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6章(16)
まだ耳の中にあの嗚咽を残しながらレティシアと並んで回廊を進んで行った。次の角で南西の通路へ折れることを小さく告げられ、ノアは頷く。
背後で空気が変わったことにノアは気づかなかったが、レティシアの足音が一つだけ大きく響いたのを聞いた。
ノアが俯けていた顔を上げた時、最初に音として届いたのはあの少女の嗚咽ではなく、違う声だった。男の、喉が詰まったような短い声。そして、いくつか鈍い音が続けて立てられてすぐに、悲鳴のような判別のつかない高い声が回廊の壁に跳ね返って二人のもとにまで届いてきたのだ。
「……ノアくん」
ノアがレティシアを見上げ、レティシアは背後を振り返った。
「……っ、…!」
レティシアが衝撃を噛み殺すような、短い、息と呻きを全て飲み込む音を立てるのと同時に、ノアの身体は綺麗に磨かれた床へと弾き飛ばされていた。
「いっ…た……」
膝を打った痛みを感じる暇もなく、四つん這いになった体勢で顔だけを上げれば、レティシアの身体にぶつかった影があるのを見た。
彼女に何かがぶつかる勢いに巻き込まれて、ノアの身体は弾かれたようである。
「助けて!!」
その声の大きさは、あのか細い嗚咽からは想像できないほど大きくて、濡れた悲鳴に変わっていた。
回廊の角から走って来たのか、レティシアにしがみついているのは先ほどまで男の前で俯いていた少女である。乱れた裾が細い太腿まで捲り上がり、背中の留め具が腰の終わりまで下げられて白い肌が露わになっている。まるで、脱がされている途中のような有様だった。
「離しなさい」
「いや!お願い、助けて!」
少女は乱れた衣服を気にすることもしないまま、レティシアの腰にしがみついていた。冷静に、淡白な声で離すよう告げるものの、少女には一切その言葉が届いていないようである。
剥き出しのまま泣き、叫び、尋常ではない力を両手に入れてレティシアを離すまいとしていた。子どもが母親に縋るような、判断のない強さである。
立ち上がったノアが一歩近づこうとするのを、レティシアが首を横に振って止めた。
「いやあっ!たすけて、おねがい、おねがいだから…ッ!!」
泣きながら叫んでいるせいで、呼吸は浅く、素肌が見えている背中も大きく、そして不規則に上下している。
その悲痛な叫びに構うことなく、レティシアは少女の肩を掴んで強引に引き剥がしにかかった。しかし、アルファであり軍人として鍛えている彼女の力でも拮抗するほど、少女の両手は信じられない強さでレティシアの腰から脇腹にかけて掴んでいた。地面に膝をつけながら、レティシアの顔を見上げ、しがみついた腰を離すまいと叫び続ける。
右太腿に、手を伸ばせない。
「落ち着きなさい、話を──…」
レティシアの言葉が途切れる。
匂いが、来たのだ。フェロモンだ。
彼女が真っ先に疑ったのは、このしがみついた少女だった。アルファである彼女は、あの回廊で嗚咽を漏らしていた時からこの少女がオメガであることには気づいていた。そしてこの衣服の乱れ方は、明らかに行為に及ぼうとして脱がされた途中の形をしている。
王宮の中でのオメガの身売りは何の罪にもならない。買う方も売る方も。しかし、オメガが何か被害を訴えようとも、それが訴えとして受理されることは絶対にない。彼らは商品ですらなく、名前のない消耗品だからだ。だからこの少女もまた、あの貴族の男の手を付けられる、それだけのことだった。
直前で怖くなり、貴族から逃げて来たのかと過った考えは一瞬で消えた。
この身体から確かに匂いはしている。だが、ここからではなかった。
回廊を走り抜けてきた夜の空気ごと、少女の身体に纏わりついているに過ぎず、少女が発しているものではない。それを証明するかのように、レティシアの鼻腔へと、濃度の高いそれが遅れて流れ込んできた。
舌の根が強張り、項の産毛が立つような不快な感触。
アルファ性を持って生まれたからには、若い頃からフェロモンを律する訓練を積み重ねる必要があった。軍属になってからは、その精度を更に上げた。フェロモンをその人間の存在として感知するのと、性的欲求としては引き寄せられるのとは別のことだった。
骨にまで深く刻み込んだ一線が、思考が回るよりも先に身体の防衛に走る。
「いやあ、やだ、これ、いやあっ!」
少女の拘束が強くなる。フェロモンに中てられ、悲鳴を上げているのだ。
自分のフェロモンに怯える人間などいない。
このフェロモンは、オメガのものでも、ましてやアルファのものでもない。
二十八年間、嗅ぎ分けてきたどの性のものとも違う。
