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6章(9)

アルフレッドは視線を会場へ戻していた。 豪奢な装飾と高価な香水に満ちた空気は、吸うのも億劫なほどに淀んでいる。だが、彼の不快感など露ほども知らぬ貴族たちが、当代随一の美貌と武勲を誇る第七皇子との知遇を得ようと、次々に押し寄せてきた。 「アルフレッド殿下…!」 脂ぎった顔に卑屈な笑みを貼り付けた地方貴族の男が、アルフレッドの進路を塞ぐように現れる。 「本日の勲章記念の祝宴、誠におめでとうございます。我が領地で採れた宝石を献上したく……」 男が、自慢の娘らしき若い女性を背後に従えているのを、アルフレッドは視界の端に捉えるだけをした。 彼の中では既にこの宴の中での優先順位は決まっている。順序良く、そして間に入ってくる者がこの先の社交で二度と現れないよう処理していく。 「こちらに控えておりますのが私の娘でして。殿下の武勇伝を耳にするたび、胸を焦がしておりましてな。ぜひ一言だけでも──」 「生憎だが、今は公務の最中だ。献上品については副官を通せ」 アルフレッドは視線すら合わせず、何も色を乗せない声で切り捨てた。 男が言葉を失い硬直する間に、流れるような所作でその脇を通り過ぎる。背後で男の娘が屈辱に顔を赤らめる気配がしたが、アルフレッドにとっては羽虫が羽音を立てた程度の事象でしかなかった。すぐ傍で見ていたアレンもまた、表情ひとつ変えなかった。 「お兄様!」 人混みを割って現れたのは、淡い黄色のドレスに身を包んだ少女──ロベリアだった。現皇帝が多くの妻に産ませた子のひとりであり、アルフレッドとは腹違いの妹にあたる。彼女の性はオメガであり、王位継承権は与えられていない。 「……妹君です」 傍らに控えるアレンが、ぼそりと言った。アルフレッドは言われなくても、というよりは、この空間であの甘く重い香りを隠さない気配がずっと漂っているのだ、姿を見ずともわかった。 しかし、戦いは必要な力で必要な分だけを即座に制圧していくこの騎士は、どうでもいいことについてはわざわざ言ってくるのである。 人の波の中から、小柄な体躯を、身に纏ったドレスを崩さないよう近づいてくる異母妹をアルフレッドは立ち止まって待ってやっていた。継承順位を持たずとも、王族である以上は周りの貴族たちは彼女の邪魔にならないよう動いているのが見える。 彼女の、第七皇子である兄への執心ぶりは王宮の中では既知の事実だった。宴で会う度にこの声が響くからだ。 声には甘ったるい媚びは含まれておらず、側から見れば、兄を慕う純真な皇女が再会に心を躍らせているようにしか見えない、意図的なのか無意識なのかなかなか判別が難しい類のものである。 「お兄様、ご無沙汰しております…ようやくお会いできて嬉しいです。ずっと寂しかったですわ」 ロベリアは愛らしく小首を傾げ、周囲の人間が呼吸を忘れるほどの甘い笑みをアルフレッドに向ける。その献身的な慕いようの裏にある幼い独占欲が年々増していくのを感じていたが、アルフレッドは社交の仮面を剥がすことはしなかった。 彼女は扱いやすい部類だった。何せ、何年も前からこちらの手数を増やさず、そして種類を変えることなく捌けるからだ。 「変わりはなかったか、ロベリア」 「ええ。最近は音楽も嗜むようになりました…。お兄様は音楽の才能もありますから、ぜひ、お兄様と一緒に楽しめたらと思って」 誘うような言葉に、アルフレッドは「そうか、それは楽しみだな」と返すが、その瞳に温度はない。 それを見ているのはアレンだけである。 「今は陛下の命もあって不在にすることが多いのが残念だ」 「また明日から出国してしまうのですか……?」 「数日は滞在するが、離宮に籠らねばならん。仕事が山積みになっているからな」 「わたくしも連れて行ってくだされば良いのに」 甘えるようなロベリアの提案を、アルフレッドは柔和な、だが明確な壁を感じさせる微笑で遮った。 「お前に戦場は似合わないだろう、ロベリア。