石はね、きっとあなたを幸せにしてくれるものよ。あなたが熱を出して辛かった時に、この宝石は助けてくれたの。ねえ、大切にしてくれる?」
「うん」
ノアは何の迷いもなく頷いていた。
そんなノアを見て、母はまた微笑んで、本当に本当に嬉しそうにノアの目元をゆっくりと指でなぞった。
「そう。それなら、旅のお方が話してくれた、本当の名前をあなたに教えるわ───」
母から教えられた名前は、はっきりと自分の中にもある。何も分かってはいないが、大切なものとして胸の奥深くに置かれている。
あの時、どうして宝石が煌めいたのか未だに分かっていない。
あの日以来、額の宝石が何か反応することはなかった。
手紙を書く手が止まる。
ずっと昔の、本当に小さな出来事だったというのに鮮明に覚えていた。
あの日の、手のひらの温度を思い出すように、握っていたペンを置いてノアは自分の両手を合わせた。
握った手は冷たかった。けれど、握っているうちに少しずつ温かくなったのが何故か嬉しくて、自分のものよりも大きな手をただ握った。その温度をノアは忘れていなかった。
一度置いたペンを持つ手は自分の手だった。十歳の頃のような小さな手からはだいぶ大きくなっていると思う。
昼間にレティシアとシエルが話してくれたアルフレッドの話は、物語の中の登場人物を聞いているような感覚だった。
物語の中の皇子とノアを抱きしめる男の人が、どこかで重なろうとしてくれるものの、最後まで一つには、ならないようだった。
しかし、全く別ものではないのだということも何となく感じていた。手のひらの温度は、重なった気がした。
「アルフ……」
小さく呟いてから、何故その名前を呟いたのか気づくことも考えることもなかった。ただ自然と唇の間から音が零れ落ちていた。
ノアはペンの先を便箋にもう一度当てた。
両親に一番に伝えたいのは、心配しないでほしいということ。
とてもとても、周りの人たちに親切にしてもらっているということ。不自由なことはなくて、恵まれた環境の中で生活することができているから、心配しないでほしい。
会えないのが寂しいことに変わりはないが、決して不幸な目に遭わされているわけではなかった。だから、安心していてほしいと。
ノアはペンを置こうとしたが、もう一つ書きたいことがあった。
ただ、どう書けば両親にだけ伝わるだろうと悩んでいた。全てをつらつらと文章にしてしまうことは、今はまだできそうになかった。
検閲があるとレティシアが言っていた。この手紙は、そして両親から返って来る手紙は、アルフレッドにもレティシアにも読まれるということである。
ノアは少し考えたうえで、ペンをもう一度便箋に当てて文字を連ね始めた。
───あの時、お母さんが言ってくれたこと覚えています。
───あっという間よって。
母はすぐに思い出すだろうし、父は少し時間がかかってから思い出してくれるだろう。
そして、二人とも笑ってくれると思った。
ペンを置いて、ノアは便箋を見つめた。文章にしてみると、短い手紙ができあがったかもしれない。
頭に思い浮かべられる言葉は多くあるはずなのだが、それを文字にすることが中々難しかった。難しかったというよりは、まだ形にして渡せるものではなかった。結果としては書きたかったことの半分も書けていない気がしたが、これでいいとノアは思った。
お母さん。お父さん。
元気でいてくださいという言葉だけを、ノアは心の中で付け足した。
インクが完全に乾くまでまだ少し時間がかかるため、ノアは便箋を開いたまま机の端に寄せて椅子から立ち上がった。
窓辺まで近づいて外を眺めてみれば、ゆっくりと夕暮れに向かっていた。西の空が、少しだけ橙色を帯び始めているのが見える。
今日初めて会ったシエルは面白い人だった。明るくて、話しやすくて、真っすぐ声が来る人だった。
レティシアが彼を紹介する時に、アルフレッドがシエルをここに通して良いと話していた。最初はその真意が全く分からなかったものの、今になってみるとその意味がほんの少しだけノアにも分かった気がした。
一人で寂しくないように。
ノアは、自分が「寂しい」と言葉にした覚えがなかった。ただ、アルフレッドに寂しくないか尋ねられた時に「寂しくない」とは返さなかった気がした。大丈夫とは答えた記憶がある。
寂しくないと答えていないが、寂しいとも言葉にしなかった。それなのに、恐らくアルフレッドはそれを察してくれたと考えるのが自然だった。
そう思った瞬間、ノアの中で何か温かい感覚が広がっていくのがわかった。その温かさを嬉しいと言葉にするのが正解なのか判断はできないものの、だからといってそれ以外の名前も思いつかなかった。
───アルフは、今どこにいるのだろう。
王宮で過ごしているのだろうか。それとも、隣の国とやらに出向いているのだろうか。彼の正確な居場所をノアが知る術はなかった。離宮に戻って来た時に戻って来たとわかる。それだけの情報だった。
久しぶりにその顔を見たかった。見て何かを言えるわけでも、聞けるわけでもないことはわかっていた。
ただ、見たかった。
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