47 / 71
6章(10)
その姿が目に入った瞬間、周囲の喧騒がふ、と一段階静まったような感覚に包まれる。
純白の礼装に身を包んだ少年は、抜けるような白い肌と、知性を湛えた深い瑠璃色の瞳を持っていた。流れるような銀髪がシャンデリアの光を浴びて淡く輝き、この会場の中で一輪の清らかな睡蓮が咲いているようである。
「アルフレッド殿下。今宵、貴方様とお言葉を交わせる幸運に恵まれましたこと、心より感謝いたします」
少年は完璧な所作で一礼した。
その声は鈴を転がすように澄んでおり、媚びるような甘さが主張することなく凛とした響きを持っている。
「エドガー・エルメリアです」
彼は完璧な礼を捧げた後に顔を上げ、アルフレッドの瞳を真っ直ぐに見つめた。
そこには、王族を前にした萎縮が微塵もない眼差しと唇の笑みがある。周囲の熱気とは一線を画す、冷たく洗練された香りが鼻腔をくすぐった。意図的に纏っていたロベリアと反対に、この少年のオメガのフェロモンは、巧妙に隠されている。
「先日の北域での戦術展開、拝見いたしました。補給路の確保を最優先としたあの盤面……殿下の軍略には、ただの武力だけではない、慈悲深き合理性を感じ入りました」
「……エルメリアの若君か」
その見た目は鋭い爪を潜ませた性分をよく表していた。
純白の礼装は彼のしなやかな肢体を強調するように仕立てられており、透き通るような肌と瑠璃色の瞳は、見る者に保護欲ではなく、独占欲を抱かせる魔性的な美しさを湛えている。
「貴殿の論文はいくつか読んだことがある。魔導回路の効率化に関する考察は、軍務省でも高く評価されている」
アルフレッドの返答には敬意が乗っていた。
相手を知性を持つ人間として見ている返答に、エドガーが僅かに瞳を輝かせるのがわかる。
「光栄です。ですが、殿下…。あの論文はあくまで机上の空論。私の真価は、より実戦的な場にこそございます」
エドガーは扇で自らの薄い唇を隠しながら、アルフレッドのすぐ近くの距離まで踏み込んだ。
「私の知恵は、殿下の軍略をより強固なものにする地図となります。そして、」
彼はアルフレッドの礼服の袖口に、触れるか触れないかの距離で指先を這わせ、計算し尽くされた視線を投げかける。
「この器もまた……殿下を癒し、次代に優秀な血を繋ぐための、これ以上ない潤滑油となるでしょう。殿下なら、投資に対する見返りの大きさは、既にご理解いただけるはずです」
エドガーの言葉には、自らの「知能」と「オメガとしての価値」を一括りの商品として売り込む、商人のようなしたたかさと、確かな自信が漲っていた。その露骨で隙のない誘い文句にも、アレンは眉ひとつ動かさなかった。アルフレッドは微動だにせず、エドガーが差し出した契約条件を、戦況報告書でも読むかのような冷静な眼差しで吟味した。その瞳に欲望の色はなく、ただ正当な評価の光だけがある。
「上手い交渉術だ、エドガー」
アルフレッドはエドガーの真っ直ぐな視線を真っ向から受け止め、口角を上げた。その眼差しは穏やかだが、軍人としての審美眼が宿っている。
「貴殿のような才知溢れる者が側にいれば、私の戦場もさぞ退屈しないだろう」
期待にエドガーの眉が跳ねる。
しかし、アルフレッドは手に持ったグラスをエドガーとの間に介し、静かでありながらも決定的な距離を置いた。
「だが、番の座は取引から外せ。───あの席は、空いていない」
アルフレッドの言葉はそれだけだった。理由が付されないことが、値引きの余地のなさを表していると理解できるほどには、エドガーには知性があった。少年が持つ扇の動きが、一度だけ止まる。
「貴殿はエルメリアの次代を担うべき知性だ。その身体を安売りして、私に賭ける必要はない。軍の顧問としての席なら、用意させられるかもしれないがな」
赤紫の瞳が少しだけエドガーの視線から逸れるようにと流れる、その角度も絶妙だった。逸れるものを追ってしまう心理を利用していた。
しかし、アルフレッドの断り方は、一切の情を排した純粋な利害計算に基づいたものだった。
「身体ではなく、知恵で私を納得させてみせろ。それが、この国にとっても、貴殿にとっても最善だ」
完璧な正論。そして、エドガーの矜持を最も高い位置で認めつつ、その野心をさらりとかわす大人の対応だった。エドガーは一瞬、呆気に取られたように目を丸くしたが、やがて調子を取り戻したように艶然とした笑みを浮かべた。
「……さすがはアルフレッド殿下。私の手札をそう処理なさるとは。ですが、知能で納得させれば、いつかはその頑なな扉を開いてくださるということですね?」
「成果次第だな」
アルフレッドは短く答え、給仕が差し出した新しいグラスへと手を伸ばした。
「承知いたしました。では、価値を証明してみせます。どうぞ今宵は、他の退屈な花々との時間をお楽しみください。……近いうちに、貴方様の離宮でお会いできるのを楽しみにしております」
