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6章(5)
「アルフレッド殿下。シエル様がいらっしゃいました」
二人の侍女が声をかけると同時に、珍しく軍礼服を乱すことなく着こなしたシエルが現れた。だが、肩幅が大きいからだいぶ窮屈そうにしている。
アルフレッドは腕を組んだまま、姿勢を少しも変えることすらせずにシエルが歩み寄って来るのに耳だけを傾けていた。
「東部山間部で妙な動きがあるって、斥候から上がってきてます。カエクースから昔分かれた連中だとか」
「前から話は出ていたな」
「はい。あと、ウィルフレッド殿下は今夜には間に合わないとのことで、王宮にも伝令が入りました」
腕を組むアルフレッドの指が、僅かに自分の腕を叩いたのに違和感を感じた者はひとりもいなかった。
「少将は夜には合流します」
「そうか」
アルフレッドの淡々とした返事を聞きながら、シエルは報告を続けていく。これが通常のやり取りの温度であるため、特段気に留めるものは何もない。シエルから上がる報告内容は全てこの主君の想定内のものであり、何か聞き返された方が焦るというものだ。
「それから、警守総監 の件…これ、今日中に目を通せと回ってきている分です」
双璧の儀などの盛典の際、式典期間中の王宮警備を統括する臨時職として『警守総監』が王族の中から任命される。守衛配置の統括や経路封鎖、登城管制など、式典域の秩序を維持する役割を持つ。
皇帝陛下が、双璧の儀で番を宣言する皇子に、その儀式の警護責任者を任せる。これをどう捉えるかは人それぞれだ。
アルフレッドがノアに双璧の儀の勅書について話したあの日、儀典の評定で自分に警守総監が決定したと正式通達された。そのため、ここ数日でアルフレッドのもとに来る決裁書類は普段よりも量が何割も増していた。
アルフレッドは組んでいた腕を解いてその紙の束を受け取った。
窓から差し込む昼の日差しに明るくなった文章を目で追いながら、一枚ずつ繰っていく。
門の閉鎖時刻、厨房への搬入経路、祭壇周りの立ち位置、守衛の交代表……読む速さはどの頁でも、どの文字が流れていても変わらなかった。
しかし、ある一枚のところで紙を捲る指が止まった。
形の良い、傷一つない美しい指が日の光を受けて白く輝いている。
彼の動きが止まった紙に記されているのは、南西区画の配置変更である。発令の日付は三日前。南西区画の監督の印はあるが、副署の欄は白いままである。
シエルは、その動きが止まった書類に心当たりがあった。
「……差し戻しますか」
アルフレッドが持つ書類を覗き込みながら、シエルは念のため尋ねた。
書式の不備としてはごく小さいものである。しかし、そのごく小さいものを、この御仁が見逃すことも、訂正しないこともない。自分のもとにまで回ってきた不備は、悉く正していく人である。
今夜アルフレッドが担う警守総監の下には『区画監督 』が置かれる。
南・西・北など区画ごとの警備を分担するのだ。それぞれの区画内の配置変更は区画監督の職掌だが、発令には警守総監の副署を要するのが通常の運用である。それが、この一枚の書類には副署欄が空白となっている。
シエルの確認する言葉に対して、アルフレッドはただ一度瞬きをしただけで、頷かなかった。
「───放っておけ」
アルフレッドは紙を束の中へ戻し、順序を揃えてから傍らにある卓へと束を置いた。
シエルは、彼が手に持った一枚を全て読んでいなくても、その頭の中にある疑惑は正確に理解していた。しかし、放っておけと言われた以上は続けるつもりはなく、話題を大きく変えた。
「今夜の配置」
アルフレッドの黒い礼服の左胸にある継承者章を何となくで見ながら、シエルが言葉を続ける。
「中佐がドレスで参加するみたいで」
「ああ…案外遊び好きな性格をしている。たまには良いだろう」