レティシアの身体の中へ手を差し入れて、弄り、栓を探っては強引に開けるような『作られた』匂いだった。奥歯を噛み締め、どうにか少女の身体を引き剥がそうと爪も立ててみるが、びくともしない。短く舌打ちをする。
(───人工の、作られた、アルファ)
開いた窓の外へと視線を向ければ、中庭を横切ってきたのであろうあの貴族の男がいた。
手近にある柱や壁に手をつき、身体を左右へ大きく不規則に揺らすように歩きながら、肩で息をしている。走っただけではない息の上がり方と乱れ方だった。
緩んだ口元と据わった目、酒とは別の頬の赤みと目の充血。
あの男は今、自分の意志を手放している。外からの力で、強制的に欲望を開かれている。
「ノア、くん…」
男はこちらに向かって来ている。
視線を移せば、レティシアに近づかないよう制止され、けれどその場を離れられず、どうしたら良いか分からない顔でノアが立っている。
(この子には、何もない)
自分がオメガ性であることすら、つい最近知ったばかりである。
レティシアのように制御の訓練も何もしていない。本当にただ自分の性を知ったばかりの子なのだ。発情期こそ来ていないが、フェロモンは既に発していたと、主君から聞いている。その身体が、この『作られた』フェロモンに中てられれば、何が起こるのか。
その答えが、今、レティシアの腰にしがみついている。
至近距離でそれを受ければノアもまた同じ状態になる可能性があった。何も断定できない、肯定も否定もできないことが最も悪かった。あの貴族や、このオメガの少女のように、内側に手を入れられて引きずり出されるのか。
発情期が来ていないオメガでも、発情促進剤の投与や催淫の魔術でそれを引きずり出すことは可能である。現に、この王宮の中ではそれが蔓延している。ノアが発情し、あの貴族と抱き合うなどすれば。
──第七皇子の番が、双璧の儀を控えた夜に、王宮の回廊で。
最悪のシナリオが、レティシアの中で繋がってしまう。それは最も潰さなければならない筋だった。
そして、まさにこの少女を犯そうとし、その少女を見失ったあの貴族がここまで来る。ノアはまだ項を噛まれていない。この場で、一番細くて白い項を見つけられたら──…。
もう、だめだった。
この場所が、既に回避の先を閉ざしている。
フェロモンも夜気に乗ってここまで届き始めているのだ。この場にノアを一秒でも長く置くことこそが、取り返しのつかない危機へと背中を押しているようなものだった。
自分の手の届く場所に置くことと、安全な場所に置くこと。この二つが、別の位置へ、正反対の場所に位置するものへ変貌してしまった事実に、彼女は辿り着いてしまった。
「ノアくん」
レティシアが両手を使って少女の片手を引き剥がしながらノアの名前を硬い声で呼んだ。
呼ぶと言うよりは、指示を出す最初の声だった。返事を待たないままに、レティシアは続けて早い口調で言う。
「シエルのところへ走って」
「レティシアさん、でも…っ」
「南西通路から回廊へ。そこにシエルが待機しているの、走って行って」
回廊の奥で足音が増えるのを、レティシアの鍛えられた耳が拾った。
「ノアくん、行きなさい」
レティシアは少女の身体から一度片手を外し、その手で立ち竦んだままのノアの背中を強く押した。
「走って」
ノアは頷いて、それから足を左右一歩ずつ踏み出した。躊躇するその足を、レティシアの声が鋭く突き放す。
戸惑いながら緩慢に走り出したノアは、強さを増す心臓の音に呼吸を乱した。
振り返ることはできなかった。
走って、行きなさいと言われ、その通りにしなければならないのだと思った。だから走り出した。走るのに必死で、彼女たちを振り返る余裕は一欠けらもなかった。
背後で、音が鳴った。
短くて鋭い、空気を裂くような音が響いた直後に重たい何かが地面に落ちるような鈍い音が続く。
その鋭い音の正体はノアにはわからなかった。
十八年の人生の中では聞いたことのない音だったのだ。幾つもの音を後ろに聞きながら、振り返ることをせずにノアは走った。慣れない儀礼服に足がもつれるが、地面に転ぶことはなくその靴音は回廊の石を蹴る。
しかし、レティシアの足音が追ってくることはなかった。
ノアの小さな白い背中が回廊の先へ消えていくのを見ながら、レティシアは両手に力を込めた。
フェロモンの匂いは一秒ごとに増していく。自分の感覚を上書きするような、塗りつぶすような不快なものである。
その中で、ノアを追う足音があった。
レティシアはどうにか両手を使うことで少女の片手を引き剥がすことができた。それも一瞬だけだった。しかし、その一瞬の隙間でレティシアは太腿に取り付けていた短銃を素早く滑らせるように抜き出し、片手で構えた。漏れ出る宴の音へと耳を傾ける。
