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5章(2)

「レティシア様がお見えになっています」 「え?」 知った名前の人物の訪問を告げられ、ノアは少しばかり驚いて間の抜けた声が出てしまう。 「突然ごめんなさい、ノアくん。……今日は詩を聴いているのね」 声をかけられ、すぐ振り向けばそこにレティシアが立っていた。いつもと同じ格好だというのに、どこか…ほんの少しだけ、緩めている印象がある。黒を基調とした軍服をきっちりと着こなす彼女が、今日は珍しく襟元を緩めていた。ほんの数本、結い上げたところから金色の髪がはみ出していた。 「レティシアさん?今日は何か…」 ノアが反応すると、彼女は少しばかり表情を緩めた。 「仕事の方がひと段落したから、あなたの顔を見に行こうと思って」 「僕の?」 「ええ」 その答えを聞いて珍しい、と思った。 確かに、アルフレッドの代わりとばかりに、彼女がノアのもとを訪れることはあるものの、顔を見に来るという理由はこれまでにはなかったような気がした。普段は他に何か用事もあった。 「調子はどうかしら。怪我もだいぶ良くなった?」 「大丈夫。走ったことはないけど、全然、ここまで歩いても平気」 「そう、良かった」 ノアは正直に回復したことを伝えた。 少しだけ、本当に少しだけ、普段と様子の違う彼女を見てノアは席を立とうとする。 「あの、僕で良ければお茶淹れてくる」 「ああ…いいのよ。気を遣わないで…いえ、遣わせてしまったわね、ごめんなさい」 あなたたちも構わないで、と使用人に声をかける。 恐らく、ノアが永遠に同じような思考を繰り返している間に、レティシアはノアに付き添っていた使用人たちにお茶菓子も何も不要であると告げていたのだろう。ノアが気を遣うよりも前に、彼らが気付かないはずがない。 優秀な侍女は、一言添えながら美しい造りをした椅子を、彼女が座りやすい位置にそっと移動させた。そんな気遣いに一言ありがとうと告げ、腰を下ろすのを見てからノアは問いかけてみた。 「……ずっとお仕事してるの?」 「ごめんなさいね、疲れた顔をしているかしら」 「少し…」 素直に答えれば、彼女は苦笑した。 どんなことでも正しく迅速にこなそうとするレティシアにとって、こんな子どもに心配されるなど、本当のところは嫌だろう。だいぶ疲れた顔をしている気がする、という感想を飲み込んだノアも、段々と彼女たちとの会話の距離を図ることがなんとなくできるようになっていた。 溜息交じりにレティシアは言葉を続ける。 「子どもに心配させてしまうなんて、女としても大人としてもだめね」 「そんなことないのに」 「あなたが優しい子で良かったわ、ありがとう」 お礼を言われると、弱い。しかも、普段よりも元気がない人に。 「困っている人を見かけたら、手を貸してあげなさい」と、物心ついた時から母に教え込まれてきたノアは、弱っているレティシアを見過ごすことはできなかった。 話を聞くにしても、関係者ではない自分には全て打ち明けられないだろうし、打ち明けられても力になれることなど、ほとんどないだろう。それでも、彼女を無碍に扱うことなどできない。 「少し厄介な案件を殿下が抱えているから、わたしも少し、ね」 「アルフが…」 「前にも話したけど、珍しいから、戦場に出向く王族は…。だから余計に、殿下の負担が大きいのよ」 答えてもらえないかと思ったが、彼女は意外と自分から事情を話し始めた。 「戦地で手柄を立てれば周りの功績だと言われ、政治の場面で前に出れば皇帝に取り入っていると揶揄され…事あるごとに、周りから声があがる」 「そうなの…?アルフが、どうして?」 「まだお若いから。それなのに、能力が際立ってしまっているから、周りからすれば妬ましいのよ」 王位に近い証でもあるのだけれど、と呟く。 自ら剣を取り、必要となれば戦い抜く。王族という地位ある人間がそんなリスクを冒すなど、通常であれば考えられない。これまで何度も聞いてきた話だった。 アルフレッドは自分の危機を厭わず戦場を駆け抜け、時には休む時間もなく働き続け、周囲の兄弟、王族らに囲まれ続ける毎日。ノアには、事実を知ることができても、その苦労を想像することは難しかった。 「……皇子という立場を利用して、責任逃れしても誰も咎めない。でも、あの人はそういうことをしないのよ」 心底困り果てた様子である。 それから、かぶりを振って更に話を続けた。 「本当はもう、帰って来ているのよ。だけど、色々と問題が山積みで…王宮に縛り付けられているの」 帰って来ていた。国外にずっといるとばかり思っていたが、事実は違っていた。 いつから帰国していたのかは分からないが、しばらくの不在を告げられてから、ノアは一度もアルフレッドに会っていない…離宮に、彼が帰って来ていない。 少しの時間も空けられないほど仕事に追われているということだ。滅多に王宮では休むことをしないと以前は聞いていたが、現在はどうなのだろう。