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6章(17)

皇帝の前に跪いていたアルフレッドは、謁見の間の空気が後ろで変わるのを感じた。 空気の流れを変えたのは、守衛騎士の一人だった。 謁見の間で執り行われている勲章授与式、その秩序を乱さぬようにと最大限の配慮をしながら儀典官に近づいた。靴音はほとんど立てられることなく、人の多いこの空間で誰の姿勢も乱させることのない動きだった。 貴族と軍人の大半はその動きを目で追っていなかった。 儀典官の顔色が僅かに変わり、守衛騎士に返事をした後の口元が強く引き結ばれるのがわかった。 儀典官は一度、祭壇の前で跪くアルフレッドへ視線を向けた。 授与を受けた皇子ではなく、警守総監という今宵の儀の警護責任者を見る目だった。 一寸の間だけ何かを迷ったように見つめた後すぐに身体の向きを変え、後方に立っている背の高い男──アレンのもとに向かって行く。 高い位置にあるアレンの肩が半寸だけ下がり、重心が左側へと傾く。立ち方だけを動かし、声も表情も何一つ変化を見せなかった。 シュヴァルツはそれも見逃さなかった。 数度に渡って辿り着いた報告の内容を知らない。しかし、あの騎士の身体が動いたということは、それだけでこの夜に何かが起こるのは決まっていた。 あの騎士の主君はアルフレッドだ。シュヴァルツは、次に誰の顔がどう動くのかを待つことにした。その視線の先で、アレンの口元が動いた。 陛下と、殿下に。 儀典官に向かって告げたものが、短い一言だけであることがわかる動きだった。 アレンの傍を離れた儀典官は焦りと乱れを見せぬ、それでいて時間を惜しむ速さで祭壇の脇まで進み、一礼した後に皇帝の視界のちょうど端の位置で膝を折った。 「皇帝陛下。誠に恐れながら、儀の途上にてご報告を申し上げます」 皇帝の視線が右へと傾き、控えていた記録官の筆の動きが止まる。 アルフレッドは、何一つ姿勢も表情も変化が見られない。 「続けよ」 「警守より、王宮南側の回廊内にて争いがあったとの報告がございました。負傷者四名。駆け付けました警守がレティシア中佐の交戦を認めました。侵入した経路はまだ判明しておりません」 儀典官は一度呼吸を切り、少しだけアルフレッドへ視線を向けてからすぐ皇帝へと戻した。 「今宵の警守総監はアルフレッド殿下がお預かりでございます。──儀式を止めますことは、私には申し上げかねます」 儀典官は声を張り上げておらず、恐らくは皇帝とその前に跪くアルフレッド、そして記録官など、近くに立つ者にしか聞こえない報告内容だった。跪いたままのアルフレッドの耳はその全てを拾った。拾ってなお、彼は動きを見せなかった。 アルフレッドの動かない姿をシュヴァルツは確かに見た。動かないということは、驚いていないということである。 シュヴァルツは腕を組みながら僅かに身体の向きを整え、これから始まるものを観察するための姿勢を作っていた。 そこでようやく、アルフレッドの顔が上がった。 「陛下。不躾ながら、ただちに席を外させていただきます」 一瞬にして、謁見の間が静まり返った。 元々何も音が鳴っていなかった空間だというのに、呼吸の音すら消えていくような静けさだった。 緊張という細い糸が強く張られたその中で、まず初めに口を開いたのは皇帝ではなく第三皇子のバルトロメウスだった。皇帝は口を開かぬまま、玉座からその様子を見ている。王族の列から一歩前に出たバルトロメウスの顔には不快が浮かんでいた。 「アルフレッド、何を考えている。陛下の御前、それもお前の叙勲の儀の最中だぞ。いかなる理由があろうと、これほど礼を失する振る舞いはない」 「バルトロメウス殿下。私は今、王宮の防衛上の致命的な瑕疵について申し上げているのです」 アルフレッドは立ち上がることはせず、床に跪いたままの姿勢で背後のバルトロメウスへとその言葉を返した。 言葉の出方があまりにも早かった。手元にある札を選ぶのではなく、既に決められているものを出している早さと正確さである。 「今宵、この王宮の警守を預かっているのは私です。