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6章(14)

春の盛りが過ぎた夜は、すっかり暗くなっていた。 時折肌を掠めて過ぎていく夜風が冷たく感じて、小さく肩を震わせるものの、寒さという感覚としては伝わってこなかった。 廊下のすぐ先からは、これまでに見てきたどんな灯りよりも煌びやかな光と、華やかな空気が漏れ出てきている。本来ならあの中に立っていなければならなかったはずが、ノアはこうして空気がよく流れる外に落ち着けることができていた。 知らない人たちに囲まれる会場の中ではなく、外にいられるだけで幾分か身体からは重さが落ちている。 身体の前で組んだ自分の指を、ノアは特に意味もなく見下ろしていた。 馬車の中で自分の手は冷えていて、握り込んでみてもその体温が上がっていくれることはなかったと覚えている。 初めて行く場所、初めて会う人、そして、初めて儀式に出る。 特に、最後の一つがノアにとっては重い緊張感として胸の中に沈んでいた。 車内でのアルフレッドの口数は多くなかった。それでも、ノアが何か呟いたり尋ねたりすると、いつものあの温度の言葉がすぐに返ってくるのだ。王宮はどのくらい大きいのかと聞けば、歩けば分かると言われた。歩くのかと聞き返せば、その靴では二日かかると返された。本当なのか揶揄われているのか、判別のつかないまま言葉を続けていると、窓を流れる灯りの数が様子を変えていった。 馬車から降りる時は、アルフレッドと一緒ではなかった。動くなと一度だけ言われて、それから扉の開く音を聞いた。 あの人の背が車寄せの灯りの中へ出ていった途端に、外の気配も音も一変した。 話し声の音の先がひとつの方向へ集まって、視線の量がそこへと傾き、追いかけていく。いつの間にかアレンがその半歩後ろを歩いていて、二人の背が石段を上っていくのを、ノアは窓の縁越しに見ていた。 彼らの姿が見えなくなった頃、反対側の扉が音もなく開いて、見慣れない姿をしたレティシアがノアに手を差し出していた。その手を取って地面に降りた時、車寄せに立っている誰ひとりとして、こちらを見ていなかった。 その道中、不思議なことに誰ともすれ違わなかった。 廊下を歩き、角を曲がり、進んでいくにつれて喧騒の波が引いていった。扉の脇に衛兵のひとりくらい立っていてもよさそうなのに、立っていなかった。レティシアの歩き方には迷いはなく何も言わなかったから、その時のノアも尋ねなかった。 視線を動かせば、簡単に数えられる程度の人影しか周りにはいない。そして、すぐ近くにはもう言葉を交わすのも慣れたレティシアが立っている。見知った顔があるだけで、ノアは王宮というつい数週間前までは全く縁のなかった場所にいても、恐怖を持たずにいられた。 村でも、そして離宮でも見たことのない花や、見覚えのある花まで、色とりどりのものがたくさん植えられている。 馬車の中でアルフレッドに言われた通り、ノアは王宮の南側にあると説明をされた庭園にいた。馬車から降りる時に分かれてから今も、アルフレッドは傍にいなかった。というのも、勲章授与式という式に出席しなければならないと話していた。 どんな式なのか、詳しいことをノアは知らないものの、その式の後に双璧の儀が開かれるのだという順番だけは理解できた。だから、レティシアの傍にいて、双璧の儀に立つ時刻がまわってきたら、彼女の言うことを聞いて控えの間まで移動するようにと言いつけられている。 控えの間のことも、王宮の中のことも、ノアは何一つとして理解できていないものの、レティシアはそれでいいのよと言ってくれた。 ただ、はぐれてしまうと危ないから、それだけは気を付けてねとあの凛とした声で言われたので、ノアはただ頷いた。 襟の詰まった服に慣れなくて、時折指先を首元に這わせながら目の前に揺れる花を眺めていると、少し離れたところから歩み寄って来たレティシアに声をかけられた。 「ノアくん、寒くない?」 その問いかけに対して、ノアは小さく頷いた。 「大丈夫。ありがとう、レティシアさん」 「慣れない格好だろうから……窮屈だと思うけど、もう少しの辛抱よ」 庭園の風が、王宮の空気を少しだけ薄めてくれるような気がした。だから、少し肌寒くてもノアはここにいたいと思った。 レティシアの足音は、廊下と違ってここでは柔らかかった。普段とは全く違う装いの彼女は、少し身軽そうだった。ノアはそれを、なんとなく好きだと思った。 「レティシアさん、いつもと服が違うから別人みたい。凄く綺麗」 彼女の美しさを引き立てるシンプルな黒いドレスは雰囲気を変えた。 深い夜のような生地は余計な光を拒みながらも、歩みに合わせて静かな艶を添えた。鍛え抜かれた身体の線は隠しきれず、引き締まった腰から背中にかけての輪郭を美しくなぞっていた。装飾品は、普段から身に着けているピアスだけだった。それは、内側からの光を上品に反射する。 「ありがとう。あなたに言われるとくすぐったいわね」 「おかしいかな?」 「いいえ、全く。シエルにも見習ってもらいたいくらい褒め方が上手よ」 ほんの少しだけレティシアは笑って、ノアもつられるように笑った。 これまでノアが彼女と会う時はいつもアルドヘイムの軍服を身に纏っていた。 彼らの軍服は、全身黒を基調とした上質な厚手の生地で光沢を抑えた仕立てをしている。細身で身体の線を拾うのが特徴的だった。任務で戦地に出向く際にも、基本はアルドヘイムの軍人は鎧などを着用しないとシエルが以前教えてくれた。この国は魔術と機動力が随一であると。