31 / 34

5章(1)

5章 宵越し アルフレッドと顔を合わせなくなってから、三週間が経とうとしていた。 まだ十八という若さであるノアは、すっかり体調を回復させており、捻挫していた足首もほぼ完治している。 日頃からどこかを走り回るという習慣がなかったため、激しい運動などは分からないが、多少の負荷をかけたところで痛みに呻くことはない。村にいた頃も、どこかゆっくりとした時が流れていたため、慌ただしく走る人は滅多にいなかった。今は離宮にいるため、余計にそうだった。 村に帰りたい気持ちは、依然としてある。しかし前よりも考えることが少なくなっていた。 アルフレッド本人の許可がなければ故郷へ行くことはできないのだ。そのアルフレッドが許可を出さない、それもここ最近はずっと不在にしているから話題にすら上がることがなくなってしまったのも事実である。 不自由な生活を強いられているわけではない。 むしろ、離宮から出られないという点を除けば十分過ぎる生活を送っているし、不当な扱いをうけることはなかった。少しずつ、自分が順応していることには気づかなかった。 両親に会えないのは寂しいが、手紙のやり取りが始まった。セシリオにはまだ書けていない。 手紙だけでも、故郷や両親と繋がれた気がした。両親はすぐに返信をくれるが何も聞いてこない。否、質問はたくさん書いてあるものの、ノアを悩ませるような質問も、帰ってきなさいという言葉もなかった。それは、ノアにとって気持ちが楽だった。 手紙の文章は、主に母だった。 カルムーニュはずっと天気も良くて、作物が例年通りよく育っていること。 父が転んで擦り傷ができたこと。 ノアは怪我をしていないか、体調を崩していないか。 そして、最後に父が一文だけ言葉を添えてくれる。少し歪な、でもノアには慣れ親しんだ不器用な文字だった。 あんな強引な手段で自分をここまで連れて来たというのに、今はこうして離れている。 国を出る前日には、しばらく会えなくなると彼自身の口から聞かされてはいたものの、ここまで長い日々だと思っていなかった。 少しだけ、寂しいと感じているのかもしれない。 でも、まだそれを認めることはできなかった。 周りの者からは、彼の話を聞かない日はないというのに、アルフレッド自身から聞かされたことはなかった。 世界や国、戦争、魔術…そうした難しい話を繰り返されたところで、子どもであるノアには正確に理解することはできない。 ノアが欲しているのは、そんなものではなかった。 経歴や戦果などではなく、もっと、そう……アルフレッド自身のことを、知りたい。 彼のことが気になるから、知りたいのだ。それなのに、肝心の本人がいないから、知る術がなくなってしまった。 アルフレッドが不在の間は、離宮の中で自由に過ごしていた。 許された時間はいつも庭師と庭園で花の世話をしたり、侍女と午後のお茶の時間を過ごしたり、夜には吹き抜けから見える宴ので開かれる演奏会を眺めたりしている。 習慣づいていたせいで、動物と触れ合う機会が失われてしまったのが唯一の不満点ではあるが、好奇心旺盛な年齢であるノアは離宮で過ごす時間も楽しむことができていた。 今日も、離宮で雇われた料理人が作った、万人の舌を唸らせる昼食を摂った後、ノアは使用人と共にゆったりとしたひと時を過ごしていた。 宴の間へと続く大階段には希少な宝石がいくつも埋め込まれており、昼間だというのに星が輝いているような美しさで人々の目を楽しませている。宴の間では貴族たちが踊りを楽しむ夜もあるというが、今はひとりの男が何かを手にしながら詩を歌っていた。 円形の広い宴の間を囲うように作られた、二階の吹き抜けの場所でその姿を眺める。 周りの壁には伝説上の存在と言われる巨大な龍の姿や、精霊が壮大に描かれている。所々に小粒の天然石まで散りばめられており、端から見ていけば全て物語になっているのだと以前教えられた。 高窓から落ちた昼の光が宴の間の床を白く灼いていて、下から見上げれば二階は逆光の陰に沈んでいる。歌う男の位置からは、天井の縁と、そこに彫られた龍の腹しか見えないはずだ。 宴の間に響く歌声に階下の人たちは耳を傾けている。時折、まるで誰かに話すように語りかけることをしながら、男はひとりで音楽に乗せながら歌っている。 動く度に肩ほどにまで伸ばされた金色の髪がさらさらと揺れ、指先が弦を弾く。 そんな、初めて見る姿に心惹かれたノアは、備えられた柵に手をつき身を乗り出した。 