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5章(3)
日が沈み始める頃に王宮へ戻って行ったレティシアを離宮の玄関口で見送った後、再び宴の間で詩人の歌を聴く気持ちになれず、ノアは私室に戻ろうか迷って足が一度止まり、それから考えられないことを考えてから私室へと向かった。
私室に戻って、一度椅子に腰かける。
太腿の上で指先を緩く組みながら、特に意味もなく視線を彷徨わせ、それから卓に置いたままにしていた本を栞が挟まった頁から開いてみた。
しかし、読み始めて三行目で目が滑ってしまい、同じ行を三度読んでいた。
このままではどうにもならないと考えて、ノアは本を丁寧に閉じて、元々挟んでいた頁に栞を挟みなおし椅子から立ち上がる。三秒ほど動きを止めてから廊下に出て、声をかけてくる侍女たちに一言二言だけ言葉を交わした。
足は、いつもの方向へと向いていた。
この三週間で、ノアのお気に入りの場所は庭園に加えて厩が増えた。
ノアが生活する離宮は王宮の九時方向に位置している。離宮から見て王宮は通用門を抜けて東側に、長い並木道を抜けた先にあるため、馬場や厩、馬車寄せなども離宮内苑の東側に集まっている。
ある日、使用人と共に内苑を歩いていた所でその場所を見つけ、以来ノアは毎日のように厩に通うようになっていた。
最初は桶を運ぼうとしたところ、「殿下のお番の方にさせるわけには」と断られ、断られながらもノアは譲らなかった。そして、次の日に行ってみると桶は二つ用意されており、それきり何か言われることはなかった。
馬は平時は八頭いる。名前は聞いていないが、一頭ずつつけられていると言う。
自分は馬の名前を呼んでいい立場ではない気がしたのと、名前を聞いてしまうと情が湧いてしまいそうだった。しかし、奥から二番目の栗毛の馬は三週間も通い続けたノアの足音をよく覚えていた。
乾いた藁と、湿った土。草と獣の匂いが混ざったこの景色だけは、ノアにとってここに来て唯一馴染みを持てるものである。
この匂いと色に囲まれている間だけは、自分の手が何をすればいいのかよくわかった。
上質な衣服や装飾に身を包んだり、聞いたことのない上等な果実を食べたり、仕事をしないまま本を読んだりして一日を過ごす日々は、ノアにとってまだ借り物の生活だった。
だからこそ、天気のいい日に厩で過ごす時間はノアの心が自然と動くものになっているのだ。
「ノア様」
年寄りがいつもの場所から顔を上げ、ノアの名を口にした。
白髪の混ざり始めた、そろそろ腰を折るのも億劫になりそうな年齢であるとすぐにわかる厩番だった。皺がいくつも刻まれた目尻と穏やかな顔を見て、ノアは肩の力が抜けるのがわかった。
「みんな、変わっていないかな」
毎日足を運んで様子を見ているのだから、そう簡単に変わるはずないというのに、ノアは来るたびにそう聞いていた。
桶を運んでから、今度は藁を抱えた。藁の匂いと肌に刺さる感触が、ノアには馴染んだもので何を言われなくても何をすればいいのかすぐにわかる。
栗毛の一頭が首を伸ばしてきて、掌の匂いを嗅いだ。
「ふふ」
足音を判別するその馬が鼻を寄せてくる。
ノアはその濡れた鼻先を避けて、首の方を撫でた。鼻先はまだ嫌がるというのは最初の日にこの厩番に教わっていた。その言葉の通り、首を撫でても全く嫌がらず、ノアが近づくたびに首を伸ばしてくるようになった。
一通り撫ででから、一番奥の馬房まで歩いたところで、ノアの足が止まった。
三週間ずっと空だった場所だ。
誰も飲まない水と誰も使わない桶を、この人は毎日洗っているのをノアは見ていた。そこに水が張られ、飼葉桶が伏せて置かれているのもいつも通りである。
しかし、今日は藁が違った。新しいものがいつもの倍ほど厚く敷き詰められているのが見えた。
「……あ」
ノアは、思わず、本当に意識することなく声が漏れ出ていた。
すると、少し後ろから穏やかな厩番の声が届く。