私の任の内に生じた綻びであれば、塞ぐのも私の役目です」 そこで一度だけ、彼は言葉を切った。 呼吸のために切ったのではなく、次に置く言葉が謁見の間の中で何をどう動かすかを既に理解している人間の間である。 「守衛の配置が、不自然に歪んでいます。これは単なる偶発的な侵入者ではなく、この儀を利用した王宮そのものへの組織的な犯行です」 「確認は」 第五皇子ゲオルグの抑揚のない、他者の失言を引きだすための声が割って入る。 「歪んでいると言ったな。それを、いつどうやって確かめたと言うのだ」 「侵入経路が判明していません」 アルフレッドの返答は問いの終わりに重なるほど早かった。 「賊は王宮の南側で交戦したと報告がありました。しかし、そこまで辿り着いておきながら、どの門を通ったのかを、誰も把握しておりません。王宮の内側を知り尽くした者の動き方です。──これ以上の確認が必要ですか」 ゲオルグは何も返さないまま、今の応答をその内に留めた。 だがバルトロメウスは、噤んだ口をもう一度開いた。この夜の正式な流れはここで途絶えるものではない。儀典書に記された頁を中途半端にすることは規則に反する。 「しかし、アルフレッド。この後は双璧の儀を予定している。……お前の番とやらが、この王宮のどこかにいるのだろう。その者への対応は、誰かしているのか」 「関係ありません」 切り捨てるように早い答えだった。 その言い方だけが、これまで繰り返されてきた会話の中で浮いた早さだった。怪訝そうに眉を上げたバルトロメウスは問いの言葉を続ける。 「関係ないとは。お前の番が危険にさらされる可能性があるなら、」 「王宮の防衛が先です」 感情が一切滲まない早い言葉がバルトロメウスの言葉を断ち切った。 バルトロメウスが口を閉ざしたと同時に、祭壇から少し離れた所で声がいくつか飛んだ。 「南西の配置を組み直すんだ。回廊の扉は内から閉じ、外へは一人も出さないようにせよ」 張った声で守衛騎士に向かって指示を出す音だった。 第十三皇子──アシュレイが、控えていた守衛に向かって指示を出す声が、この静まり返った謁見の間の全員に届く大きさで発されている。彼はこの儀の区画監督を務めている。自分の区画の防衛を破られた王族が真っ先に動いているのは当然のことだった。 「区画の守衛長に、急ぎ私の名で伝えよ。持ち場を動かすな」 しかし、アルフレッドはその声を背中で受けながらも決してそちらを見なかった。指示の順序も抜けている箇所も聞いたうえで、何一つ口を挟まずにいた。 「近衛を動かせばいい。わざわざ皇子が動く必要がどこにあるのだ」 アシュレイの声によって途切れたバルトロメウスの先の言葉を、第九皇子ジークフリートが引き取った。言葉を発する前に、彼の視線が一度だけ玉座を掠めている。この機会が誰の功になり得るのかを、口を開くより先に確かめる目線の動きだった。 「ジークフリート殿下。この場で近衛を呼べば、王宮内の監視網の空白を敵に教えることになります。賊はそれを待っている可能性がある」 「では、お前が動けばその問題が消えるとでも言うのか」 「近衛が動けば、賊は自分たちの侵入を知られたことに気づきます。儀が中断されなければ、奴らはまだ見えていないと思い込み、必ず動き方が雑になる。その隙に処理します」 ジークフリートが息を吸うのが、背中越しにわかった。反論の形を探していると理解したアルフレッドは、それが声になるのを待たずに続けた。 「それに、私が行くのが最も早いです。今宵の警守は、全て私の頭の中にあります。人を動かすのであれば、まずそれを説明しなければならない。伝令が守衛長に伝え、守衛長が持ち場に伝える間にも、賊は王宮深くへ進んでいます」 ジークフリートが口を閉ざすのを、アルフレッドは直接見ることなく感じ取っていた。功を急く皇子が、功をとれる位置にいる皇子の行く手を阻もうとするのは当然のことである。それに何も感じることも動じることもなく、アルフレッドは次の言葉を待った。 「随分と都合の良い話ですね、アルフレッド兄上」 第八皇子ユリウスの声である。