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4章(4)

夜が深くなってもノアは起きていた。そして、その時に視線を窓の外に向けたのは無意識だった。 眠れなかったわけではなく、起きていたかったという感覚の方が近かった、そんな理由だった。 ───そこに、見知った姿があった。 離宮の各部屋に造られた窓はどれも大きく、豪奢な飾りで枠取られており、外の景色もよく見えた。ノアに与えられた部屋は離宮外苑の方まで見下ろせる位置にあり、夜に煌く星空や月も鮮明に見渡せるのだ。ノアが好んでよく足を運ぶ庭園も、寝室の窓から見える位置にあった。 部屋の扉を押して廊下に出れば、辺りは少しざわついている。 「───殿下がいらっしゃっていて」 部屋を出る時、ノアは特に何も考えていなかった。殿下という言葉が誰を示すのか、二人ほど候補はいるが何故か一人だろうとノアは確信していた。根拠は相変わらずなかった。 気づけば、薄手の上着の裾を片手で軽く握りながら足が廊下に向かって動いていた。 辿り着いたのは夜の庭園だった。 地に埋め込まれた小さな照明がほんのりと足元の花を照らしているおかげで、歩みに迷うこともなかった。 夜の闇に溶け込んでいてもはっきりと輪郭が分かる瑞々しい花々は、昼の顔とは様子を一変させており美しかった。窓から間接的に見てきた時と雰囲気も違う。 彼は、夜の闇の中でひっそりと咲く花を見ていた。 何の花かまではノアの位置からではよく分からなかった。 夜の闇の中だというのに、彼の艶やかな髪は決して負けていない。涼やかな夜風に髪がなびく。 見慣れたような、未だ見慣れることができていないような、そんなアルフレッドの背中を見つめてひっそりと声をかけた。地面を踏み締める音が鳴る。 「アルフ……?」 「ノアか」 アルフレッドが振り返る。久し振りに名前を呼ばれたような気がした。 熱心に見つめていた花からいとも簡単に視線を外し、ノアへとそれを移す。赤みがかった菫色の瞳と目が合った。 ほんの少し苦笑するように笑んで、アルフレッドは片手でノアを手招く。 「背後から足音を忍ばせて近付くのはやめた方がいい。俺はお前の足音を判別するが、戦帰りの騎士は気配に敏感だ、振り向きざまに斬られても文句は言えないぞ」 「僕、そんなに怪しい動きしてた?」 「不自然ではあったな。声をかけるか迷ったのだろう?」 「うん……これから、気をつける」 頷いたノアの爪先から頭まで、アルフレッドが視線を走らせたことには気づかなかった。 真っ黒な革製の手袋を片方ずつ外しながら、アルフレッドはノアに尋ねる。 「どうした、こんな時間まで起きているなど……眠れないのか?」 「庭園にいるって、みんなが」 偶然、アルフレッドが離宮に戻って来てそのまま庭園に足を運んでいると、使用人が話しているのを耳にしたことを口にすれば、アルフレッドはほんの少し瞳を細めた。 素手になった指でノアの首筋を撫でながら言葉を続ける。 「それで、夜更けにのこのこと寝衣のまま男に会いにやって来たのか?」 「のこのこって、」 「そんな薄着で……俺に触れられても、文句は言えまい?」 今身に纏っている寝衣が薄着であることは確かだが、改めて指摘をされると少しの羞恥心に襲われる。 淡色の薄い生地は肩紐で結ばれており、肩や腕のあたりは僅かに肌が透けて見えているのだ。上着を肩からかけているものの、防寒対策としてはいまひとつ頼りない。 羞恥を誤魔化すようにアルフレッドの悪戯な手を両手で掴んで制し、視線を外しながら言葉を続けた。 「ちが……そういうのじゃなくて、気になって、」 「まあ、そうだろうが。基本的に……寝るときの姿というのは、情を交わした相手以外には見せないものだ。その格好で、安易に出歩くべきではないな」 身体を重ねていることを遠回しに言われているのだと気づいて、ノアは余計に視線を彷徨わせた。 