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6章 悪魔の皇子
6章 悪魔の皇子
いつものように、ノアは庭師と共に庭園の草花を愛でていた。
鮮やかな色は訪れる人を楽しませてくれる。故郷で触れていた名もなき草花のみならず、著名な栽培者が手をかけた花がここでは数多く揃えられているため、ノアが初めて目にするものも多かった。
一際存在感を放つ青い花弁にそっと手を伸ばしてみたものの、ノアは触れなかった。
赤色や桃色の薔薇を見ることが多かったノアにとって、色の段が連なった青い薔薇は意識しなくても目を惹かれる。風はもう春の盛りを過ぎていた。頬を撫で、髪を揺らしながら通り過ぎていく。
アルフレッドと顔を合わせると、自然と身体を重ねるのが流れになっていた。
羞恥心は未だ抜けきらないが、それを苦だと思うことはなくなった。
恥ずかしくて衝動的に拒むことはあるものの、最初のように嫌だ、やめてと言葉を繰り返すことはしなくなり、触れられると行為に夢中になってしまう。
抱く時は優しく触れてくれるし、愛情を言葉にもしてくれる。抱きしめられてその体温を感じ、艶っぽく囁かれて触れられるだけで心地良く感じた。
それは自分がオメガで、彼がアルファだからということもあるのだろうが、ただそれだけの理由だと思うのは寂しかった。
熱を分け合うのが好きな男だからこそ、気持ち良くなるのだと考えていた。
そうでなくては、少し悲しい。
何を好きになったのかと聞かれると、具体的な答えは言葉にできない。ただ、初めて会った時からノアの心を占領していた。理由なんて、分からなかった。
ふと、物思いにふけっていたノアは、ほんの少しアルフレッドの気配を感じて立ち上がった。
アルフレッドの雰囲気は、よくわかった。それが元々生まれ持った皇子としての纏うものなのか、アルファという性ゆえなのかは、ノアに判断するのは難しい。
「アルフ……?」
しかし、人が近くにいるのは確かだが、立っていたのは違う人物だった。
初めて見る姿にノアは驚いて瞳を大きくさせ、中途半端に口を開いたまま呆然と見つめてしまう。そんなノアの反応を訝しむこともなく、目の前の人物は優しく微笑みかけてきた。
「おや。すまないね、君の皇子様ではないよ」
輝く長い銀髪は風に揺らめき、穏やかな笑みが向けられて、訳も分からず意識を持っていかれる。
グラデーションのように、毛先ほど虹色に染まっている髪にばかり目がいくが、ゆったりとした白を基調としたローブも特徴的だった。村でも、この辺りでも見たことのない恰好である。しかし、初めて会った人を、それも人違いしてしまったことにすぐ気がつき、ノアは慌てて謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。間違えてしまって」
「構わないよ」
片手をそっとあげて、謝るノアをその人は制した。
そのままゆっくりと歩み寄り、ノアが見つめていた青い花弁を指先で撫でた。指先は白く美しかった。少し、アルフレッドに似ていた。そんな風に直接触ったら傷んでしまうと思うものの、初めて会う人に苦言を呈することができる勇気はなかった。
「この薔薇を見ていたのかい?」
「あ、はい…色が珍しくて、綺麗で」
「お目が高いね。これは特別だ。何せ、ここの皇子のためにと青い花弁が作られたんだ」
「皇子…?」
「君の瞳によく似ているだろう?長年空白だった場所に、アルフレッド皇子の番をイメージした花を植えたのさ」
淡々と語る内容はうまく耳に入らず、理解することはできなかった。
神秘的な雰囲気さえも感じさせる人物は、悪戯そうに小さく笑い、独り言のように言葉を続ける。
「まあ、僕が触れたから育つのが早かったのだけれど」
何も分からず、ノアは薔薇よりもその男に気を取られてしまう。先ほどまで、あんなに薔薇を見つめていたのに。いつの間にか、目の前の存在に意識を向けさせられていた。そのことに、ノアは気づけなかった。
「だからアルフレッドは何度もこの花の様子を見に来たのさ。ノア、君の瞳を元にした花だから」
「え…僕?」