「ノア様。危ないですよ」 傍らでお茶を淹れていた使用人に話しかけた。 「あれは…?」 「吟遊詩人です」 正確に返された言葉に首を傾げる。 これまた豪奢な装飾が施された柵から身を乗り出すという行為を優しく諌めながらも、使用人のひとりはそれ以上言い募ることはしなかった。 ノアも品の良い行いではなかったと自覚はしていたため、柵に手をつきながらも身を引いて彼らを振り返る。 「吟遊詩人?」 「詩曲を作り、各地を巡って歌っている人々です。話や詩で、訪れた土地の人々を喜ばせることを生業としています」 初めて聞いた単語の意味を聞かされながら、ノアは何度も頷いた。 ここに来てから、多くのことを教えてもらっている。知らないことがあまりにも多くて、度々困惑する場面もあったが、周りの人々は嘲ることなく丁寧に教えてくれた。 「あの詩は…世界の精霊を語ったものですね。女神と精霊により世界が作られたとされています、その詩です」 「有名なの?」 「はい。子どもの頃から歌われていました」 女神も精霊も分からないが、きっとノアが幼い頃に母から聞かされていた御伽話や歌のように、アルドヘイムで暮らす人々にとっては最も身近な詩なのだということは分かった。 「精霊は、アルドヘイムの月日を表す単位の元にもなっています。一年をそれぞれアクア、シルウァ、テラ、フェルム、ウンブラ、ルクス、イグニス、フルメン、ウェントゥス、ネブラ、ソル、フロスの十二個に分けました」 長年使用人を勤める男が語る。 ノアの部屋に飾られた日付表も見慣れないものであったが、アルドヘイムにおいて主流とされている暦であったようだ。 アルドヘイムには季節があるらしい。 時期によって気温や降水量、湿度が変化し、植物や食物も変化していくのだとか。 カルムーニュ村は温帯気候帯にあったため、四季はなく年間を通じて十分な降水と日照時間が確保されていた。移り変わる景色を堪能することはできないが、生活をするには最も快適な地域である。 アルドヘイムでは四季を記号化したものがウェール、アェースタス、アウトゥムヌス、ヒェムスだと言われた。それらを第三デークずつ分け、十二の精霊を模しているのだと。しかし、聞き慣れない単語であるため覚えるにはいささか時間が必要である。 使用人もそれを察しているのか、小さく笑んで言葉をかけた。 「ちなみに、今日はウェール、アクアデーク12の日になります。難しいので、全て覚えるのはゆっくりやっていきましょうね」 聞いていたノアが一度頷くと、侍女が隣に立ち、宴の間を見渡した。 一緒になって下を覗けば、使用人たちに混じって見慣れない外套の男が二人と、その連れらしい年嵩の女が一人、柱の陰の椅子に浅く腰掛けているのが見えた。 「あの人たちも、この詩を聴きに来たの?」 「ええ」 「じゃあ、ここは誰でも来られる?」 「いいえ。お名前とご用向きを書いてお出しいただいて、お許しの出た方だけです。書かない方は、内苑には入れません」 それを聞いて、ノアはそうなんだ、と短く頷く。 村では、誰の家の戸も昼のうちは開いていた。 母の焼いた菓子を幼馴染みの家へ届けに行くのに、名前を書いた覚えなどない。ノアは柵の上で指を組み替えて、それからふと考えた。自分がここへ来た日に、何か書いただろうか。 思い出せなかった。眠っている間のことだったから、と思い直して、また下を見た。 「ああして世界中を旅しながらアルドヘイムにも立ち寄って、お許しを得た者が十の離宮を順に巡っているのですよ」 「王族や貴族に雇われることを夢とする者が多いので、ああして披露をしているのです。専属の詩人になれるように」 彼らの言葉に、ノアは感嘆の息を吐いて聞き入り、興味を示した。 まだ幼いせいか、ノアの存在は使用人たちの庇護欲をくすぐる。元々、貴族や王族を除けば十代の少年という存在は離宮の中では珍しかった。 主であるアルフレッドに子ができない以上、この離宮の中で子どもが生活をすることはまずない。 時折催される宴では、一定の地位を有した者の令嬢などを目にすることはあるが、気軽に接することは許されなかった。王族の主人の番であるノアに対しても同様の対応をするべきではあるものの、当の本人があまりにも畏まられた態度を取ってしまうと逆に嫌がってしまうため、最近では少しずつ打ち解け始めてきたのだ。そんな少年が目を輝かせ、何かに興味を示しているともなれば、彼らはどんどん多くのことを教えてあげたくなってしまうというものである。 