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6章(8)

豪奢なシャンデリアが放つ光の下、芳醇な葡萄酒と香水の香りが混じり合う会場では、扇を揺らす貴婦人や、グラスを片手にした貴族たちが、談笑の時間を楽しんでいた。 だが、今宵は僅かに様相が違っている。 集中を欠いた幼子のように、途中途中でそれぞれがその視線を移しているのだ。 目の前で話す相手の視線が逸れても、それを指摘する者はいない。指摘すれば、自分の視線の無駄な動きも説明しなければならなくなる。 獲物を探す鷹のような鋭さも持たせながら、表面上は煌びやかに言葉を交わし続ける。それが社交の場の縮図でもある。 彼らの関心は、この夜の主役である王族──とりわけ、勲章授与式の主役である第七皇子アルフレッドに向けられていた。 「───ご覧になりました?先ほどのアルフレッド殿下を」 その声が始まったのは、会場入口近くの卓だった。 「ええ。相変わらず、人を寄せ付けぬ峻烈な美しさでしたわ。今回の勲章授与もアルフレッド殿下だそうで」 「ねえ……耳にされた?最近、あの方が離宮にとうとうオメガを連れて来たという噂を」 低く抑えられた声が、耳打ちと共に広がる。 「村で見つけたとか……」 「まさか。あのアルフレッド殿下が?信じられませんわ」 抑えたはずの声がほんの僅かに外される。会話をしている本人たちにはその自覚はなかった。 「でも、レティシア中佐も王宮ではなく離宮に滞在する日が増えたそうよ。彼女が動くということは、理由があるのではなくて?」 「本当に宝石を持っているのか?ついにアルフレッド殿下が動くのか」 「勅書に日取りまで入っておりましたよ。叙勲の後、そのまま双璧の儀を執り行うと…あの儀が成功すれば、第七皇子派の権力は不動の物になりますな」 「では今宵、その番とやらが初めて衆目に出るということですね」 そう言った婦人の唇の端は笑っていた。扇の下で囁きが一段低くなり、声の温度も下がっていく。 「それに、今宵の警守総監はアルフレッド殿下がお執りだそうで」 「国儀の総監に、当代最高の武勲をお持ちのお方を評定でお決めになったということか。実に正しい人選だ…ご自身の番をお迎えになる儀ですからな」 「では、この王宮の門も廊下も、今夜はすべてあの方の掌の上か」 「番の警護も、厳重になさっているのでしょうね」 扇に隠された唇が愉悦に歪み、その視線が、まだ誰もいない扉へと向けられた。 彼らにとって、第七皇子が連れてきた少年の存在は、一人の人間ではなく権力という盤上の新しい駒に過ぎなかった。 その悪意と好奇に満ちた視線が見えない刃となって、今はまだ静かな会場を満たそうとしていた。 ───アルフレッドが大広間に足を踏み入れた瞬間、場の温度が変わった。 扇が止まり、グラスを傾けかけた指が宙で不自然に止まり、談笑の声が少しだけ遠ざかる。 誰もが第七皇子の姿を視界の端に捉え、捉えたことを周囲に、そして本人に悟られまいと、不自然なほど自然に視線を逸らした。 アルフレッドはその変化を、表情の一片にも乗せなかった。 場の空気が変わるのはいつも通りのことであり、アルフレッドにとっては、定まった順序に沿って会場の中にいる人々が動きを見せているに過ぎなかった。自分が姿を見せるだけで勝手に場が整っていく。それ以上何か手を加える必要が今この場にはなかった。 フェロモンを纏うことも、威圧することもしない。フェロモンに頼らずとも、人と場を制御し得る。 公の場でフェロモンを漏らすアルファはたかが知れるというのが、この王宮そして軍の中での格式そのものだった。 アルフレッドはいつものように、捌くべき順序を組み立てるために会場を見渡した。 どの王族の派閥がどこに分布していて、何人でいるのか。派閥同士で何を見ているのか。誰から声をかけ、誰を後回しにし、誰を最後まで放置するか。 均等に扱うことが最も効率の良い制御だと、十代の頃から社交の場に出ている身体は自然と動く。会場内を広く見渡す数秒の動きの中で、まず壁際の一点を見つけた。 長い赤毛を肩に落としたまま微動だにしない女──第四皇女ヴィレリアの立ち姿。 そして、その後の自分の動きは舌打ちをしたくなるものだった。拾うつもりのなかったもう一点へ、視線が自分の意思よりも先に流れていたのだ。 