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6章(18)

中庭を跨ぐ渡り廊下の両側は硝子が連なっていた。 手を伸ばしても到底届かないほど高い位置に並んだ窓を通して、澄んだ月の光が斜めに落ちて床を照らしている。 離宮から見上げる夜空とはまた別の美しい月夜だった。 青白い床の石を踏むノアの斜め後ろに、影が長く伸びて離れない。だが、空の美しさに見惚れていられるほど今のノアに余裕はなかった。レティシアに言われた通りに回廊を走りながら、本当にこの方向で合っているのだろうかという一抹の不安が胸を過る。 中庭にいた時には薄く聴こえていた大広間の音は何も聞こえず、ノアの足音と乱れた呼吸の音だけが嫌に大きく響いた。 慣れない裾の長い衣装が何度も足に絡まり、つまずきそうになるのをどうにか耐えながらノアはずっと走った。 走りながら、レティシアのことを考えてしまいそうになる。 自分があの場に留まったところで、何もできやしないというのに、それでも少女にしがみつかれて明らかに普通とは言えない状況に置かれた彼女を置いて走り去ったことが、ノアの中では負い目にも似た感情で居座り続けていた。 そうして回廊を走る中で、人が立っているのを見つけたのだ。 人の形をした影を久しぶりに見た気がして、ノアは無意識のところで胸を撫で下ろしかけていた。 誰だかは分からないものの、人がいるというだけでも恐怖心を和らげてくれる。 「ノア様…!」 もう見慣れた顔になった年寄りがノアの方へと名前を呼びながら駆け寄って来る。 レティシアと別れてから初めて出会った人が見知った顔だったことに驚きながらも、ノアは一気に全身の力が抜けるのを実感した。 「マルコさん…!どうしてここに?」 「馬車を西門へ回しております。アルフレッド殿下より、儀式が中止になったのでノア様をお連れするようにとの仰せを預かりました」 ノアは胸の前で緩く片手を握るようにしながら、マルコの言葉を聞いていた。 王宮へと出発する時、離宮の馬車寄せの所で流し聞きではあるがマルコがアルフレッドと話していた会話を思い出して、自然と頷いた。まだノアが儀礼服で慣れないからと、西の裏門でしたら灯りを増やしておきますと話していたのだ。 「アルフはいないの?」 「ええ。どうやら、会場の中に不審人物が入ったとかで…本日は、お戻りが遅くなるかもしれません」 「そうなの?それなら、儀式…どうなるんだろう」 歩き出したマルコに合わせるように、ノアは彼の後をついて行った。 状況を正確に把握することは、この王宮に来てからほとんどできていないものの、それでもノアは確かに『双璧の儀』に参加するためにやって来たのである。しかし、今ここにアルフレッドはおらず、しかもマルコの話を聞く限り帰りの時間が読めないとなれば、アルフレッドの顔を見ることは叶わないかもしれない。それが何だか心細く感じてしまい、ノアは呟きの後、ほんの僅かな間だけ口を閉ざした。 少し歩いたところでノアは足を止めた。 マルコの向かう先が、言われていた場所とは違ったからだ。 「マルコさん。馬車に乗る前に、シエルの所に行かないと。回廊で待ってるって、レティシアさんが…」 「シエル様は、会場の中で賊と戦っておるとのことです。なので、ノア様は先に離宮までお帰りにならなければなりません」 「でも」 その時、本当に遠くで金属が擦れ合うような音が響いていた。 硝子に囲まれて周囲の音なんてほとんど聞こえないと思っていたものの、耳を澄ませれば聞こえるものもあったらしい。先ほどまでは、走ることに必死で、自分の心臓の音も引き攣れる呼吸の音もうるさかったため、音を拾いにくかったのかもしれない。 細い音ではあるが、ノアの耳にも確かに届くこの音が、剣が交じり合う音だということはノアにもわかった。食材を切る時に使うナイフが擦れ合う音とよく似ていたからである。 「離宮の外、本当はアルフ以外の人と行っちゃだめって」 「今夜は、致し方ありません。緊急事態ですから」 「うん……」 ノアはそれ以上は言わないままで、立ち止まっているマルコの顔を見た。 厩にいる時とはその様子が変わっている。仔馬がやってきた朝も、桶を手に持つノアを遠巻きに見ている時も、馬に話しかけている時も、この人の顔はほとんど変わらなかった。 それが、今は何かが違うような気がした。しかし、何がと聞かれるとノアには答えることができないため、ただの思い過ごしのようにも思えた。 「馬車は…僕ひとりで乗っていいのかな」 ノアが不安な表情を隠さないまま、マルコの顔を覗き込みながら尋ねれば、どうしてか緊張した面持ちのまま首を横に振った。 苦しそうな、そんな顔をしながらノアを見下ろしている。 眉根をきつく寄せているせいで、年齢とはまた別の深い皺が刻まれてしまっている。額からは汗が滴り落ち、握りしめた拳は小さく震えていた。 「あ…っ!?」 マルコに呼びかけようとした時、大きな音と共に内側から扉が開かれた。 驚いて後ろに転びそうになるのをどうにか堪え、扉と衝突しないよう反射的に背後へ避ける。肩からかけていただけの上着がずり落ちるのを、無意識に片手で押さえて暗闇から躍り出てきた人影を見た。 「ごめんなさい、気づかなくて、」 衝突しそうになってしまった人に謝ろうと先に口を開いていた。 現れた影が月の光を受け揺らめく。 頭が理解するよりも早く、本能的な恐怖を感じた身体が反応する。背筋を寒気が走っていくのを感じて肌が粟立った。温度によるものではない寒さに耐えるよう、ノアは薄い唇をきつく閉じて顔を上げた。 しかし、その影の顔を確かめるよりも前に、ノアの細い腕をマルコの手が万力のような強さで掴んだ。 「すまない…ノア様、すまない……っ」 マルコの声は、嗚咽に近いほど震えていた。 その理由に思い当たる節などひとつもなく、ノアはその手の強さに驚き瞳を丸くさせたままマルコを見上げる。掴んだノアの手首にも伝わるほど震えるマルコの手は、振り解くことはできなかった。

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