忙しい中でも、休息をとることはできているのだろうか。 「アルフ、こっちに帰って来てないけど…ちゃんと、寝られてるの?」 「正確には分からないわ。どうにか少将が押しやっていることはあるけど…知らぬ間に仕事を持ち込んでたこともあったから」 「まだ仕事長引く…?」 「長期戦にはなりそうね。───東部にある村の問題で…殿下が入れば手っ取り早く解決するのだけれど。アルフレッド殿下の手柄にしたくない人たちに邪魔されて、話がどうにも進まない状態なの」 レティシアは多くを語ってくれた。疲れているから、色々と話してくれるのかもしれない。 何の関わりも持たない自分に、説明などしてくれないかと思っていたが、それだけ事態が彼女にとって深刻なのか、触りだけだと思われる部分を話してくれた。それが、ノアにとっては少し嬉しかった。 「アルフレッド殿下だけじゃない…多くの者が最善だと思う策を、押し進められない…これまでに何度もあったわ」 「周りの人も言っているなら、良いことなんじゃ?良いことなのに、できないの?」 「そう、良いことなのに。軍の上層部、他の王族…若い皇子が気に食わないと言って。大人気ないのよね」 「そんな……みんなが困るのに」 「本当にね」 ノアには分からない世界だった。アルフレッドやその周囲の人々、カルディア…アルドヘイムを取り巻く事情は、複雑な背景が多いようでノアには理解しきれない。 それでも、レティシアがなるべくノアにも分かるようにと説明してくれるおかげで、何となくではあるがアルフレッドの現状を感じ取ることはできた。理解は、できていないだろう。 思ったままのことを隠さず言えば、レティシアは困ったような笑みを浮かべ、同意を示す。 レティシアはその現状を憂いて、どうにか疲労を押し殺した顔で話を続けた。 「でも、殿下もまだ一皇子だから…下手に動くと立場が悪くなるし、やりづらくなるの。それを全てわかっているから、膠着状態なのよね」 レティシアが頬杖をつき、言葉を続ける。 「あなたに会おうにも、夜遅い時間では寝ているから話せないし、行く意味がないと仰って…」 「……そういう意味だったの」 「どうかした?」 「ううん…大丈夫」 夜の庭園で交わした言葉を思い出す。 あの時は理解できなかった彼の言葉を、今こうして他者の話で理解することになるとは、思っていなかった。 自分と話をするために…会いに、来るために離宮まで立ち寄ろうとはしていたということだ。しかし、ノアは夜遅い時間では就寝してしまう。それゆえに、アルフレッドはわざわざ夜が更けた時間に帰って来ることはしなかったのだ。どうしてそんな簡単なことを考えつかなかったのかと、あの時の自分がほんの少し恨めしい。 「少しでも休息を取れれば良いのだけれど…殿下は、基本的にひとりで何でもこなそうとしてしまうから」 「休めないの…?」 「本当は休む時間も作ろうと思えば作れる…でも、殿下がそれを許さないから、わたしたちも強く言えないの」 休まなければならないのはアルフレッドであり、当の本人が休もうとしなければ他の人間では強制することなどできない。ましてや、相手は誰よりも身分が上の皇子であるのだから。 レティシアの心情を察して、ノアは悲しい気持ちになった。 こんなにも心配している人が身近にいることに気がついていないアルフレッドに対してか、またはそんな状況にアルフレッドを追いやった周囲に対してかまでは分からない。 溜め息を隠さず、レティシアは苦笑を交えながら本音を口にした。 「部下は休ませるのに、肝心の自分は休まれない…どうしたものかと、みんな困っているのよ」 こんな時だというのに、彼女は、本当にアルフレッドを敬愛しているのだと思った。 皇子とはいえ、自らが仕える男を心から心配しているのがよく分かって、ノアは少し視線を俯かせる。周りに心配されるほど仕事に没頭しているアルフレッドが勿論心配だし、困りきったレティシアやシエルの姿が容易に思い浮かんで、何かできないだろうかと思考を巡らせた。 「僕、に……」 口を開き、小さく呟く。 彼女たちは、ここに来たばかり、体調が悪い時には心配してくれた。 困っているノアが声を発しなくても、先回りするように助けてくれた。 吟遊詩人の歌声は、未だに続いている。 そんな中でも、ノアの声を聞き流すことなく、レティシアが優しく聞き返した。 「なに?」 「僕に、何か…できることって、あるのかな」 睫毛を伏せながら、ノアは切り出した。 驚いたように瞳を大きくさせた後、彼女は指先を顎に添えて小さく呟く。 「できること……」 「僕、子どもだし、頭だって良いわけじゃないし…できることなんてないって、分かっているんだけど…」 「……」 「お掃除とか、書類運ぶのとか、何でも…できることだったら」 負い目が、あった。 自分だけ、まるで貴族になったかのような好待遇のもとで生活していることに。 周りの人はみんな働いているし、見知った人たちは多忙な日々に埋もれてしまっている。それなのに、自分だけ何もせずに時間を浪費しているなんて、申し訳ないと思ってしまう。 