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6章(19)
「なに?どういうこと…っ?」
「……連れてきたぞ。約束通り、娘は返してくれるんだろうな」
マルコが絞り出した言葉に、男が薄笑いを浮かべて近づいてくる。
ノアの腕を掴むマルコの手は、強くて痛いのは変わらないのに、驚くほど冷たかった。その冷たさと白さは、離宮を発つ時に触れたあの手の温度と白さと同じだった。
「ああ。手間が省けた。こちらへ渡してもらおうか」
マルコはノアを突き飛ばすようにして、男へと差し出した。
ついて行けない頭をどうにか働かせようとしながらも、勢いよく身体を押し出されたノアはバランスを崩し、地面に転がりそうになったところを、前にいた男がその華奢な両肩を掴んで止めた。助けるために受け止めたというよりは、マルコが放った物を受け取るための動作の一部のようだった。
「ノア様、許してください…こうするしか、これしか、なかったんだ…っ」
マルコの言葉を裏切りの告白だと理解することもできないまま、ノアは茫然としていた。
その間にも、男に強く肩を掴まれ、指が柔らかい皮膚や骨の間に入り込んできて、苦悶に顔を歪めるしかできなかった。
「これが…あの皇子の番」
男が口を開いた。
薄い明かりに照らされた顔は、当然ながら初めて見るものである。男の視線はノアの姿を捉えていた。
低い声が心臓に響くようだ。安心するような低さではなく、心臓の底をゆっくりと撫でてくるような不快な低さである。
黒色で塗り潰したようなふたつの瞳に見つめられ、思わず身を竦めてしまう。この状況を切り抜ける方法をすぐに考えつけるほど、知識も経験もノアには全くなかった。
「どうして…」
マルコは、すぐそばで現実から目を背けるように項垂れている。状況を全く呑み込めていないノアの様子を見た男は、ただ口元に歪んだ笑みを浮かべるだけだった。
「どうして自分を探しているか?それとも、どうしてここまで来れたか?」
「僕は、なにも…」
「お前が宝石を持っていることは既に知れている。──この男が連れて来たのだからな」
前半の言葉は何も熱が乗らない平らな言葉だった。後半の言葉だけは男の顎が小さくマルコの方を指した。視線はノアの顔から一度も外れていなかった。
ノアは首を横に振るよりも、違うという否定の言葉を口にするよりも先にマルコを見てしまった。
責めるためでも、謝罪を求めるのでもなく、ただ彼の口から違うと言ってほしいだけだった。その思いで見た。
マルコはノアを見なかった。
目線は床に沈んだまま、轡を握り続けてきた手が白く、そして震えている。
ノアの口からも男の口からも名を呼ばれたわけでもないのに、その肩が小さく揺れた。二人の視線が結ばれないのを見届けて、男の笑みが深くなる。
「そんな…」
男はノアの全身を眺めただけで、用済みとばかりに身を翻すことなどしてくれなかった。汗ばんだ手のひらを握る。視線を彷徨わせ、不気味な静けさを漂わせる空間を見渡した。誰もいないなんて、あり得るのだろうか。ノアは理解できないまま異様さを肌で感じていた。
「っ、やめて…!」
男に顎を掴まれ、その手の大きさと体温に恐怖を感じたノアは咄嗟に腕を振り上げていた。
ほんの僅かに自由になった右手を反射の形で振り上げただけだったというのに、その手は偶然に男の頬を引っ掻いた。そのことにも気づかずにいると、頬に赤い線が引かれた男が剣呑に瞳を細める。
「……っ!」
声が、出なかった。
ノアの顎を掴んでいた手を右肩に戻し、そこを掴む男の手に力が入ったと思う間もなく、鈍い音が内側から響いた。
右肩が重くなり、指先まで急激に冷え切っていく感覚が駆け抜けていく。
反対に、熱くなった肩は激しい痛みを全身にまで走らせているようで、ノアは喘ぎ喘ぎ呼吸をした。
「ああ…無理をするから、肩が外れてしまった」
冷ややかにノアを見下ろす男の顔を見る余裕もなく、少しでも痛みを逃がしたい思いで、大きく呼吸をしていた。呼吸の動きすら肩に響き、感じる痛みが増していく。
激しい痛みのあまり、足に力を入れられずへたり込みそうになったノアを男が抱き抱えた。
「あっ、……ッ」
「こうも小さいと、少し力を入れただけで壊れてしまうな…」
健常な片腕を掴みながら、ノアを床に座らせる。
あまりにも痛みが強く、抵抗する気力など湧いてこなかった。男の意のままになっているなど考えることもできず、ノアは壁に背をもたれさせ、きつく両目を閉じた。額から伝い落ちる汗が顎まで落ち、生理的に滲み出た涙も拭えないまま不規則に乱れた呼吸を繰り返す。
男は遠慮することをしなかった。
獲物を逃がす気のない様子で、座り込んで満足に動けないノアを両腕で囲い、二つの瞳で射抜くように見つめ言葉を続ける。
「ちゃんと言うことを聞けるだろう?」
「い、や……!」
「良い子にしないと、もう片方もうっかり外してしまうかもしれない」
「っ……」
左肩を掴まれ、その手の大きさに身体が一瞬にして竦んだ。右肩を外された動きは一瞬だった。
また怪我を負わされるのではないかという恐怖と、想像した痛みに震えあがる。男は嘲るように笑った。
「ほら。馬の世話係のお前も、言ってあげてくれ」
ノアが恐る恐る視線を移し、うずくまり続けている彼を見れば、老いた背中で必死に息をしているのがわかった。
男は歩いて行き、丸まった背中の前で止まる。
近づいてきた気配に更に身を縮こまらせ、マルコは噛み締めすぎて血が滲んだ唇を震わせながら肺から息を絞り出すように声をあげた。
「ノア様、申し訳ありません…!娘を人質にとられ、私は…、ッ!」
言葉が完成しないうちに、マルコの身体が大きく跳ねた。
言葉にすらできなかった悲鳴が上がってすぐに、ノアは瞳を大きく見開き名前を叫ぶ。
「マルコさん…!」
鈍い音と共に、頭部を殴打された彼は床に倒れ伏した。
石畳に沈んだその身体に、ノアの手は考えるより先に伸ばされていた。触れた手にぬるいものが移ったが、それを拭う余力は残されていない。
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