エドガーは挑戦的な視線を一度だけ残し、計算し尽くされた優雅な足取りで、華やかな群衆の中へと溶け込んでいった。引き際も鮮やかなものだった。無駄に居座らない、判断を誤らない、その知略の高さは評価に値するものである。
「あれを顧問に据えるおつもりですか。いつか寝首を掻かれますよ」
アレンが、アルフレッドではなく群衆の流れを見たまま言った。
「誰が俺の元に置くと言った。軍など数え切れん部隊に分かれている。欲しがる輩は大勢いるだろう……使い道を間違えなければ、鋭い剣になるだろう」
「では、間違える者のところへ回されますね」
全く声の調子を変えることをしないままに、不敵な笑みでそう返してくるアレンに対して、アルフレッドもシニカルな笑みで応えた。
「そうならんように、お前が見ておけ」
「俺は、殿下のお傍にいるので手が空いておりません」
「それくらいは空けてやる」
「お戯れを」
アレンの返事の速さに、アルフレッドの口の端が動いた。
その時、いかにも高慢そうな含み笑いが横から割り込んできた。本当に人が多い、という気分をアルフレッドは短く息を吐くだけに留める。
「……随分と熱烈な申し出を切り捨てられたものですな、アルフレッド殿下」
現れたのは、第一皇子派に名を連ねる老練な侯爵だった。彼は周囲の貴族たちにも聞こえるような声で、手に持ったグラスを揺らしながらアルフレッドに近づく。その瞳には、隠しきれない好奇と嘲弄の色が混じっていた。
「エルメリアの若公のような至宝を袖にするとは…。やはり噂は本当なのですかな?殿下が離宮に、誰にも触れさせぬ特別なオメガを連れて来られたという話は」
その言葉に、周囲の貴族たちが一斉に聞き耳を立てる。
アルフレッドは表情ひとつ変えないまま、ただ静かに視線を向けた。誰がこの手の話題を仕掛けてくるかと思っていたが、予想よりも下手だった。
「侯爵。噂話に興じるのは婦人たちの茶会の役目だと思っていたが?」
「おや、これは失礼。ですが、皆が気になっているのです。今宵、その方をこの宴へ伴われぬのは、一体どのような理由で?まさか、体よく見合い話を断り続けるために、架空の番を仕立て上げたわけではありますまい?」
侯爵は一歩踏み込み、声を低めて更に煽るように続けた。
アルフレッドの立つ位置は少しも変わらない。重心のかけ方ひとつさえ、侯爵の前では何も変化を見せなかった。
「それとも…よほど人様の前には出せぬような、みすぼらしい見た目なのですかな?辺境の村で拾い上げたという話ですからな。王宮の光の下では耐えられぬほどの、煤けた石ころのような存在だというのなら、確かに隠しておきたくなるのも頷けます」
緊張が走る。走ったのは、アルフレッドでもアレンでもなく、周囲だけということに気づけた者はその中にいない。
そして、緊張が走るのは、誰もがこの会話に聞き耳を立てていた証拠でもある。
「あるいはその逆…。殿下ご自身よりも価値ある存在だとでも仰るつもりか?王族であり、若いながらもその継承順位を第七位まで築き上げてきた貴方様が、たかが一人のオメガに魅せられ、己の威信を失うことを恐れて隠しているのだとしたら、それは実に滑稽な話だ」
その言葉を聞いた時に、アレンの重心が僅かに前へ移った。身体は少しも動いていない。
それでも、その気配をただ一人正確に感じ取ったアルフレッドが、グラスを持つ手を少し上げるだけの動作でそれを止めた。侯爵は勝ち誇ったような表情をしている。
アルフレッドを「オメガに溺れた愚か者」か「嘘つき」のどちらかに仕立て上げようとする、悪意に満ちた問いかけ。
アルフレッドはゆっくりと瞬きをした。そして、至って穏やかな笑みを浮かべ、それでいて侯爵の目を射抜くように見つめ返した。
「侯爵。貴方は、至高の宝石を手に入れた時、それをわざわざ盗人の蔓延る広場に晒し、鑑定させるような真似をするのか?」
予想外の返しに、侯爵の笑みが引きつる。
「…何と?」
「宝の価値の有無を判断する権利は、この私にしかない。他の者に許されているのは、遠巻きに眺めることだけだ」
アルフレッドの声は低く、だが広間の隅々まで届くような空気を孕んでいた。
「これ以上の詮索は、私の所有物に指をかけようとする行為と見なす。───その覚悟があるのなら、いくらでも続けるがいい」
その場に沈黙が落ちた。侯爵は顔を青ざめさせ、震える手で一礼して逃げるように去っていった。アルフレッドはグラスの中の減らない酒に目を落とす。
何ともない、当たり前の処理をした…それだけのことだった。しかし、アレンの二つの瞳が何も言わないままに、それでいて何かを言いたそうに見てくるものだから、アルフレッドは短く尋ねる。
「何か言いたいのか」
「申し上げることは、特に」
アルフレッドの視線が一度だけ、南側にある庭園の方向へ向いた。この会場から見えるはずのないものへ。
アレンはその視線の動きも見ていたが、言葉にして主君に伝えることはしなかった。
ともだちにシェアしよう!