自分の瞳をイメージしたものだったなんて、知らなかった。何度もこの庭園には出入りしているというのに、誰も教えてくれなかった。そんな花に夢中になっていたのは、少しばかり恥ずかしい。
少しして、ノアは言葉の中の違和感に気づき、小首を傾げながら恐る恐る目の前の男に尋ねた。気づくまで時間差があった。
「あの、どうして…?」
「何だい?」
「名前…僕の名前を知っているのは、どうして?」
男は、確かに今の話の中でノアの名前を出した。
しかし、彼とは初対面であり自分の名前を知っているはずがないのだ。
アルフレッドの知り合いという理由だけでは片付けられない、何しろこの庭園はノア専用のものではないのだ。離宮にいる者であれば誰でも出入りはできる。この男はまるで、最初からノアの名前も顔も知っていて、ここで過ごしていることすら知った上で近づいてきたような様子だった。困惑するノアの様子を特段気にかけることもなく、男は瞳をほんの少し細めただけで慌てた様子を見せない。彼がやましいことをしているような印象は受けなかった。
「ああ…こうして会うのは、初めてだね」
ノアの額に巻かれ、頭の後ろから風になびく白色のリボンを指先で撫でながら男は言葉を続ける。
風は男の長い銀髪を拐い、ローブの裾を揺らす。ノアの視界には、色鮮やかな花の欠片がひとつふたつと舞っているのが見えた。庭園で育てられている花が散っているわけではなかった。不思議な男の周りを、花びらがふわりふわりと舞っているのだ。
「君のことはよく知っているよ。君も、僕を知っているだろう?」
「知って…?」
「こんな子は初めてだな。彼が何かをしたかと思ったが、違うのか」
男が一歩足を踏み出して、ノアとの距離を縮める。
それを不審に思うことも、恐怖を抱くこともないままに、理解の届かない言葉を懸命に考えた。男の気配をすぐ傍で感じて、ノアはより一層混乱していた。
彼の纏う雰囲気は、やはり間違いようもなくあの人と同じものである。判断基準なんてない、でも、一緒だった。
「澄んでいて、下等の魔は近寄れないのか…」
「ぁ……」
断片が、脳内を巡る。
夢か現か、判断すらできなかったあの時の光景が唐突に頭の中を過ぎ去っていった。
額に手を当てて、視線を彷徨わせながらどうにか失われかけていた記憶の破片を手繰り寄せる。もう少しで、掴めそうだった。
「虹……花、の…」
春風が吹く、一面の花畑の中。故郷のような場所を目にした後、不思議な人物と邂逅した。
「あの、夢の…夢、じゃ……ない?」
「さあ……どうだっただろうか」
男はまた小さく笑んだ。絶えず微笑を浮かべる男の正体を掴めぬまま、ノアは揺れる瞳を男のものと合わせる。
真正面から見つめ合うことになった男は、ノアの目尻を親指の腹でなぞり、感慨深そうに目を眇めた。近づくほどに感じる。この男の纏うものが、確かにあの人と同じなのだということを。
「美しいね」
「どうして…」
「なんだい」
紅の瞳は少しだけ怖かった。まるで人ではないような色だった。
それに怯む余裕もなく、ノアはずっと感じていた違和感をどうにか言葉にしようとする。
「アルフと、同じ……」
「ふむ。魔力を感じ取れるのか、それは珍しい…君は魔術を扱えないというのに」
「魔力?」
「魔術師は皆、互いの魔力を感じ取ることができるのさ。魔力は人によって異なる。同じにはならない…君の言っていることは正しい、ノア。しかし、君は魔術師でもないのに、アルフレッドの魔力をよく覚えている」
魔術師という単語は初耳ではなかった。
意味を完全に理解できるほど教わったことはないものの、あの時、村で襲われた自分を助けてくれたアルフレッドを見た者が「魔術師」だと称したのだ。そんなことを今思い出して、果たして意味などあるのか分からないが。
「不思議なことだ…いや、これも必然だった。そうだね、特別に教えてあげよう」
指先で顎をすくわれ、そのまま顔を寄せられる。
言動の意味が理解できず、またそれを教えてくれる人もおらず、心許ないノアは不安を表すように上目に目の前の男を見つめた。
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