この場に立つ王族の誰よりも若い声が、謁見の間の中ではほんの僅かに浮いて響いた。 「侵入者への対応を口実に、王宮内を自由に動き回るおつもりでは」 「ユリウス」 第四皇女ヴィレリアが、彼の名前を短く呼ぶだけでその先に続こうとした言葉を制した。芯の通った、どこにいても気取られることのない剣の先のような鋭さと美しさを持ち合わせた声である。それだけで、他の兄弟までも一度押し黙るのがわかった。 牡丹色の髪が揺れ、藍色の瞳が厳しい眼差しのままユリウスを見た。 「お前のそれは、論点が違う」 「しかし、ヴィレリア姉上」 「御前は空けられん」 ヴィレリアの腰の剣は鞘に収まっている。しかしその柄に置かれた右手の指は、自然な位置とは言えず少し開いていた。このような場所で抜く意志は全くない、しかし抜ける位置に手を置いている。彼女のその手を、王族たちは理解していた。 「儀の間、玉座の前を離れる者があってはならん。そして今宵の警守の任は、アルフレッドにある」 「アルフレッド兄上が単独で王宮内を動くことへの懸念は──」 「近衛を動かすリスクと、皇子が一人で動くリスク。どちらが今夜の陛下の威信を損なうかという話だ」 ユリウスは口を閉ざした。ヴィレリアの瞳は、既に皇帝とアルフレッドへと向けられていた。 警備について問う言葉はそれで尽きたというのに、バルトロメウスがもう一度口を開いた。彼の手は、まだ儀典書の上にあった。 この国の流れが規定通りに動かないことがこの男は耐えられなかった。 「しかし、皇子が動くなど前例が」 アルフレッドが立ち上がった。 背筋を伸ばしたまま、長い間跪いていた人間とは思えないほど綺麗な動作だった。バルトロメウスは自分の言葉の続きを口の中に残したまま、その姿を見ることになった。 アルフレッドはもう、兄を見ていない。 「陛下」 玉座に座る父王に向けられた声が空間の中で美しく響く。 王族たちの声とざわめく貴族たちの囁きが途絶えたこの隙間に、広間から流れ続けている楽の音が意識に上るような静寂に包まれた。 「広間の賓客は、動かしません」 「動かさぬ、とは」 そこでようやく、儀典官から直接報告を受けた皇帝がアルフレッドに問うた。 息子の身を案じる声色ではなく、この夜どこが崩れるのかを確かめる、興行主としての問いかけだった。その声に何も動じることなく、アルフレッドは既に頭の中で繋げられている道筋を言葉にしていく。 「扉を内から閉じ、誰も外へ出しません。避難の指示を出せば、この王宮で何が起きたかを明日には国中が知ることになります。賊が望むのは、まさにそれでしょう」 「客を閉じ込めると言うのか」 「閉じ込めたことにも、気づかせません。楽も止めず、彼らには引き続き宴を楽しんでもらえばいい」 謁見の間の後方で張られていたアシュレイの声が不意に途切れるのを聞いていたのは、恐らくシュヴァルツ以外には片手で数えられるほどだろう。 次に出そうとしていた指示が、既に自分より高い場所から出た。 「北区画の監督に伝令を。広間の扉、庭園への出口、階段口の三箇所。守衛はそのままにするように」 アルフレッドが言った三か所という数を誰も疑問に思うことも、訂正することも、問うこともできなかった。 広間から外へ出る道がその三か所だという事実を、アルフレッド以外にその場で言える者がいなかったからである。警守総監としてこの王宮の構造を全て頭の中に地図として広げ、それを引き出しから即座に取り出す。 ──この時、この場で反対の声を上げる者は一人もいなかった。 反対すれば、王宮の警備の正しさよりも今宵の儀の格式を選んだ王族として記録に残るだけでなく、この謁見の間に立つ者たちの記憶に残る。しかし、賛同すれば王宮そのものをアルフレッドに委ねることになる。 どちらへ動こうとも、主導権は既にアルフレッドが握っていた。 彼の言葉は賓客の安全を最も重んじる形であり、王宮の格も損なわない意図も含まれている。 「私が向かえば、今宵の儀は何一つ乱れることなく続けることができます」 そこで初めて、アルフレッドは言葉の速さを落とした。 「奴らは何も起こらなかったという結果だけを残して、跡形もなく消えることになるでしょう。