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6章(21)

右肩を床に縫い付けるように押さえられ、ノアは痛みに苦悶の表情を浮かべることしかできない。痛みを滲ませ乱れた吐息が唇の隙間から漏れ出ていく。 「なるほど…」 男の視線がノアとは合わず少し上向いている。感嘆ともとれる息を漏らし、ゆっくりとその指先を額の宝石に這わせるように撫であげた。背筋を駆ける悪寒に身を震わせながら、ノアはどうにかその不快な感触に耐えようと唇を引き結ぶ。アルフレッドに触れられた時とは真逆の感覚に襲われていることには、気づかなかった。 「確かに見事な宝石だ。王族であれば、喉から手が出るほど欲しがるだろう」 至高の宝のような大げさな物言いを聞き入れることもなく、ノアは再度身を捩らせて片手を弱々しく上げた。しかし、左手首を男に掴まれ、そのまま捩じり上げられ痛みに声をあげる。腕を掴まれたまま顔を寄せられ、低い、苛立ちを隠さぬ声で言葉を続けられた。 「本当に、言うことを聞かないな」 懐から取り出した鈍く光る切っ先が視界に入り、ノアの全身が一瞬で硬直する。 ──三人の男に追いかけられ、土の上に押し倒され、衣服を裂かれた。 あの時と同じ凶器を目の前にして、喉が引きつれ、拍動を乱した。理解よりも先に刷り込まれた恐怖心が襲いかかってきた。 「ひ、───ッ!」 悲鳴すら大した声にはならなかった。 反射的に、中途半端に動く片手で頭を守る行動をとる。 「っ!」 絶望がノアの視界を覆い尽くそうとしたその時、暗闇を切り裂くような鋭い一陣の風が吹き抜けた。 「おやおや。重たい空気だ…。夜の散歩には、少しばかり刺激が強すぎるんじゃないかな?」 弦を弾くような低い音が響く。 一寸後には、男が手に持った得物で放たれた何かを弾き返していた。 すぐ傍で男が息を呑む気配がしたと同時に、ノアの身体の上に乗っていた男の体重が離れていく。 何が起きたのか状況把握を全くできないまま、その時のノアはまだ視線すら動かせずにいた。胸の中の鼓動は強く、張り裂けそうなほどに身体の内側を叩いている。痛みを感じながらも肩を大きくさせないと息ができなくて、仰向けに倒れたまま、ただ必死に呼吸を繰り返していた。 「おっと、外してしまった」 場に似合わぬ陽気な声が、驚くほど静かな空間によく響いた。 ノアが声の主を確認することもないまま、状況は刻一刻と変化していく。圧し掛かっていた男がいなくなったことで、あんなにも不快だった男の体温は全て取り払われていた。その時、ほんの少しだけ視線を動かすことができた。 「やはり戦いから離れると鈍ってしまうらしい」 「何者だ。警備の人間ではないな」 「こちらの台詞さ、何せ侵入者は私ではない。それに、名乗るほどのものではない…ただの正義感溢れた流浪の詩人さ」 「ふざけたことを!」 二人が交わす会話はまともに聞こえない。 ノアはようやく意識が現実に引き戻され、指先を動かすことができた。 それから少しずつ、自分の身体の感覚が自分の中に戻ってくるようだった。 ゆっくりとした動きで上体を起こし、壁に背をもたれさせながら大きく息を吸って吐いた。内側から響く心臓の音が静まることはないものの、ようやく自分の意思で呼吸ができるようになってきた。落とされたリボンが足元にあるのを見て、左手でそれを握る。 震える左手で男に乱された衣服を整えていく。しかし、片手だけという状態と、震える手はなかなか言うことを聞いてくれず、うまくいかなかった。何回も失敗して、解けて、少しずつ閉じていく。 焦燥に駆られ、呼吸は未だ乱れ続けている。もう男に触れられていないというのに、あの背筋を寒くさせる指の感触と、不快な熱が肌の上に残っているようだった。 「幼い少年を組み敷いている男が、真っ当な人間のはずないだろう?」 離宮で生活するようになってから数か月経過する。結果として、ノアの窮地を救うことになった男の姿は、今まで見たことのないものだった。 王宮の関係者なのか否か、その判断すら居座っているだけのノアにはできない。ただ、直接的にノアの身体に害をなそうとしてきた男と対峙しているのだ、目の前にいるのが見覚えのない人であっても、命の危機が去ったことには安堵することができた。 「それなら、その子を助けるまでだ」 自らを流浪の詩人と名乗った男は剣を振るい、かと思えば至近距離からでも矢を放っては男の攻撃を阻んだ。 戦いから思わず目を逸らしそうになるのを堪え、ノアは左腕で剥き出しにされた宝石を覆った。 少しでも何かが違えば、きっと両者とも無傷ではいられないのだろう。 これまでの人生で、武器が用いられた戦いを実際に見たのは、カルムーニュ村での一件だけだ。いつその切っ先が自分に向けられるのかと思うと、恐怖で身体が動かなくなってしまう。 「剣を握る手としては不出来なのだがね」 「やかましい…!」 踊るように身を翻した男が剣を回し、火が灯っていた蝋燭が倒されては襲撃者の視界を不良にさせるのが見えた。小さな火は毛足の長い絨毯に飛び、そのまま広がるのかと思えば、襲撃者が大きく踏み込んだ一歩で全てかき消される。 レティシアがその場に到着すると、目の前には二人の男がいた。 剣戟の隙間から、白くて小さい身体を壁に預けながら目を開けている姿を確認する。 ──数が合わない。 耳が拾う呼吸の数は目に見えている二つよりも多い。奥へ視線を移して見てみれば、廊下の脇、細く開いた物置の戸の奥に息を殺そうとして殺しきれていないものが三つあるのを数えた。動く気配はまだない。だが、動く時は一斉だろうということだけは、隠れた呼吸の揃い方でわかった。 「流石に荷が勝っているなあ、私は騎士ではないというのに」 「ならば、ここで一思いに死なせてやろう」 持っている武器は銃。手前にいる対象までの距離、戸の奥の三つ、そして壁際にいるノア。 この二人のどちらが襲撃犯なのか、レティシアの脳内には情報が一切ない。それだけでなく、この廊下を囲うものの大半は石でできている。石への浅い入射は素直に跳ね、外れても貫通しても、その弾の行方はノアに届く危険性がある。そして、銃声はきっと奥に潜む三つを動かす。四つを、一丁で同時に止めることはできない。 今この場であの小さい身体を守れる手段は、己の身体だけだった。 銃を持たないまま、レティシアの足は駆けていた。 男の一振りが詩人の腹部へと狙いを定め、鋭く突き出される。 「自らの死の詩を奏でて、散っていくがいい」 詩人の表情に焦りが滲む。 襲撃者の凶刃が獲物を捕らえ、そのまま肉を貫く───。

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