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6章(15)

夜の風にノアが微かに身震いした時、庭園の入口に一人の近衛騎士が現れた。 走って来ただろうに、そうは見えない身の振り方だった。 肩は上下にも左右にも大きく振れすぎず、足の運びも正確で余計な音を立てない。 レティシアがノアに「ちょっと待ってて」と告げてから数歩だけ離れて、その近衛騎士を呼び寄せる。 あまり聞いてはいけないものかもしれない。ノアは、目線を外すようにして、中庭の縁へと流した。 最近その癖がついている。 昼間もアルフレッドとシエルが二人で何かを話している時、聞かないように気を紛らわしていた。離宮には何人も使用人がいるし、誰からも咎められたことはない。誰もが彼らの会話を聞いている。だから、聞かれてもいいものしかそこでは話していないのだと頭では理解していたものの、どうしてか気が引けてしまうのだ。多分、彼らと自分の住む世界が違うと知っているからだ。あの時、レティシアやシエルからアルフレッドの過去やその他のことを聞いてから、その意識が形を持ってきたような気がした。 中庭の縁へ逸らした視線の先に、もつれ合うような人影があった。 一人は、ふくよかな体格の男性。 ノアでは五分着ただけで肩が凝ってしまいそうな装飾の多い上等な服を身に着けている。貴族だろうか。 もうひとりは、その男性よりもずっと若そうに見える小柄な少女だった。向かい合わせに立ちながら、少女はずっと地面を見ているようだ。ノアの位置からは表情や言葉の詳細までは聞き取れないものの、少女の華奢な肩が強張っているのはわかった。 何故か気になってしまい、その方向へと身を傾けるが、二人は中庭の奥へと姿を消した。 最後に見えたのは、手首を掴まれた少女の後姿だった。 しかし、反対側で人が動く気配がしてノアの意識は自然と逸れた。 近衛騎士が去っていく足音を聞いて、伝令が完了したらしいことを知る。短い時間だったというのに、もう終わったのだ。 ノアは身体の前で指先を絡め、軍靴とは違うヒールでも足の運びが乱れない後ろ姿を見ながら、レティシアの言葉を待った。 「ノアくん。行きましょうか」 その言葉に、ノアが一度唾を飲み込んだ。一瞬で緊張してしまったのを自覚する。 「もう、時間?」 「ええ。一緒に移動しましょう」 レティシアの声も表情も、目線の運び方まで、先ほどまでとは打って変わっていた。普段の彼女の声と表情である。 そのおかげで、ノアの緊張はほんの僅かにだが解けた気がした。普段通りの人が隣にいるだけで、幾分か身体の力が抜けるのは行きの馬車の中で実感済みである。 「こちらから行くわ。一緒に来てちょうだい」 「うん」 歩き出す速度も特別気になるものはなかった。 彼女の方が長身であり、脚も長いので自然と歩幅もノアより大きくなるはずなのだが、慣れない儀礼服ということも踏まえて、彼女はノアが焦らないような速度で歩いてくれた。 今までノアがレティシアと一緒に待機していた王宮南側の庭園を抜け、回廊へ入るのだと言う。その道が、伝令の運んできた内容とは違うものだということを、ノアが知る由もなかった。 ふと見上げた先に先ほどの二人がいて、回廊の途中でノアの歩く速度が落ちる。 少女の口から漏れ出る嗚咽が聞こえてきたのだ。 「お前のような出来損ないを、いくらで買ったと思っている。宝石も持ってない、子も孕めない、何の役にも立たない雌が」 先ほどの上等な衣を纏った貴族らしき男性の声だった。 初めて直接聞こえたその声は、酒気を帯びているのか低いのに時折上擦るような、掠れるような色をしている。先ほど見た時と同様に、少女は顔を上げられず、嗚咽を止めることもできず、ただ俯いていた。 速度を落としていたノアの足が、そこで完全に止まった。その途切れた足音に、レティシアは一歩も進まないうちに気づいてノアを振り返っていた。 村でも辛い思いをする人はいた。貧困に喘ぐことはないが、富が有り余っているわけでもないため、その年によっては辛い生活を強いられることもある。貧しさや病から辛い思いをする人たちはいても、『人』が『人』に向かって、ここまで露骨に傷を与えている光景をノアは見たことがなかった。 足を止めたまま、ノアは眉尻を下げ唇を引き結んだままその二人を見ていた。 二、三秒見つめた後に、半歩前に立つレティシアを見上げる。 「……レティシアさん」 ノアが小さくその名前を呼んだ時、彼女は既にその二人を視界に入れていた、否、状況を認識していた。 その表情を見て、ノアが足を止めるよりも前に彼女が見ていたのだと察した。しかし、見ていて何もしなかったという考えに至れるほど、ノアの思考にゆとりはなかった。 「あの人……」 ノアが恐る恐る、緩く握った手を胸元のあたりに添えながら呟いた。 レティシアの右手が音もなく右の太腿に触れている。 スリットが開いたのは、ほんの少しだった。それでも、足の付け根に黒革のベルトが巻かれているのがノアの目に入る。そのベルトに銃がしまわれていることまでは、知らなかった。 ほんの一瞬の動作だった。 指先がそこに行きかけて止まる動きだけをノアは視界の中に映していた。 「ノアくん」 レティシアの声は普段の優しい声とは言えず、少しだけ硬かった。 「……彼らの事情を私は知らないわ。ここでそれを聞きに行く理由も、時間もないの」 「でも…」 「あの光景を悪と断じる根拠もない」 レティシアの声は硬いままで、ノアは納得することはできていなかった。 しかし、その声に逆らう気持ちもなかった。何せ、自分たちには双璧の儀という儀式が待っている。皇帝に謁見する、国を挙げての儀式。そして、既に近衛騎士の伝令により控えの間への移動指示も受けている…国儀がある以上、時間を他のことに費やしてはいけないのだと、ノアにも理解できた。 「行きましょう」 ノアの肩にレティシアの手が置かれ、歩みを促される。 回廊の奥へと促す手の力は、普段の彼女の様子とは少しかけ離れた、強いものだった。 後ろ髪を引かれるような思いを隠せないまま、ノアは小さく頷くだけをして、何も言わずにレティシアの隣を歩いた。 小さな嗚咽の音だけが、二人の静かな足音に混ざるようにしてノアの耳に届く。 レティシアの足音も、普段の軍靴の方が重い音を立てるだろうに、今この場に響くものの方が重く鳴っているようだった。

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