──陛下。この判断、委ねていただけますか」 皇帝が静かにアルフレッドを見た。王宮の秩序が保たれるのかどうか、皇帝が最も注目するのはその一点である。 謁見の間の全員が、皇帝の言葉を待っていた。 「……余の祝祭を汚す者は、一人も残さず消し去れ。何もなかったことにせよ」 「御意」 アルフレッドは皇帝に深く一礼した。礼の角度は、一寸の狂いもなく儀式の規定通りの深さで、規定通りの長さだった。 顔を上げた瞬間の彼の表情を読み取れる者はいない。 アルフレッドは王族たちへ一瞥もくれることなく、謁見の間の外へと向かって行く。 シュヴァルツは、壁際でその足取りを最後まで見ていた。 アルフレッドが作り上げた王宮の機密を守るという文言、他の王族の批判を盾に転用し皇帝の言葉を引きだしたその構造。 最初から最後まで、アルフレッドの論理には何も綻びがなく、次々に放たれる反論を反論の形から変えていった。 しかし、シュヴァルツが最も着目したのはそのどれでもない。 第三皇子が『番が危険にさらされる』可能性と口にした瞬間に返ってきた一蹴する返答の速度だけが、この空間の中で別の温度を持っているようだった。 謁見の間に残った空気は重かった。 アルフレッドが静かに退室し扉が閉まった後のしばらくは誰も口を開かなかった。皇帝が玉座へと深く背をもたれらせ、視線緩めたことでようやく王族たちの肩から緊張が抜けていく。 いつの間にか、後方に立っていたはずの騎士が一人いなくなっていたことには、誰も気づかなかった。 バルトロメウスが咳払いをしてから、近くに立っていたゲオルグに向かって話しかける。 「……あの男は、相変わらず場の読み方が独特だな」 「独特…というより、計算が速すぎるのです。我々が反論の言葉を探している間に、結論を出しています」 「それが問題なのです」 ゲオルグの言葉に被せるよう、ジークフリートが眉根を寄せながら言う。 「あの男に任せれば、私たちは何が起きているのか外から見えなくなります。王宮内で何があって、何を処理したのか…誰も知らないままです」 「だから敢えて動かせたのではないか?」 目を合わせないままに言ったゲオルグの言葉にバルトロメウスが聞き返した。 「どういう意味だ」 「アルフレッドが王宮内で隠密に動く口実を与えることになった…という意味ですよ。もし、誰かがそれを望んでいたとしたら」 その遣り取りが途切れた時、シュヴァルツは何も口を挟まなかった。言う必要性がなかったのである。 妙な静けさが出てきたところで、牡丹の髪が揺れ、ヴィレリアが前へと足を踏み出した。剣の柄にかけられていた手はそこから離れている。 「叙勲の儀を結びましょう」 彼女が少し動くだけで周囲の貴族たちはほんの僅かに身を引いてしまうのは、意識したものではない。彼女の整った動きと体躯に合った真っすぐな圧が空気の流れを変えていくのだ。 「侵入者への対応は、我らが弟アルフレッドに委ねた。それが陛下のご判断です」 「我らが弟」という言葉に、王族の数人は訝しむような顔をした。 第四皇女がその言葉を選んだことの意味を、誰もが測ろうとして測り切れず、しかしなかったことにはできないまま、そのままにする。 彼女の声をきっかけに、それぞれが動き始めた。 儀典官が勲章授与式の結びの礼を告げた後に謁見の間の扉が開き大広間へ抜けていく。王族が動き、貴族がその後に続く、人の流れが先ほどまでの不自然な静けさを断ち切るようだった。 双璧の儀までの間、人々が身を置く先は大広間で続く祝宴だった。恐らくは、大半の目当てである第七皇子の姿が見えないことに気づく者もいたかもしれないが、この後の双璧の儀の順序を考えれば、その不在は自然なものだった。扉の両脇には最初と同じ数の守衛が立ち、貴族たちは音楽に身を委ねている。 バルトロメウスの手は、儀典書の頁が一度めくられて止まった。 この後には双璧の儀がある。そこに連れてこられるはずの者は、まだこの中のどこにもいなかった。

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