子どもの視線は、すっかり吟遊詩人に釘付けになっている。 紫水晶を想像させる、青紫色の二つの瞳が宴の間で繰り広げられる小さな芸を見つめていた。 「世界を、旅して……」 「ええ。時には紛争地帯でも…彼らの詩は、戦いや国の英雄譚、そして悲劇を伝え広める役割も持っていますから」 「世界中のことを知ってるんだ」 額から何かが動き、胸の奥で小さく弾んだ気がした。 それが何なのかは、分からなかった。 世界を旅しているという事実は、ノアの関心を強く引いた。 カルムーニュ村、そしてこの離宮の中のことしか知らないノアにとって、外の世界は鮮やかな想像で描かれている。 「アルフも専用の人がいる?」 「アルフレッド殿下にはいらっしゃいませんよ。不在にすることも多く、詩を楽しむ時間がないと仰っていましたから」 「そうなの…じゃあ、あんまり来ないね」 「殿下が声をかければいつでもいらっしゃいます。彼らも生計が成り立ちませんもの」 宮廷詩人がいないとなれば、ノアが気軽に声をかけることもできないということだ。 身近にそうした存在がいれば、今はまだ外に出ることは叶わなくても、話だけでも聞けたらきっと楽しいと思った。だが、アルフレッドに専属の詩人がいない以上、それは断念せざるを得ない。 睫毛を伏せ、柵についた手の上に顎を乗せるようにして、僅かに落ち込んだ様子を見せたノアに声がかけられる。 「詩がお気に召しましたか?」 申し訳なさそうな顔をされていることに気がつき、ノアは慌てて姿勢を正した。 「僕、村のことしか知らないから…」 「お話を聞きたいのですね。多くのことに関心を持つのは良いことですよ」 専属の詩人がいないのであれば、仕方ない。 ノアひとりの希望だけで雇えるわけでもないだろう。いたらいいな、何か楽しい話を、自分の知らない世界の話を聞けたらいいな、という気持ちだっただけだから、いなければならないというわけではないのだ。 離宮に来てから、ノアは何もしていない日々を持て余していた。 村にいた頃のように生活に必要な仕事を手伝えている状況でないせいか、何かしていないと落ち着かないのだ。自分ひとりが、こんなにも手厚い待遇を受けていて良いのか、と。 そして、ふとした時に少しばかり怖くなるのだ。 怪我をしてろくに抵抗もできない子どもの貞操を奪い、故郷から連れ去ってきたというアルフレッドの事実に怒りを覚えなくなったことを。 あの時の出来事を思い出すと、やはり何か…明確に言い表せない、もやもやとした気持ちになるものの、怒るという感情が湧くことがない。 それどころか、今はどうしたことかアルフレッドに次はいつ会えるのかと考え始めていることに驚き、これで良いのか分からなくなってしまう。でも、彼のことが気になるし、知りたい。 格好だけは崩さずに、ノアは今度は気抜けがした状態のまま詩人をただ眺めている。 使用人は、未だ少年が吟遊詩人に興味があるのだと思い、横から口を挟むことはなかった。 (どうして……毎日毎日、アルフのことばかり) 彼のことを考えない日はない。 こんな、不在の間にも毎日アルフレッドのことを考えてしまう自分は、一体どうしてしまったのだろうか。 ぐるぐると、同じようなことを考えては、答えが出なくてそれを繰り返している。 来た時から何も変わっていない。こんな話を、誰かにできるはずもないから、解決までの道のりは長そうだ。 もっと、酷く扱ってくれれば…物のように思ってくれれば、嫌うことができるのに。 会えば、本心なのか分からない愛情や優しさの言葉をかけ、本当に丁寧に触れてくるから、自覚しないところで心が掻き乱されている。 だから、もう少し。彼の本当の姿を見せてほしいのだ。 初めて身体を拓かれた時と、現在…どちらもアルフレッドだというのに、無理やりされたという事実があるから、好きになってはいけない、とセーブがかかってしまう。 レティシアやシエルから聞いた、ピリンキピウム戦争からの帰還、数多の功績を引っ提げる彼。 どれが本当の彼に近いのか、知りたいのだ。 番だと、一目見た時から好きになったと告げられたが、まだ……本心は、語ってくれていない。そんな気がした。 自分の情報や気持ちは把握されているのに、彼はまだ表面上のものしか見せてくれていない。 それを悲しいと思っているのか、ノアには判断がつかなかった。 「ノア様」 「あ……なに?」 迷宮入りしそうなノアを引き戻したのは、先ほどまで会話をしていた使用人の声だった。

ともだちにシェアしよう!