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6章(20)
「余所見か」
襟を掴まれ、マルコの身体から引き剥がされる。
その瞬間に肩の痛みが全身を駆け巡り、ノアはまた悲鳴を口の中で呑み込んで、涙を一筋流した。
ノアの目の前まで戻った男が呆れたように肩をすくめた。芝居がかったその動きをする男をノアは見上げることしかできない。
「よく喋る口だ」
「殴るなんて…!」
「しつけだ。所詮は凡愚のベータ、俺たちには遠く及ばない劣等種だ」
ノアの非難の声など気に留めず、男は吐き捨てるように言う。男の手には、赤いものが付着していた。
言葉の意味が理解しきれず、ノアは思わず聞き返した。
「劣等…っ?」
「俺は最新のシュード・アルファだ、何もできないベータなど…」
言葉を切り、男はしゃがみこんでノアと目線を合わせてきた。すぐ近い距離にまで迫った黒い瞳から離れようとするものの、ノアの背中は壁についている。これ以上、この男から距離をとることは不可能だった。
マルコは娘を人質に取られたのだと言っていた。それで、ノアは今この男の目の前に差し出されたということだった。
怒ればいいのか、恨めばいいのか、何をすればいいのかノアには分からなかった。
ただ、自分の感情よりも先に、違うことが頭の中に浮かんでくる。
──娘さんは、無事なのか。
見当違いのことかもしれない。それでも、ノアは意識を失ったマルコの代わりのように、それを考えた。
ささやかな抵抗のように、顔だけを正面から避けたノアに気にする様子もなく、男は問いかけてくる。
「名前は?」
ノアは何も答えなかった。マルコを平気で傷つけた男と言葉を交わしたいはずがなかった。小さな唇を引き結んで、痛む右腕の肘辺りを左手で掴みながら、この恐怖の時間を耐えようとした。
先ほどまで何度も名前を呼ばれていたのだ、男が名前を知らないはずがない。
わざわざ名前を言わせたいのか、反応を愉しんでいるのか、どちらにせよ真っ当な人間の問いではないと指摘できる人間はこの場にはいなかった。
「ふむ…」
答えないノアを気にすることなく、男がノアの襟元の留め具を外した。小さく音が鳴った後に緩んだ隙間から夜気が入り込み、それを感じる暇もないほどすぐ男の手が首筋から項をなぞる。
何か目に見えないものを辿っていくように、絶妙な力加減で撫でていく。他人に触れられて、気持ちが良いとは言えない場所から、不快感がじわじわと沸き起こっていった。
「首輪がないな」
「……っ」
「お前…オメガじゃないのか?それとも、無防備にしているだけか」
肩を押さえられ、そのまま床の上へと組み敷かれる。
圧迫された右肩から痛みの波が広がっていく。小さく呻き声をあげて、いよいよ追い詰められたノアは力を入れられる分だけ精一杯力を入れて、身を捩った。
「まあ、いい。オメガかどうかなど、すぐに分かる」
「やめて!」
「あの第七皇子が双璧の儀を完遂させたら苦労も水の泡だ…拝謁前に、壊れ物にしてやろう」
押さえ込まれたまま服の合わせ目からごつごつとした男の手が侵入してくる感触に呻く。
重く圧しかかるなにかが、男の体重だけではないことにノアは気づく余裕が一つもなかった。
「う、……っ」
身体を捻り、片手でどうにか男の身体を押し離そうと力を入れるものの、右肩の激痛もありほとんど意味のないものだった。
ノアは上着を羽織っていたものの、ここに来るまでに随分と乱れてしまっていた。男の手で簡単に儀礼服が解かれていく。
一度、男の手が止まった。
顔が寄せられる。
衣服を解かれて夜の空気に晒された白いノアの首筋に、鼻先が触れるかどうかの距離まで埋め、深く息を吸った。何か意図があるように長く吸って吐く、その息遣いが嫌でノアの皮膚が粟立つ。
至近で肌に触れる湿った息と、圧し潰された右肩の熱を持った痛み、背中に伝わる硬い床の冷たさ。
ノアに理解ができるのは自分の身体を通して伝わるものだけで、その男が何を考えて、何を待っているのかは全く理解できなかった。ノアの首筋に顔を埋めたまま動かずにいた男はやがて面を上げ、ノアの瞳を覗き込む。黒い瞳がノアの瞳に映る何かを見ようとしていたが、すぐ訝しむように眉根を寄せて言葉を口にした。
「匂いがしないな」
恐怖と緊張に強張った身体に触れながら男が吐息を漏らした。何か得心がいったかのような呟きだった。
「……随分と上等な抑制剤を使わせているのか。過保護なことだ、あの皇子は」
言葉の意味はノアに届かないまま、それでも男はノアの身体に触れるのを止めなかった。
上衣を乱され、首から鎖骨にかけて露わになる。
男の手は肌の上を撫でていき、何かを探っている様子を見せた。腰を撫で、力を加えた手のひらで薄い下腹部を軽く押す。熱心な瞳がノアを見つめ、吐息が掠めるほどの至近距離にまで顔を寄せては尋ねた。
「宝石はどこに隠している?」
男は再び小さな顎を掴み、親指の腹でノアの唇を撫でた。
そのまま唇を割り開き、舌を探り当てようとするものの、ノアは頑なに唇を閉ざしたままだった。
閉ざしたまま、力を入れ過ぎて薄い瞼が小さく震えている。男はノアの下衣の隙間から手を差し入れ、太腿や膝裏、ふくらはぎまで隙間なく撫でては探っていった。それから、衣服の細やかな飾りまで目で見て指先で触れていく。
内腿を執拗に撫でてはノアの顔色を窺った。触られている感覚が嫌で、ノアは膝を擦り合わせて、強引に開かれた足を閉じようとするが、男の力には敵わない。
やがて男は、目当てのものが見つからないと思ったのか、一度密着していた身体を離し溜息をこぼした。
「見当たらない、か。肌身離さず持っているはずだが…」
襲撃者はノアの全身をじっくりと舐め回すように視線を動かした。開けた衣服から夜風が過ぎていくのを感じて、ノアは一度大きく身震いをする。
ふと、ある一点を男の視線が掠めた。
「隠しているのか」
額を覆った布にぐ、と手がかかる。それが分かったノアは身を捩り、顔を背けて男の手から逃れようと試みるものの、抵抗が結果をなすことはなかった。
ノアの反応を見た男は、馬乗りになった身体に更に重心を乗せ、残された自由もどんどん奪っていった。
ゆっくりとした動作で、結び目を解くことをせず額のリボンを押し上げていく。
男の手が触れた白い布は赤く染まっていった。
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