「俺は軍服のまま…護衛って丸分かりすぎて、誰からもきっと断られる…はあ」
「お前はそれで良い。腹上死されたら困る」
「俺は美人な子と遊びたいんですよ、最近任務続きだったんで」
そこで思い出した、と言うのに手をポンと叩いたシエルが、懐から封筒を取り出した。
アルフレッドはそんな彼の不敬な行動を咎めることはしない。通常であれば、王族の前で突然話を切ってどこかへ行こうとする軍人などいないものだが、この二人は通常の枠の中にはいなかった。
「そうだノア。お手紙届いてたぞっと」
自分たちの話を、律儀に極力耳に入れないようにしていた少年のすぐそばまで歩み寄れば、今気づきましたと言わんばかりにシエルへと視線を上げるノアの姿が鏡越しに映る。
本当の機密事項はこんな場所では口にしないことはノアも分かっているだろうに、この真面目な子どもはアルフレッドや自分が会話している内容をなるべく耳に入れないよう努めているのだ。別に聞いても大丈夫だぞ、と何度か言ったものの、やはり何か気が引けるのか、この癖はまだ残ったままである。
「本当?」
既に開封されている手紙を丁寧に手渡してやれば、ノアは途端に目尻を緩めた可愛らしい笑顔を見せてくれた。
ありがとう、と手紙を受け取りながらシエルに感謝の言葉を述べるノアの頭を撫でてやると、隣に立っていた侍女の一人から険しい言葉が飛んでくる。
「シエル様…」
髪型、というよりは、ノアの額に巻かれたリボンを覆う被り物の装飾や意匠──随分と手が込んだ結び方をしているようだ──を崩してしまったシエルの手を叱責しているようだ。バツが悪そうに後頭部を掻きながら、シエルは明後日の方向を見て軽く謝る。
「ああ、悪い悪い、ついやっちまった」
「皆さますぐお触りになるから…少しは自制してくださいませ」
暇さえあればノアにちょっかい出す男が、今は大人しく自分の定位置に収まっているのを見て、さては既にやらかしたことがあるなとシエルは勘づいた。
「しかし、まあ、器用だねぇ」
ノアの衣装は素材など洗練されたものではあるが、本人が嫌がるだろうと前もって予測していたアルフレッドによって、装飾や色は過度なものではない。上質なものだと一目見てわかるものの、決してその存在感をひけらかすようなデザインのものではなかった。
だが使用人からすると、少し不思議だった。
直接アルフレッドに言うことはないものの、指示を受けた時に一瞬だけ視線が止まった。双璧の儀に参加するにしては、簡素な衣装だった。宴であれば納得がいくものだが、国儀である双璧の儀でアルフレッドの隣に立つには、違和感の残るものだった。
しかし、それを直接口にすることはない。
彼女たちは、主人に言われたことを忠実に守るのだ。そんな侍女の手で準備を進められているノアは、綻ぶように笑った。シエルはすぐ目の前から、アルフレッドはその顔を少し離れた位置からそれを見た。
この表情をする子どもは、なかなかいない。
アルフレッドは意図せずその顔を見ていた。それから、音もなく部屋の外へ向かうその背中を、シエルだけが視界の端で捉えていた。
「お母さんみたい。ここまで綺麗にはできなかったけど、よくお祭り用の服とか髪飾りとか作ってくれたの思い出すんだ」
「お前の母ちゃんも凄いな。俺んとこなんて、手作りで何か貰った記憶ねぇな」
「そうやって、色んなものを売りに隣の街とか、その先まで行ってたから…凄く評判良かったみたい」
「良い母ちゃんだな」
「うん」
ほんの少し照れくさそうに、頬を赤くさせながらも確かに頷いた子どもが可愛らしく、シエルは再び過ちを犯した。
「シエル様!」
「はーい!すみませんでした!」
ノアの頭をついつい撫でてしまった手をすぐに引っ込め、慌ててその場から離れようとした。
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