鎧を着用しなくても、後衛に配置された魔術兵たちが防御壁を張るため、簡単な攻撃は通ることすらしないとのことだった。話としては聞いたものの、戦いを知らないノアにはあまり具体的な想像ができないものである。 銀のフリンジがついた両肩の肩章にあるのは、レティシアの階級である『中佐』を表す二つの銀の中星ということも教えてもらった。シエルは銀の中星が一つ、そしてアレンは『少将』であるため大星が一つあるのだと言う。軍人同士は、この肩章を見れば互いにどちらの位が高いか瞬時に判別できるらしい。 中央に王家の紋があるバックルや、手首まで覆う長さの手袋、そして膝下まである軍靴も全て黒革で統一されており、アルドヘイム軍の特徴なのだろうと思った。 その軍服を、この夜のレティシアは脱いでいた。 代わりに身を包んだドレスの色も黒なのは、彼女の私的なものなのかまでは聞かなかった。 「髪もそんなに長いの知らなかった」 「……折角だから、伸ばしておこうと思って」 そうなんだ、とノアは軽く頷いて返した。普段は編み込みを後頭部で一括りにまとめた髪型をしているため、髪を下した姿も初めて見るものだった。夜風が吹くたびに、洗練された良い香りが漂う。 軍属で髪の手入れにも時間をかけられないだろうに、レティシアの金髪は見事なまでに艶があり、妙なうねりもなく、とても美しく黒のドレスとの色の対比が際立っている。 「金髪の人、今まであまり見たことなかった気がする」 「村だと人口が少なくて外部からの人も入ってきづらいから、髪色の種類があまり多くならないのだと思うわ。人が増えれば増えるほど、遺伝子によって髪色の種類も増えるから」 「そっか、そういうことなんだ」 十八年生きてきて、そんな疑問を抱いたこともなかったため、ノアは初めて知った事実に妙に感心してしまった。 レティシアは、いつもこうして答えてくれる。教えてくれる。 離宮で初めて目を覚ましたあの時から、ノアの傍には彼女がいることが多いように思えた。 「なんだか、レティシアさんお姉さんみたい」 ぽつりと零した言葉に、レティシアが少し目を丸くした。 「あら…嬉しい」 「兄弟がいないから、想像だけど…」 「でも、幼馴染の子がいるものね」 「うん。兄弟がいたらこんな感じかなって、ずっと思ってた」 レティシアは何かを言いかけ、一度だけ庭園の花に視線を落とした。そこには、恐らく彼女にとっては何ともない花しかない。 ノアは小首を傾げるものの、その先の言葉を急かすことはしなかった。ただ、その碧眼が珍しく視界に映っているものの先を見ているような気がした。 「……私には、弟がいたの」 そのまま、レティシアはノアと目を合わせることをせずにそう告げた。 「いた?」 「──病気で」 ノアは言葉が見つからず、首元の飾りに指先を添えた。無意識だった。 「あなたより、少しだけ年上の子で。生きていたら…あなたより背丈は少し大きくなっていたかしら」 レティシアは静かな声色で話を続ける。 普段よりも僅かにだけ、言葉を紡ぐ速度が遅かった。新しい言葉を探すというよりは、奥の方にあるものを、崩すことも傾けることもしないようにそっと引き出してくるような言葉の置き方だった。 「よく、私の後ろを付いてきた子だったわ」 レティシアの視線が上がる。 その瞳の奥に、ノアには読めない何かがよぎった。悲しみなのか、痛みなのか、懐かしさなのか、それより別の何かなのか…判断のつかない色だった。それを解明することも、聞き出すこともこの場にはいらないものだとノアは考えた。 そして、少し考えてから口を開いた。 「弟さん…」 ノアの両手の指先が身体の前で絡まる。一度途切れたノアの声を待つように、レティシアは目線をノアに移したまま待っていた。 ノアのその途切れた声は、言葉を選ぶというよりは、自分の言葉を自分で確かめるような間だった。 「レティシアさんのこと、好きだったんじゃないかな」 レティシアが、一瞬息を止めた気がした。 「レティシアさん、優しいから」 庭園の風が二人の間を通り抜けていき、その風に花が小さく揺らされる。 レティシアの金色の毛先も頬の前に波のように風に乗せられていた。ノアはその髪の動きと、レティシアの瞳の動きを見つめる。 「……そうだといいわ」 その声は、不思議と答えではなかった気がした。先ほどまでノアを見ていた瞳は、目線を下げている。 レティシアが自分に向けて確かめるような声だと思った。それを聞いたノアは、ほんの僅かに首を傾けるようにしながら、レティシアに言う。 「今でも、大切な人なんだね」 ノアは、自分でも何故そう言ったのかまでは上手く説明できなかった。弟の話をするレティシアの声が、既に終わってしまった過去の形で収まるようなものではなかった気がしたのだ。だから、気づいたらその言葉が唇の間から紡がれていた。 それでも、その言葉を聞いたレティシアは、反論するでも怒るでも悲しむでもなく、ただノアへと目線を合わせている。何か言葉を続けようと唇が動きかけ、一度止まる。それから、恐らくは動きかけた時の言葉とは別のものを続けた。 「……そうね」 いつもより少しだけ低い声である。 「だから──あなたには、元気でいてほしい」 その言葉に何て返すのが一番良いのか、ノアにはわからなかった。 だから、言葉では返さずに、ただ彼女に見つめられる中で頷くだけをした。すると、レティシアはそのまま口を閉ざして何かを考えるような、噛み締めるような表情をしていた。

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