「今日お戻りになります」
その言葉を聞いた瞬間に、ノアは呆けてしまった。
え、と小さく声が出る。出たことに気づけたのは、数秒たってからである。
「今日?」
「ええ。先ほど、馬房の支度をするようにと申し付かりました」
「さっき…」
ノアはまた呟いていた。新しい藁の色から目が離せなくなってしまう。藁はなんともない、特別なものではないというのに、その色の新しさをノアは見つめてしまっていた。
この三週間、何の動きもない場所だった。
変わらない整い方をしていた場所に、戻ってくるもののための準備がされている。
「ほんとうに?」
「本当に」
「あの、でも」
厩番──マルコを疑っているわけではない。何せ彼に疑うべき点は一つもないのだから。
ノアが思わず聞いてしまうのは、この三週間ずっと帰ってこなかった人が本当に帰って来る、その一点だった。
意識しないところで、また声がでる。勝手に言葉が先走って転がっていくようだ。
「その…急にまた連絡がきて、帰ってこなくなる、ってことは…ない?」
言葉にしてみて、ノアは耳が熱くなるのを感じた。
この言葉は、帰って来ると期待して、やはり帰ってこなくなることで落ち込みたくない、ぬか喜びしたくないと言っているような聞き方になっていた。
マルコは藁を抱え直してから、目尻に皺を刻ませて話を続ける。
「私はこの離宮の厩でお仕えして、そろそろ十年になります」
「十年」
「アルフレッド殿下がこちらをお使いになるようになってからも、発たれてお戻りにならなかったことはございません」
ノアはその言葉を胸の内で反芻していた。
十年。
この人は十年ずっとこの厩にいて、毎日この馬房を整えながら、主人が帰って来るのを見てきたのだと言う。ノアが離宮に来たのはたった数週間前だ。それよりもずっとずっと前から、この人はいたのだ。
「じゃあ……今日、も」
「お戻りになります」
その言葉にノアは自然と頷いていた。頭が理解するよりも頷く方が早かった。
帰って来る。
三週間ぶりに、離宮に戻って来る。今日のうちだと言う。つまり、あと数時間のうちに、あの人の顔を見るということだった。
気づいてから、ノアは急に落ち着かない気分になってしまった。
身体の後ろ側で緩く指を絡ませ、所在なさげに視線を彷徨わせ、新しい色をした藁をもう一度見た。
「あ、あの」
また勝手に口が動いていた。しかし、その先の言葉は続かなかった。
そんなノアを見ながらも、マルコは待たなかった。そして、言葉の先を急かすこともしなかった。
手元にある藁を均して、そのまま何も聞いてはこなかった。
何を言えば良いのかわからなかった。
顔を見て、どう出迎えればいいのかわからなかった。
だから、十年のここにいる厩番に、何を言ってどう出迎えればいいのか教えてほしいと言えば良かった。
言えなかった。
言うためには、何故それを知りたいのかということを言葉にしなければならないのだ。
「帰ってきたら…」
ノアはぽつりと言葉を口にした。
「帰ってきたら、すぐわかる?」
桶の水を張り終えてから濡れた手を拭いて厩の出口へと足を向けていた。
彼はもう一度目尻を下げるようにして笑いながら、一度頷く。
「はい。あれが帰ってまいりますと、ここの八頭が一斉に鳴きますので」
そっか、とノアは頷いた。
頷いて、それからマルコに一言お礼を口にしてから、厩を後にした。
日が沈んでから、ノアは意味もなく私室のバルコニーをうろうろと行き来していた。
たまに小さく呻き声をあげたかと思えば短く息を吐き、また不規則に動き回っては立ち止まり、星が散りばめられた夜空を仰いで、といった行動を何度も繰り返している。
原因はただひとつ、明確であった。
昼間に交わした、レティシアとの約束である。
思えば、アルフレッドと会うのは約三週間ぶり…久し振り、なのである。