「特にお前は、この国の皇子に抱かれている身なのだから」 「へ、変な言い方しないでっ」 「事実を言っているだけなのだが」 「それに、前は普通に出歩いてた」 「状況が違う。ほいほい他の人間に肌を見せるんじゃない」 輪郭の延長上にある、小さな耳の付け根に口付けをされて、ノアは狼狽えた。いつの間にか背中に添えられた手に抱き寄せられて、アルフレッドと密着していることに激しく動揺してしまう。 薄手の寝衣のせいで、アルフレッドの体温がノアにはよく伝わってくるようだった。 「アルフ、は……どうして…」 「ん?」 「どうして、僕、に……キス、するの……?」 頬に手のひらを添えられる。親指の腹がゆっくりと肌を撫でてくる。 アルフレッドが瞳を細め、穏やかな眼差しで見つめた。 「人は、美しいものや愛おしいものには、唇で触れたくなるらしい」 真剣な瞳と、声、その……言葉に、心を乱されてしまう。 本当にそう思ってくれているのかもしれないと勘違いしてしまう。簡単に心が浮ついているのを感じて、既に思い込んでしまっていることに気づかされる。 強引に抱き締めてきたりするのに、こうして口付けをする時には丁寧に、繊細なものに触れるような優しさを感じさせるから、混乱してしまうのだ。 しかし、アルフレッドが唇の端に触れるだけのキスをしてきて、ノアは半ば無意識に両腕を突っ張ってアルフレッドの身体を押し返した。 「や……っ、外で、こんな」 「そういう趣向の男も世の中にはいるのだがな……お前がまだ世間知らずなだけで。第一、番と自分の離宮の中で触れ合っていて文句を言う人間などいない」 「でも、そんなの……アルフだって、もし他の人に見られたら嫌でしょ?」 「俺は別に構わないが」 「……でも」 「そんな泣きそうな顔をするな」 アルフレッドの身体がほんの少し離れる。 それに安心していいはずなのに、どうしたことか寂しくなってしまう。 自分たちが抱き合っている姿を誰か、他者の目に晒されることに羞恥心も恐怖心もあるから、それがなくなって安心できるはずなのに。ノアが眉尻を下げ、困りきった顔で見上げて訴えればすぐに身体を離したのだ、安堵の溜息を吐いたっていいのに。 アルフレッドの温もりが遠ざかると、途端に切なくなってしまい、ノアはそんな自分の心が扱いきれなくて何も言えなくなってしまった。 「お前の嫌なことを強要するほど、俺も奇特な趣向は持ち合わせていない。ちゃんと寝室だけにしてやるさ」 「そういう、意味じゃ……っ」 「こら、暴れるんじゃない。花を踏んだらどうする。お前の言う変なことはしないから、安心しろ」 アルフレッドに諭されて、初めて足元に注目する。 花があることは分かりきっていたはずなのに、すっかりアルフレッドのペースに巻き込まれて意識から外れてしまっていた。 しかし、彼がその小さな存在を気に留めている事実を知り、ノアは驚いたような表情を浮かべながら小首を傾げる。 「花、好きなの……?」 「人並みには愛でるぞ。今は他のことで手一杯だが」 「こんな夜遅くに?」 「夜じゃないと身体が空かない」 「でも、夜も忙しいんだよね?」 「そうだな」 「そんなに忙しいのに、離宮には帰って来ないで見に来てる」 それなら、相当な花好きなのではないだろうか。ノアはそう結論付けていた。 意外な趣味だと思ったのだ。ノアは元々村にいた頃から草花と縁があったものの、アルフレッドにそれを嗜むことがあったのだろうか。 「ノア。まさかお前……嫉妬でもしているのか?」 「ちがうっ、そんなんじゃない!……っあ、」 花に嫉妬───? 自分の言動にそんな節があっただろうかと振り返る余裕もなく、ただ花に嫉妬心を抱いたと思われたことに焦ってしまった。 動揺に後退りして照明に足を取られ転びそうになったノアを、アルフレッドは片手で支えて体勢を立て直させてやる。 あからさまな態度を見せてしまい、ノアは恥ずかしくなる。それも、当の本人であるアルフレッドに助けられてしまうなんて。 