一度目に合わせようとした照準は外れた。少女だった。
自らの腰にしがみつく少女の身体を、あえて片手で強く抱き寄せた。そうすることで、幾分か右腕に伝わる振動を抑えることができた。この醜悪なフェロモンに銃を持つ手が惑わされることはない。
アルフレッドに仕えるようになってから、前線で戦う彼の背を守るために、他のアルファが剣や槍を手に戦うのを好む中で、レティシアは銃を手にした。長い月日を、訓練に費やしてきた。アルファの優れた体幹と、視力、そして射撃の精密度を活かすと決めた。
主君の背中を守るための銃弾。
主君の剣として、彼の王道を阻むものを排除していくために自分はある。この夜も、それに変わりはなかった。
鼓動のリズムに自分の呼吸を合わせる。楽の音が大きくなる、その波が最も高くなる所。
撃った。
躊躇は一つもなかった。腕の中の少女が悲鳴を上げるが、彼女は片手で抱きしめる力を強めるだけで、何もしなかった。
銃弾の先で、ノアを追いかけていた身体が前のめりに崩れ落ちるのが見えた。楽の音の波は落ち着いていくが、宴は続けられている。
(一発だけ)
やがて、銃声で少しだけ我に返ったのか、しがみついていた少女の力が少しだけ抜ける。しかし、少しだけだった。そして恐らく、ここで少女を突き放しても、この狭い回廊内で混乱のまま逃げ惑うことになり、かえって応戦の邪魔になることが想像ついた。
少女の他に、銃声で我に返った者がいた。
窓の外で、あの貴族が凍り付くような顔をしたのが視界の端に映ったのだ。据わっていた二つの瞳に、みるみるうちに別の感情と色が流れ込んでいく。
自分が今どこにいて、何をしていたのか、何をしようとしていたのか。全て一気に理解したような顔の変化だった。力が戻り切らない足をどうにか立たせ、よろめきながら来た方向へと戻って行く。あの貴族は、この夜のことを誰にも話さないだろう。それで良いと思った。処理すべき書類は少ないに越したことはない。
叙勲が執り行われている謁見の間は奥深い所だが、貴族や軍人たちが最も多く集う広間までは壁が数枚。
楽はまだ鳴っており、壁の奥の華やかな社交の空気も漏れ出ている。
銃声は一発なら紛れる。そう判断して、あの子を追う襲撃者を最優先と考え撃った。しかし、二発目、三発目は紛れないだろう。
ノアを守る引き金を引いた時に、既にそこまでの計算を終えていた。
目の前ににじり寄って来るのは、男が二人だった。
掴みに来ては、レティシアが避け、足をかける。一人が体勢を崩した隙間を縫ってもう一人が距離を詰めてくる。そして、すぐに下がる。
二度目に男が下がった時にレティシアは気づいた。
男たちは刃を抜いたものの、それはレティシアに向けていなかった。レティシアにしがみつく少女を怯えさせ、混乱に陥れるためにその切っ先を向けているに過ぎなかった。勝とうとしていない動きだ。
(足止めをされている)
理解してからすぐ、少女を抱えたまま片方の膝を落とし、一人の喉を潰さないぎりぎりの力加減で肘を入れた。悲鳴を出させるわけにはいかない。悲鳴と音が届けば、広間の宴が中断されてしまう。
一人が沈んだ時、もう一人が背後から腕をまわしてきた。足払いをかけようとして、動きを変える。落ちる音が床の石に響かないように、最後まで襟首を離すことなく、片手でその身体を落とした。
少女はまだしがみついている。先ほどのように悲鳴も鳴き声も喚き散らすことはしなくなったものの、レティシアを拘束する腕は解かれないままだった。レティシアは兵の靴音を待った。
肩の縫い目が裂けていることに気づいたのは、兵の姿が見えてからだった。
袖口にも赤いものがついているが、自分の血ではない。二人の兵に少女を引き剥がしてもらい、そのまま預ける。彼女の頭の中には既に、別の思考が走り始めていて、それが焦燥を駆り立てていたのだ。
貴族の男、オメガの少女。どちらもあの人工のフェロモンに中てられた。
しかし、今レティシアが銃で撃った一人、そして体術で地に伏した二人。三人とも、フェロモンの気配は一切していない。ならば、少なくとももう一人いるのだ。あの人工的なフェロモンで、無理やりに貴族の蓋を開け、少女を混乱の淵に叩きつけ、この場を掻き乱した人間。これだけのことを仕掛けておきながら、あのフェロモンの持ち主は一度も姿を見せていない。
「……どこに、」
考えるよりも前に、身体は動いていた。
黒いドレスの裾を掴み上げ、レティシアは南西通路へと走った。ノアを向かわせた、その方向へと。
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