何かできることがあるのなら、何だってする。元々家では両親の酪農の手伝いを毎日していたし、たとえ直接的なアルフレッドの手助けにならなくても、遠回しに負担を軽くできるような何かをしたい。 「ノアくんに…」 数秒の間、レティシアが何かを考え込んだ。 それから、意を決したように…といっても、彼女は常日頃から冷静沈着であり、滅多なことではポーカーフェイスを崩さないため、表情に大した変化は見られない。ただ、雰囲気が若干の移り変わりが見えたのだ。 碧眼がノアを真っ直ぐに見据えた。 「それなら…殿下のことを、出迎えてあげてくれないかしら」 「え…っ?」 「あなたの元気な姿を、見せてあげてほしくて」 思いがけない返答に、ノアは驚き、戸惑いを隠せなくて力のない声をあげてしまった。 アルフレッドを出迎える? そもそも、離宮に帰って来るかも分からないというのに、そんな不確かなことを約束して良いものかと迷ってしまう。 困惑したノアは、眉を下げ、不安そうな声色で念押しをする。 「そんなこと?手伝いって、言えるの…かな」 「そんなことじゃないわ。だって、あなたにしかできないことだもの」 「そう…なの…?」 「ええ」 レティシアは先ほどよりも表情明るく、自信気にはっきりと答えた。 しかし、ノアにはよく分からなかった。 「あなたが迎えてくれれば…きっと、殿下も少しは仕事を手放して休息を取ってくださるかと思うのよ」 だが、レティシアはノアの胸中を知る由もなく、後押しをしてくる。 そんなことで休めるのだろうか。そんな効果を自分が持っているとは思えない。 それなら、きっと既に休息を取れているはずだ。現状の解決ができる手段ではないのに、本当にアルフレッドが休めるのだろうか……休めないだろう。仕事の負担を軽減できなければ、きっと意味などない。 しかし、レティシアには提案を取り下げる様子はない。手伝うことを申し出た身としては、不安が大きくても彼女の要求を断ることはしづらかった。 「ウィルフレッド殿下がカルディアにいないのが痛手になっているわね…あなたに、こんな風に頼んで申し訳ないわ」 「でも……僕が顔出しても、アルフは…」 「……喜ぶわ。番が出迎えてくれるんだもの」 思わず言葉を詰まらせる。 アルフレッドが自分をどう思っているのか、全く想像ができない今、本当に出迎えるだけで力になれるのかと不安になってしまう。 「人間って単純なのよ。好きな子の顔を見られるだけで、癒されるものよ。愛情を注げるひとりの人間を腕に抱けるなら、尚更」 「う」 暗に、身体を重ねることを言われているのだと流石に気がついて、ノアは変な声を出して狼狽えた。 行為に慣れることは当然のこと、他者からそうした話題に触れられることも未だ慣れることはできていないし、これからも慣れないだろう。そんな動揺をどうにか飲み込んで、ノアは小首を傾げながら更に問いかけた。 「そういう、もの?でも、それに当てはまると思えないんだけど…」 「そういうものよ」 レティシアが強い眼差しで見つめる。 「───頼まれて、くれる?」 お願い事をされるように言われて、ノアは首を横には振れなかった。 そもそも、何かアルフレッドのためにできることはないかと言い出したのは自分の方なのだから、今更断ることなどできない。それが、果たして効果のあるものなのか分からなくても。 不安の残るノアは、おずおずとレティシアに尋ねる。 「失敗…しても、怒らない?」 「勿論。失敗なんて、そんな言い方もないけど」 「アルフが仕事しに戻っても?」 「困るけど、それはあなたのせいではないもの」 「本当?」 「約束するわ」 柔らかな笑みで返される。そんな顔を見てしまうと、もう引き返せなかった。 少しでも力になれる可能性があるのなら…ほとんどなくても、今の自分にできることならば、頼まれたことはやりとげるべきである。 一度頷いて、ノアは自分をも納得させるように口を開いた。 「わか、った…。休まないと、倒れちゃうもんね…」 「ありがとう、ノアくん」 柔らかな笑顔を向けられる。 お礼を言われると弱いのだ。頼み事をされるのも。誰かが喜ぶ姿を見ると、どうしてか自分は関係がないというのに嬉しくなってしまう。困っている人がいたら、それを見て見ぬふりはできない。 必要性は理解できている。きっと、人には必ず休息が必要なのだと…そして、アルフレッドが今まさにそうなのだと。周りの人もみんな彼を心配しているのだ、その人たちを安心させてあげるためにも、アルフレッドには一度でも離宮に戻ってもらい、休みを与えるべきなのだ。 難しいことはノアには分からないが、彼とその周りの人の負担を少しでも減らしてあげたかった。ただ、その一心である。 「殿下に愛されてあげて。あなたは少なからず、あのお方にとっての安らぎになり得る子なのよ」 ノアは、もう一度確かに頷いた。

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