気になっていた。ずっと、気になっている。それをうっすら自覚はしているものの、好きになってはいけない人、と意識してしまっているせいで、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。どんな言葉をかけて、どう労えばいいのかも、何ひとつとして分からなかった。レティシアに聞くという手段を思いついた時には既に遅く、彼女も仕事のため王宮に戻って行ってしまったのだ。事情を知らない人に一からうまく説明できる自信もなく、羞恥心もあり誰にも助言を求めることができずにいた。
仮眠をとる時にも、部屋へ仕事を持ち込んでいたと言っていたのだから、もしかしたら離宮に帰って来ても寝室には足を運ばずまた仕事に取りかかってしまうかもしれない。
その時、バルコニーの塀に手を添えていたノアの耳にまで、あの馬たちの鳴く声が聞こえた。
主人の馬が帰ってきた時に一斉に鳴くと話したマルコの言葉を思い出し、ノアは身体を硬くさせる。
(───どうしよう)
夜の匂いが混ざり始めた風が、ノアの頬を撫でる。
穏やかな風に、癖付いた亜麻色の髪が揺れ、額の宝石を秘めるように覆ったリボンの先が絡みついた。
引き受けたはいいものの、何をすれば良いのか分からない。ただ出迎えたところで、アルフレッドが休むだろうか。そんなはずはない。離宮に本当に帰って来たのだ。
ノアはどうすれば良いのかわからないままだった。レティシアに頼まれてくれる?と言われて頷いてから、厩や庭園に足を運んだものの何も答えは得られなかった。得られないまま、ここまで来てしまった。
ノアが塀を掴む自分の手を所在なさげに見つめていたところで、バルコニーとの間を隔てる扉が開かれた。外と比べると暖かく感じる中の空気が流れてくる。
一向に、部屋の中へ戻らずに外でうろうろとしているノアへ、室内から声がかけられた。
「ノア様、そろそろ夜風も冷たくなってきます。湯冷めしてしまいますので、部屋へお戻りになって…」
「で、出迎え」
「はい?」
あまりにも小さな声、それも不明瞭な声で呟いたため、侍女に聞き返されてしまう。
意を決して、自分自身を奮い立たせるためにも、ノアはこの後の使命を言葉にした。
「あ、…アルフ、の…出迎え…しないと、いけなくて」
言葉にするのは簡単だというのに。果たして実行に移すことができるのかと、自分に半信半疑になりながら小さく言葉を口にした。
ノアの答えを聞いた瞬間に、侍女たちの纏う雰囲気が一変するのが分かった。そう、ノアにも分かるほど嬉しそうな雰囲気に。
「まあ」
「それは…きっとお喜びになりますわ」
「お部屋に殿下がお好きな香りを焚いておかないと…」
「そんな大袈裟なことじゃないから!変なのじゃ、ないから!」
帰りを待つというだけでこんなにも喜ばれるとは思ってもいなくて、ノアは狼狽る。彼女たちは、主人の帰還、そして幼い番がようやく色気付き始めたと一斉に表情を変えては足りない時間を悔い始めた。
「早く言ってくだされば、入浴もお手伝いしましたのに」
「違うの!頼まれただけだから、だから、別に…っ」
隅々まで綺麗にします、いつも以上に艶々な肌にいたします、と口々に言われる。
普段お世話してもらうことすら、未だに恥ずかしいし遠慮してしまうというのに、入浴まで侍女の手が入ってしまうとなれば、恥ずかしくてもうノアは誰とも顔を合わせられない。
「さあ。向かいましょう、殿下をお待たせしてはいけません」
「自分で歩くから大丈夫!」
両脇を固められそうになり、ノアは慌てて一歩踏み出し、ひとりで大広間まで向かうことを告げる。アルフレッドとの対面を他者に見られるのは恥ずかしかった。
彼女たちが後をついて来ていないことを、何度も背後を振り返っては念入りに確認し、ノアは早足で歩き出す。この時間に廊下を出歩いている幼い姿が珍しく、兵たちの視線も集まっているが、ノアは周囲を気にすることができるほど心に余裕はなかった。
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