40 / 71
6章(3)
「何か、用事?」
頼りない声で反応すれば、アルフレッドが小さく笑むのが分かった。
日の高い時間からアルフレッドが離宮にいるのは非常に珍しかった。ノアが離宮の中を動き回るようになってからは、初めてかもしれない。
「話がある」
「何かあったの?」
不安げに小首を傾げ、真剣な顔をしたアルフレッドを見上げる。いつものような礼服を身に纏っていた。話したいと言っておきながら、まるで寝かしつけるように優しく頭を撫でられて、ノアは思わず黙ってしまった。
「勅が下った」
「ちょく…?」
「ああ。日取りまで書かれた、正式な勅書だ」
「ちょくしょ?」
アルフレッドは、言葉の意味を理解できていないノアを揶揄うことはしなかった。
それどころか、ほんの少し目元を緩めた。先ほどまではつまらなそうに、若干不快そうな顔をしていたのに、今は少し楽しそうだ。
「アルドヘイムの王位継承権を持つ王族は、番を見つけたら皇帝陛下へ謁見しなければならない…『双璧の儀 』と呼ぶ。今回は叙勲の後、その場で執り行うと決められている。お前も、陛下に会わねばならん」
「どうしてそんなことを?」
「お前は、俺にとって大切な番だ。だから陛下に会わせる」
アルフレッドが少しだけ笑む。
「…まあ、ただの興味だ。連れて来られた番がどんなものか、知りたいだけだ」
王家の重々しい儀式の一つを、アルフレッドは軽い言葉で片付けた。それがノアを気遣ってのことだとまでは気づけなかった。
「それだけ?」
「そうとも。王族は皆、暇を持て余しているからな」
「アルフは忙しそうにしているのに…」
「俺は例外だからな」
アルフレッドが短く笑い、そのまま説明を続ける。
「双璧の儀を完遂すれば、お前は正式に俺の番として認められる」
「番って…」
そこで、ノアはぽつりと言葉を挟んだ。
離宮に来て、目を覚ましてすぐにレティシアに教えられた話を思い起こしながら、言葉を整理しないまま話した。
「項を噛まないと、成立しないって」
ノアの頭を撫でていたアルフレッドの手がほんの一寸の間だけ動きを止めた。自分の言葉を聞くために動きを止めたのかもしれない、とノアは考えた。
「それは、また別の話だ」
「別?」
止まった手はもう動いていた。ノアの頭から、純白のリボンへと。
「双璧の儀は、陛下の前に立って、お前の名前が残る。それで国はお前を俺の番として扱い、誰も項を検めには来ない」
「じゃあ、噛まなくても番になれるの」
「この国の制度の話ではな」
アルフレッドの声に色も温度も乗っていない。手続きと書面の話を卓上に広げているような話し方だった。
平らな声が紡ぐ言葉を一度切ってから、更に話を続ける。
「お前の言う身体の方には順序がある」
「順序って?」
知識として頭には入っていたはずなのに、ノアの中では順序が繋がらなかった。
断片同士が別々の場所に置かれていて、それを繋ぎ合わせる術を持っていない。そんなノアを見越しているのか、アルフレッドは小さく笑った。
「そう慌てるな。噛まれたいのか」
「そ、そんなこと言ってないっ」
ノアの声は微かに裏返った。一気に頬が赤くなり、耳の裏が熱くなる。耳だけではなかった、自覚した途端に身体中が熱を持ったかのように体温が上がっていく。
リボンに絡んでいたアルフレッドの指が、ノアの何もない項へと移る。人差し指で本当に軽くだけなぞる動きをしてきて、大した刺激でもないのに、ノアの肌はそれだけで小さく跳ねた。
「残念ながら、項を噛んで番が成立するのは発情期中の話だ。今ではない」
赤面するノアに、更に追い打ちをかけるようにアルフレッドが言ったせいで、ノアは視線を逸らすことしかできなかった。
「発情期は初発がいつ来るか誰にもわからん。だから、お前は離宮の中で暮らすのが最も安全だ」
ノアはアルフレッドと目を合わせられないまま、自分の身体の前で両手の指先を意味もなく絡めた。
今ではない、ということはいつかがある、ということだった。
それが、以前にもレティシアから聞かされた、発情期中に項を噛まれることなのだということが、ようやく繋がった気がした。
アルフレッドの指が這わされた項には、骨の出っ張りがあるだけで、傷も痕も何もない。ただ白い肌があるだけである。当然のことだ。
「王宮は特に危険が多い」
「王宮なのに、危険なの?」
「王宮だからこそ、な」
ノアが理由もなく指先を彷徨わせれば、項を離れたアルフレッドの小指がそっと絡められる。それだけで胸の中の何かが跳ねた。小指から伝わる体温に浮つく心を自覚しながら、ノアは結ばれた指を見つめていた。
「俺以外と、離宮内苑の外に出てはいけない」
「……うん」
「お前の外出を許可するのは俺だけだ、他の人間の言葉は信じるな。…いいな?」
頷くよりも前に、ノアは瞳を大きくさせてアルフレッドを見上げた。
「アルフと一緒なら、外に出られるの?」
「いずれ。当分は我慢するんだ」
アルフレッドと離宮の外に出るなど、想像もしていなかった。微かに見えた希望に、事情も省みず期待してしまう。しかし、簡単に外へ行けるはずはなく、すぐアルフレッドに制された。でも、良かった。いつか外に出られるのだ。
「ん……っ」
項をくすぐられ、肩を竦ませる。こめかみにキスをされてすぐに、その瞳と目を合わせれば、笑みがあった。そうして少し落ち着いた頭で、アルフレッドを近くに感じながらやはり、と思うのだ。
「あの人…アルフと、同じ…雰囲気だった」
「───…」
アルフレッドが僅かに顔を俯けた。
睫毛が陰を作り、紅柘榴石のような瞳がほんの少しだけ暗くなる。
「……半分は、そうだろうな」
視線が合うことはなく、それ以上の詳細を彼は語らなかった。
アルフレッドの言葉を、ノアが理解することはできなかった。でも、それでも良いと思った。決して、自分から物事を積極的に話す性格ではないことは感じ取っていたものの、拒むようなこともなかった。
それ以上深入りしようとも思わないノアは、黙ったままフルールが立ち去った跡をもう一度見た。
アルフレッドに手を絡められ、引かれる。差のある歩幅に付いて行きながら、庭園の道を歩き出した。
その後ろでは、青い薔薇が風に揺られていた。
ともだちにシェアしよう!