「ごめんなさい……ありがとう」 「そんなに良い反応ばかりしていると、悪い大人につけ込まれるぞ」 アルフレッドは柔らかく笑い、ノアの肩から自らの外套をかける。 そこで、初めて自分の身体が外気に触れて冷たくなっていたことに気がつく。アルフレッドの良い香りがするのと、途端に暖かくなった温もりにどこか安堵する。 「度々様子を見にくるのは繊細な奴だからだ。花を気にするほどには、俺にも心配性な面があるということだ」 アルフレッドがノアの髪を摘み、弄ぶ。 それから、耳の上を指先で撫でるのを繰り返してから小さな顎をすくい上げた。 「こんな時間では、お前はとうに寝ていることだしな」 それなのに離宮にまで足を運ぶ理由はない、と続ける。 それがどういう意味か、掴みきれなくて小首を傾げる。ノアの理解を求めていないのか、アルフレッドは少し笑んだだけで言葉は続けなかった。 理解しきれなかったが、自分の就寝時間を指摘されたのだと思い、ノアは今の時間を確認する。 「もう日付越える……いつも、寝ちゃうよ」 「それでいい。まだ足も完治していないだろう。養生するのが最優先事項だ」 言葉の真意をいまいち理解できていないことには気づいたものの、アルフレッドはそれを咎めなかった。 基本的に、アルフレッドはノアに全ての理解は求めなかった。考えることを強要することもなかった。 だから、ノアもその意味を深く考えることをやめて、足元からノアの肩ほどにまで連なっている花々を見つめて呟く。 「青い花弁なんて……初めて見た」 「珍しいだろう。何せ、貴重な種を交配させたらしいからな。もう少しすれば大輪を咲かせる」 青い薔薇は、内側の花弁ほど色が淡くなっており、美しいグラデーションになっていた。夜露に濡れた花弁は瑞々しく、庭園に広がる花の中でも一際存在感を放っている。 「──寂しいか?」 突然の問いかけに、ノアはすぐ反応できずアルフレッドを見返すだけになってしまった。 少しの間を空けて、ようやく大した意味を持たない疑問を返す。 「なに……?」 「眠れなかったのではないのか?……お前くらいの歳の子どもは、まだ親元にいるのが当たり前なのだろうからな。寂しくて当然だろう」 あくまで一般論のように語る。 アルフレッドの過去や体験談、主観的な語りではなく、世間一般の、他者の経験を耳にした出来事を客観的に話にしてくるのだ。 寂しくないはずはない。 同意してしまったとはいえ、母と父から離れるきっかけを作ったのはアルフレッドだというのに、どうしてそんなことを言うのだろう。自分の言葉で直接の別れの言葉を口にしたわけでもないせいか、母と父に会えない日々は寂しかった。毎夜の、眠りにつく少しの間は両親の顔を思い出して、どうにか寂寥感を押し潰していた。 「アルフは?」 「ん」 「アルフは……寂しくなかったの?」 ノアの問いかけに、アルフレッドは一寸の間言葉を閉ざした。 「さあ……どうだっただろうな」 それからすぐに、誤魔化したような言葉を返した。 また、その表情。 寂しそうな、悲しそうな……どこか、自分から距離を置くような、明確に言い表せない、その笑顔。 そうした面を見ると、なんだか自分が切なくなるのだ。胸の奥が窮屈になっていくような、寂寥感を伴う切なさが襲いくる。 アルフレッドのことを、何も知らない。 家族構成も、正確な年齢も、好きな食べ物や色、嫌いなもの、その、ひとつひとつを知らないのだ。 それが、またノアの胸の奥を寒くさせる。昼に感じたものと全く同じ温度だった。 「戻るぞ、ノア」 アルフレッドが外套越しにノアの肩を抱き、その身を離宮庭園側の戸口へと促す。 その動きに逆らうことなく、ノアはアルフレッドの手の温度を肩に感じながら両手を胸の前で組んだ。 最後に一度だけ、紫が混ざった青い薔薇に視線を落としてから離宮の方へと歩みを進める。 胸の奥の寒さは、しばらく消えてくれなかった。

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