白地に青を纏った、金の髪の男──第二皇子シュヴァルツが、人混みの緩やかな切れ目に立っている。減らないグラスを手に持ちながら、普段と何一つ変わらない姿でそこにいる。 氷の彫像のように静かで、だというのに話している相手には冷たさを感じさせない佇まいだった。数年前からあの異母兄に対して芽生え始めた、答える前に距離を測る癖。アルフレッドはその言葉にしきれないものを誰にも悟らせないまま呑み込んで、壁際へと一歩を踏み出した。 「これはこれは。第七皇子殿下」 棘を含んだ声が滑り込んできて、アルフレッドは足を止めた。背筋は崩れず、足音が乱れることもない。瞬きの仕方さえも意図を持たせながら振り返るその表情まで管理する。このふとした動作の切れ目を、周りは驚くほど見ているのだ。 グラスを持つ位置と角度を調整したうえで、その声の持ち主を見る。形の良い唇に小さな笑みを浮かべる。 そこに立っていたのは、七年前に継承順位をアルフレッドに追い抜かれた第九皇子ジークフリート──その派閥に連なる、若い貴族のひとりだった。 「戦場帰りの砂埃は、この香水の中で見事に消えるものですね」 近くの幾人かが、聞こえなかったふりをして耳を澄ませるのがわかった。少し離れた所にいるアレンがこちらへ来ようとするのを、瞬きの動きだけで制した。 アルフレッドは、先ほど位置を整えた手の中のグラスを、ほんの少しも揺らさなかった。減らないワインの液面が、シャンデリアの光を静かに返している。ゆっくりと瞬きをしてから、口の端だけで応じた。 「ご健勝そうで何よりです」 温度のない完璧な社交辞令だった。 応じるに値しないものへ、応じたという事実の表面だけを返す言葉である。それ以上は与えないという拒絶が、丁寧さの内側に畳まれていた。そしてアルフレッドは、その拒絶を分かる言葉で彼に返した。悟られたくない相手に対しては、拒絶されたと理解できない別の社交辞令で応じる。 それを数秒遅れで理解できたのか、貴族の頬が強張るのをアルフレッドは見ていた。受け流されたことが、かえって癪に障ったらしい。当然だろう、そう思うように返したのだから。こうした手合いの者を残していけば、今日以降の社交の場で更に処理を要する人間が増えていく一方である。切れる者は切る、単純な判断基準だった。 「いやはや、相変わらず手厳しい。しかし殿下、泥にまみれて自ら剣を振るうのが、王族の品格に適うかどうか、」 「それくらいにしたらどうだい?」 凪いだ声が、貴族の言葉を柔らかく、本当に柔らかく遮った。 周囲に立つ人々の声がいくつか途切れては、取り繕うように会話を再開する。 「シュヴァルツ殿下……」 力の抜けたような貴族の声がその名を口にする。そこにいるのは、先ほどアルフレッドが視線だけで位置を確かめたシュヴァルツだった。 いつの間にか、二人の間を取り持つ位置に立っている。穏やかな微笑を口元に湛えたまま、間に入っているというのに貴族を咎める気配は一つもない。 「今宵は、勲章を祝う席だよ」 短くそう事実だけを置いてから、シュヴァルツはアルフレッドへ顔を向けた。 「アルフレッド。国境沿いの魔獣掃討、見事な武勲だった。君の『炎』が、国境を覆っていた魔の影を焼き払ってくれたおかげで、民も安心して眠れる」 兄の微笑が僅かに深まるのをアルフレッドは見ていた。 十歳の頃から見てきた、何一つ変わりのない笑みの浮かべ方である。 「兄として、誇りに思うよ」 兄が弟に向けるにふさわしい言葉だった。 この時、この場で、必要以上の会話は不要である。そう判断したアルフレッドは完璧な角度で頭を傾けた。 「恐れ入ります、シュヴァルツ殿下」 社交の場という状況が二人に課す形式の言葉である。 シュヴァルツが兄として差し出した優しさを、アルフレッドは正しく形式として受け取って返した。その奥で何を測っているかは、表に出さなかった。シュヴァルツは穏やかに目を細めながらひとつ頷いてからは、この場に長く留まらなかった。 「では、後ほど」 短く一言だけを残して、波を立てず痕跡も残さず、その姿は人混みの中へ静かに溶け込んでいく。 第九皇子派の貴族は、毒気を抜かれた顔のままに別の方向へ流れていた。 第二皇子の姿が人の間に消えていく方向を、少し後ろから一人の男が追うのが見えた。 