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6章(2)
「───フルール。ここで何をしている」
慣れた声が響いて、その場の空気は一変した。
罪を咎めるような厳しい声色が耳に入り、ノアはほんの少しだけ肩を揺らして大きく瞬きを繰り返した。
夢から覚めたような感覚にも似ていた。
周りの音が、空気が、動き始めた。呼吸ができるようになって、ようやく息を止めていたことに気が付いた。すぐに顎にかけられていた男の指が離され、その先を目で追うと変わらぬ微笑みがある。悪戯を指摘された少年のように無邪気に笑い、降参と言わんばかりに両手を顔の横にまで上げていった。
「ああ、時間切れだ。彼が来てしまった」
「え?」
訳が分からないまま言葉を続けられ、ノアは彼の視線の先へと自らのそれを移す。
「あ…アルフ」
「ノア」
いつの間にか近くまで来ていたアルフレッドに腕を掴まれ、そのまま彼の方へと引き寄せられてたたらを踏んでしまう。バランスを崩したノアを予想していたかのように、彼は随分と頼りのない子どもの腰を抱いてしっかりと支えた。
「アルフ?」
見上げると、あまり機嫌が良いとは言い難い表情をしている。
「お前は警戒感を持て、ノア。今までは良くても、アルドヘイムで初対面の奴に気を許すなど…自分の身を危険に晒すも同然だ」
「ここの人だと思って。それに、この前」
「君が連れてきた子が気になってしまって。少し、夢の世界からお邪魔したのさ」
不思議な男性がアルフレッドとノアの会話に口を挟むと、途端にアルフレッドは眉根を寄せ、不愉快そうな感情を露わにした。常に愛想を振りまく性格ではないものの、誰かに対して不快感を顔に出す人でもないと思っていたため、アルフレッドの様子にノアは驚いた。
初めて、見る顔だったかもしれない。
「夢魔が。余計なことをするな」
「おや。君が怒るなんて珍しい」
不機嫌なアルフレッドに恐れをなすこともなく、男は変わらぬ調子で口を挟んだ。
「自分が気に入った子に、手を出されるのが不満かい?」
「誰だってそうだろう」
「人間は皆そういうものだからね。おかしなことではないさ」
風の波が男の銀髪を揺らす。穏やかな微笑を絶やさぬまま、彼はアルフレッドと言葉を交わしていた。
まるで他人事のような物言いにも、アルフレッドは何か言うことはない。ノアは二人のやりとりを見ていることしかできなかった。腰を抱くアルフレッドの手の温度が、熱かった。
「大切なものなら、誰の目も届かない宝箱にしまっておいた方が良い。しっかり鍵をかけてね」
「魔性のお前が考えそうなことだ」
「君も同類さ。だからわざわざ、離宮に閉じ込めているんだろう?」
「それは保護目的だ。趣味の悪い監禁ではない。俺の目の届く範囲内なら、下手な人間は手を出せない」
「立派な理由だ。君がそうだと言うのなら、僕は納得しよう」
アルフレッドの言葉を否定することもなく、彼はノアへと向き直った。男が胸元に手を当て、恭しく一礼をした。形をなぞっているように、見えた。まるで誰かの真似をしているような、そんな感じだった。
「改めて、私の名前はフルール。アルフレッドの協力者だが…そうだな、彼の優秀な部下のように仕えているわけではないから、何か粗相をしても多めに見てくれないかな」
アルフレッドの関係者であると明言したフルールだが、いまいちその関係性を把握しきれずノアは小首を傾げる。
アルフレッドが所有する離宮内に出入りを許されている身なのだから、近しい関係ではあるのだろう。
しかし、敵意を持っているわけではなさそうだが、アレンやレティシアのように、決してアルフレッドに忠誠を誓っているわけでもないようだ。不思議な関係性を理解できるほど、ノアは成熟していなかった。
でも、悪意や敵意がないことは、何となく感じ取ることができた。
「アルフレッドの愛妾である君は、気軽に呼んでほしい」
「番だ。ノアをくだらん関係に当てはめるな」
「これは驚いた。君がとうとう番を定めようとは。この子が後宮の幼い主人となるのか」
「そんなものは不要だ。複数のオメガも女も抱える気はない」
「しかし、正式に契りを交わしていないだろう?」
「いずれ結ぶことになる」
フルールの口の端が上がった。
「無事その日が来ることを、楽しみにしているよ」
余計なことばかりを、とアルフレッドの呆れたような声がすぐ隣から聞こえた。
「また見にこよう。では、ね。ノア」
視線を流してノアを見た彼の言葉に、考えるより先に頷いていた。
彼はまた微笑んでくるりと背を向け歩き出した。
後ろ姿をじっと見つめる。ゆっくりとした足取りは何も変わらず、長い毛先は虹色に煌めき、光の結晶を纏いながら歩みを進めていた。彼が歩いた跡には春風が舞い、小さな花の欠片がその足跡を消していくようだった。
背中が小さくなるまで見送ってからも、しばらくの間ノアは意識を奪われていた。
頭の上に手のひらを乗せられてからやっと意識が覚醒したかのように、隣に立つアルフレッドを見上げ口を開く。
「あの人は、アルフの…」
「フルールは宮廷魔術師だ。肩書きとしては、俺に仕える専属の魔術師となっている」
「アルフも、魔術師って」
「ああ。魔術は全員に扱えるものではない。後天的に魔術を扱う能力を得た人間のことを言う」
正しく把握することは、今のノアにはできない。でも、レティシアやシエル、アレンも魔術は使えないと話しているのを聞いたことがある。
額の宝石を秘めたリボンが風に揺れる。
フルールのように、その先端にアルフレッドが指を絡めて弄んだ。その指先は、青い薔薇に触れたフルールとよく似ていた。周囲が同じ顔だと言うアルフレッドとウィルフレッドよりも、容姿の全く似ていないアルフレッドとフルールの方が、どうしてかよく似ているようにノアには思えた。
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