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6章(22)
瞬間、甲高い耳障りな音が響くと同時にこの場を支配する雰囲気が一変した。
「────ッ」
詩人の身体に刃は届かず、二人の男が体勢を崩した。
ノアを襲った男も、ノアを助けた男も、ほとんど同時に見上げる。誰のものかも分からない、息を呑む音がよく聞こえた。もしかしたら、自分だったのかもしれない。
「あ…っ」
ノアには降りかからない寸での所にまで、硝子の破片が散り散りに落ちてくる。不快な音を響かせたものは、割れて散った高価な窓だった。縋るような思いで視線だけを移せば、信じられない光景が飛び込んできて、ノアは呼吸をするのも忘れてしまう。
細かな光を反射させた破片が、夜空を背に煌めいている。
光の粒の中にひとつの黒い人影が浮かび上がった。
降りしきる硝子の雨がレティシアの行く手を阻んだ。数えることなど到底できない破片が月の光に照らされながら、まるで光の線のように目の前を一段明るくさせている。
「な…ッ!」
誰かの驚愕したような、焦燥に駆られた声が聞こえる。聞いたことのないそれは、ノアを襲った男のものかもしれない。
窓硝子を蹴破った影が空中で体勢を立て直し、そのまま得物を鞘から隙間なく抜いた。
夜の中に、刃が鞘を走る美しい音が響く。
刃は炎を纏い、風を受けて陽炎を作り出している。散っていく火花が弧を描いて落ち、退こうとしたのか体勢を立て直そうとしたのか、後退りした襲撃者の行く手を塞いだ。男は苦虫を噛み潰したような表情のまま、大きく舌打ちをする。
「き、さま……!」
男が降り立った時、扉が開く音と共にいくつもの足音が響いたものの、その足の向きは揃って真逆の方に向かった。ノアを襲った男の目は狼狽へと変わり、自分を見捨てたその動きを正確に捉えていた。
鋭い音と共に現れた刃が、月光を受けて煌めく。
美しい刀身は普段からよく研磨されている証だった。アルドヘイム王家の紋章が刻まれた柄から伸びた、形の良い刃が空をも斬る。
「ぁ……、」
ノアの言葉にならない声が吐息と共に漏れ出る。その音は名前になりかけて、名前にならなかった。
月の光が、降り立った人の輪郭をなぞっていく。見間違えるはずがない、アルフレッドだった。
唇が震えていて、力の入らない身体を自覚する。燃えるように熱く、痛かった肩を今は気にすることができない。
靴音が一つだけ鳴り、彼の鋭い眼差しが敵を射抜いた。
一閃が、襲撃者の腕を落とす。
「ああぁあ……ッ!!」
無駄な動作はひとつもなく、たった一撃で終わりを結んだ。
鈍い音を立てながら、男の肉体の一部だったものが床に転がり落ちる。
その後すぐ空間を満たしたのは熱だった。
風ではなく、熱が剥き出しのまま何にも覆われずに生まれて、何秒か遅れて轟きが響く。
──炎だった。
レティシアがその熱の正体に行き当たった時には、主犯格であろう男を見捨てて逃亡しようと西口を目指していた三人の男が、炎に呑まれていた。
あの炎の後ろに、自分は何度立ってきただろうか。何度も見ているはずなのに、レティシアの喉は持ち主の意思を確認しないまま息を呑んでいた。肉が焼ける匂いだけを残し、悲鳴は一切聞こえなかった。悲鳴をあげさせないほど苛烈な炎だった。
誰もが、炎を見ていた。
その炎から最初に目を離したのは、生み出した本人だった。
アルフレッドの視線は、燃え落ちる背中を一つも追わないまま、床に座り込むノアへと移っていた。
ノアの右肩がいつもより低い位置にあった。乱された衣服の合わせ目から肌の一部が露わになっており、左腕が額を押さえたまま動いていない。その手には誰のものかわからない血が染みた白いリボンが握られている。それを見たアルフレッドの瞳の中で、何かが一拍だけ止まる。
(──誰かが、この子に触れた)
誰かはほぼ断定の形をとっていた。この事実だけが、これまで頭の中に組み立てていた順序を無視して真っ先に来ていた。賊の身元、手引きの経路、外周が破られた理由、謁見の間の状況。いくつもの項目の中に、順序をもって番の状態もあるはずだった。しかし、それを順序の中のどこに置いていたのか、明確な答えが出てこない。
アルフレッドの足は止まらなかった。止まっていたのは、答えの出ない内側だけだった。
炎はまだ揺れているというのに、アルフレッドはそれを一瞥もしていなかった。
同じ炎を目の当たりにして、詩人と名乗った男は剣を下げたまま動けずにいた。
突如現れた男は、自分の炎に背を向けて既に歩いている。
詩人は飛んで行った腕に驚いたのでも、割れた硝子に怯んだのでもない。
(あれが、炎の魔術──…)
炎を咄嗟に言葉に残そうとして、できなかったのだ。
魔術師なら数多く見てきた。
王宮お抱えの宮廷魔術師も、戦地で活躍する魔術兵も、詩人として世界を巡りながら見たことが何度もある。国によって流儀もあり方も異なるものの、変わらないものもある。魔術には詠唱が必要であり、狙うには対象の理解が前提にあり必ず見る必要がある。そして、炎は物を選ばないはずだった。絨毯を焼き、草を焼き、人を焼く。火が上がれば必ず延焼する。だからこそ、建物の、それも王宮の中で炎を使う魔術師など一人も見たことがなかった。
窓から落ちてきた男は、一度もその方向を見ていなかった。
その口に詠唱を乗せることもせず、視線は目の前の男を見据えたまま、それなのに炎だけが彼の見ていない場所で、彼の手のように正確に走った。
先ほど蝋燭の火が燃え移りかけたあの絨毯を彼の炎は掠めず、石の壁に跡を残さず、悲鳴すら奪った。
(──属性、か)
世界を構成する精霊の属性、そのものを引き出す魔術師がごく一握りだけいるという話は知っていた。
技を磨いた魔術師が百人束になっても届かない、生まれの違う高み。
炎の精霊が語り継がれているのだから、その属性を預かる人がどこかにいるかもしれないという話は、決して空想の語り草ではなかった。
男が手に持つ王家の紋章を刻んだ刀身は血を吸っているのに、持ち主の顔はただ月の光を受け清冽な美しさのままだった。
この王宮に流れるもう一つの噂を頭の中で言葉にしかけて、詩人はそこで思考を一旦止めた。
「が、は……っ、ぐう…ッ」
激しい痛みにのたうち回る襲撃者の声が地を這うように響いた。
失われた片腕があったはずの場所を強く押さえ、激痛に喘ぎ辛うじて浅い呼吸を繰り返している。損傷に対して出血量はあまりにも少ないものの、痛みが抑えられることはなく、気を失いたくてもぎりぎりできないのだろう。
「───…」
ノアは息をしているのかわからなくなっていた。
心臓の音がすぐ近くで鳴る。耳のすぐ後ろで、自分の脈打つ音がうるさく聞こえた。右腕が抱えていたはずの痛みすら感じられない。
何かを考える間もなく一瞬で状況が変化し、終わりを迎えた状況にノアの思考は追いつく事ができなかった。ついさっきまで自分の命が狙われていた、その恐怖すら未だ心の内に根を張っているようである。
その中で、さっき肌を掠めた炎の熱を怖いと思うよりも、温かいと思ってしまったことが怖かった。
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