すぐ後ろにつくような素早い動き出しではなく、主君との距離が四、五歩ほど開いたところで歩き出す位置の取り方だった。騎士の中では恐らく多くは見られないやり方ではある。 アルフレッドの位置を確認してから、アレンはその男のもとへ一度歩み寄って行った。 背丈も肩幅も、顔の造形や仕草も全て整っているというのに、恐らく目を離せば何故か忘れてしまう。そういう類の男だった。しかし、立ち姿はやはりこの大広間の誰とも違っているのだ。アレンが近づいて行けば、その男はすぐ気づいたというのに、急かすこともなくただそこで待っている。 左胸に銀の翼があった。翼の縁を縫う細い線は深い緑色をしている。 王位継承十位以内の王族に一人だけ任命される騎士の証である。翼の縁にある色が騎士によって異なるのは、それぞれの皇子が持つ離宮の名前、すなわち精霊の色を司っているからだ。 「久しいな、カイン殿」 「遠征に出ていたと伺っていたが…旅路は平穏だったか」 「アルフレッド殿下の儀ならば、世界の果てにいても戻らなければならない」 そう言えば、カインは微かに笑う。アレンの胸でも、同じ形の翼が光を跳ね返していた。 金色の縁の線と根元にある赤い石。同じ意匠だが、主君の色をそれぞれが持った二人が向かい合っていた。 「……あなたの主君は、何をお考えか」 今宵この宴の場で自分の主君に近づいた者について確かめるという、騎士の仕事の一つとしてアレンは尋ねた。 それが、アレンがアルフレッドに仕え始めた七年前から抱き続けていたものであっても、表面の形は整えられている。 「私は聞かない」 カインの声は欠片も変わりなかった。大きくなるでも小さくなるでも、波を揺らすでもなく、ただ平坦な声色で答えた。 その言葉ははぐらかしたわけではなく、聞かないという事実がアレンに渡された結果となった。欺くわけでも何でもない。このカインという騎士は、少なくともアレンが言葉を交わし始めた数年前から同じ調子のままである。 「───十五年になる」 しかし、アレンが何かを聞くまでもなく、カインは言葉を付け足すように口にした。 「……最古参だと伺っている」 「入れ替わりが激しいだけだ」 「それでも、あなたほど長く一人の皇子に仕えている騎士はいない」 カインの声に誇る調子は少しもなかった。 ただ、人の流れが自然とそうだった事実を置いているような言葉である。十五年という月日をアレンが口の中で数えようとした時に、カインの視線が一度だけ人混みの中に流れるのがわかった。美しい金の髪が、貴族の輪の縁に立ち、誰に対しても一つも温度を変えないまま言葉を交わし、グラスを傾け、応対する。しかし、見ていたのはほんの数秒だった。 「私がお仕えするようになった十五年前」 アレンはカインの視線の動きを追うように、彼の瞳へと自分の視線も戻した。 「シュヴァルツ殿下は、アルフレッド殿下の元へ足を運ばれるようになった。当時、王宮内ではちょっとした騒ぎになっていた」 「───」 「あの時期の北東棟は、誰も近寄れなかった。しかし…シュヴァルツ殿下は会いに行った」 アレンは何も口を挟まずにそれを聞いていた。 十五年前、アルフレッドは十歳でありシュヴァルツは二十歳…ちょうど、シュヴァルツが王位継承順位を授かった年だ。そしてその頃、当然ながらアレンは王宮の中にはいない。アレンがここに来たのは、今から八年前のことだ。 「それが、私があのお方の騎士を拝命した時だった。───ただ、同じというだけだが」 この目の前にいる騎士は、二十歳で順位を授かったシュヴァルツの初代騎士であり、以来ずっと、十五年間仕え続けているのである。 それ以上をカインの言葉は何も足すことをしなかった。 十歳のアルフレッドのもとへ、何故シュヴァルツが通っていたのか、そこで何を見ているのか、そしてその主君の行動を自分がどう思っているのかも、カインは全て口にはしなかった。 左胸の翼をアレンは無意識に指の先でそっと撫でていた。そして、それぞれの主君が動き出したのを目で追った。 「カイン殿、また」 互いに二人の皇子の位置を拾っていることを見てから、アレンが短い別れの挨拶を口にすれば、先に離れたのはカインだった。歩き出す速度は何も急がず、手間をかけず、あの四歩後ろを位置取るだけのものである。

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