得意の庭園を作って戦から帰る兵を迎え入れてやれ」 「お兄様がそう仰るなら……」 少女を体よくあしらうその手腕は、もはや芸術的ですらある。アレンは表情を変えず、半歩後ろでそれを見ていた。 アルフレッドという男が積み上げてきた圧倒的な戦績と、神に設計されたかのような美貌。その実績がなければ、今の言葉も空虚な響きにしかならなかっただろう。 ロベリアが更に言葉を重ねようとしたその時、背後から自信に満ちた、だがどこか険のある声が割り込んだ。 「おやおや、アルフレッドじゃないか。先日のパーティーには来なかったというのに…今宵も戦場にいるのだと思っていたぞ」 アレンの視線が、一度だけ声の方向へ動くものの、特に何も思案することはなかった。記憶すべき男ではない、それだけである。 今日は一段と人が多い。叙勲式の後に行われる国儀、そしてその儀に現れる『番』がいつどこから姿を見せるのか、その姿を一目見ようと会場内に人が溢れ返っているのだ。 人数が増えれば、それだけアルフレッドが捌かなければならない人数も増える。アルフレッドが手に持つグラスの中で、減らないワインが僅かに波を立てるものの、完璧な微笑が揺らぐ瞬間はなかった。 「妹君を独占するのもほどほどにしたらどうだ?彼女と踊りたがっている者が、会場に列をなしているぞ」 現れたのは、第一皇子派に近い有力な王族の一人である。現皇帝ではなく、先代の皇帝の直系の生まれだ。 彼は洗練された所作でロベリアへ近づくと、その手に恭しく唇を寄せる。 その視線には、アルフレッドに対する対抗心が驚くほど鮮明に乗せられていた。現皇帝の息子、若くして王位継承順位を持つ皇子、そしてアルファとしての圧倒的な存在感への嫉妬で濁る、考えなくても分かりやすい感情の色だった。この男の処理も、アルフレッドにとっては苦労がないものである。 「ロベリア嬢。剣ばかりを振るう男より、私の方があなたを愉しませる術を心得ていると思いますよ。新しい楽団の調べに乗せて、一曲いかがですか?」 露骨な誘いに、ロベリアの頬が不満げに強張る。彼女の瞳がアルフレッドを見上げたのがわかったが、合わせなかった。 しかし、彼女は一度では自分の意思を曲げない強かさを持つ。 この美しい兄に認められ、その隣を許されることが望みである彼女は、慎ましやかに抗議の口を開いた。 「……申し訳ありません。わたくしはまだ、お兄様とお話ししたいことが──」 拒絶の言葉を紡ごうとしたロベリアの肩に、アルフレッドの長い指がそっと置かれた。それは一見、兄としての慈しみに満ちた接触に見えるものだ。 「ロベリア。せっかくの誘いだ、受けてくるといい。お前のような美しい花を、俺だけの傍で萎れさせるわけにはいかないからな」 アルフレッドは表面上、極めて穏やかな笑みを浮かべていた。その眼差しは優しくさえあるが、一秒たりとも躊躇していない動作でもあった。 「お兄様、ですが…わたくしは」 「後の楽しみにとっておこう。さあ、行ってきなさい」 抗いようのない拒絶を、極上の優しさに包んで差し出され、ロベリアは唇を噛んで俯いた。 この場で否定することは、全ての者の顔を潰すことになり、駄々を捏ねる皇女だと思われてしまう。それは彼女自身の矜持も許さなかった。その何巡かの葛藤の末に、彼女は不満を隠し切ることをできないまま誘ってきた男の手を取った。 同時に、ロベリアの華奢な肩に添えられていたアルフレッドの手が離れたことに彼女は気づいていない。 「……お兄様、失礼いたします。また後ほど、必ずお声をかけますわ」 未練がましく振り返るロベリアを、アルフレッドは感情を出さない微笑で見送った。彼女を連れ去る男がどんな顔で自分を見ていたのかは、直接見なくても想像できる。 ロベリアの背中が人混みに消えた瞬間、アルフレッドが一瞬襟元を正した。乱れているようには見えなかったが、アレンは何も言わなかった。 一息つけるかと思ったその矢先、人混みの向こうから一人の少年が静かに歩み寄ってきた。

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