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6章(23)
「……この、腕……ッ、……きさま、……ァ……」
大量の汗が床に滴り、自らの腕を落としたアルフレッドを睨むこともできず、ただ焦点の定まりきらぬ目でどこと言えないところを見ていた。それでも、声だけは憎悪の形を保とうとしていた。
アルフレッドは座り込んだまま動けずにいるノアのすぐ傍で膝をついた。
「ノア」
名を呼ぶアルフレッドの声の後に、すぐ痛みのない肩を抱かれて、ノアは驚き大きく身を跳ねさせた。
額を押さえた左腕に彼の手が添えられ、その下のものを隠していた腕がゆっくりと下ろされる。強張って開けずにいた指を順に解かれ、その間からリボンを抜き取られた。それをどこに仕舞ったのかノアは見ていなかった。
冷たくなった肌に触れた人の体温がひどく温かく感じ、強張った全身が一気に弛緩していくのを感じる。自身の名前を呼んだ声にも安心したのかもしれない。一秒ごとに移り変わる状況に取り残されそうになったノアをすくい上げたのは、その声だった。
「ぁ……」
「こんなに震えて、可哀想に」
優しい言葉のはずだった。それなのに、声だけがどこか遠いところから降ってくるように聞こえて、肩を抱く手のひらの温度の方が、声よりもずっと近くにあった。どうしてそう聞こえたのか、今のノアには考える余地すらなかった。
焦ったような、急いでいるような、そんな慌ただしい複数の足音が近づいてくるのを聞いて、アルフレッドはすぐに次の行動へと移る。長い上衣を脱ぐのに、一秒もかからなかった。
「おの、れぇ……必ず……、必ず……ッ」
あれほどよく回っていた舌だったというのに、今は絨毯の中に自分の額を沈ませ形になりきらない言葉だけを吐く男の姿を、アルフレッドは見ていない。
レティシアはようやく思考の列を正し、後ろから近づいてくる足音の数を数え始めた。
それからすぐにノアの視界は塞がれた。黒い布を、頭から足までを覆うように被せられたのだ。
布の内側はまだ人の熱を持っていて、ノアが知るアルフレッドの匂いだけがした。
突然視界を塞がれて、孤独感とも恐怖ともどちらとも言えるものがせり上がってきて、アルフレッドの顔を見たくて上衣に手をかけたノアを、布越しにアルフレッドの手が強く掴んだ。
「動くな」
布の外から低い声が聞こえる。ノアは動かなかった。動くなと言われたからというより、彼の声に反してまで動く力がもう残っていなかったのだ。アルフレッドの上衣は床に届くまで裾が長く、ノアの足首だけが黒い布の下から白く覗いていた。
身を固くさせているノアのすぐ傍を足音が近づいてくる。
「アルフレッド殿下!」
アルフレッドは駆け寄って来た数名の守衛騎士を見ながら剣に付着した血を振り落とす。一つ二つと、幾つもの血痕が赤い点として繋がった。蹲り、言葉として形にならない悲鳴と呻き声をあげ続けている襲撃者を冷ややかに一瞥してからアルフレッドは一言言い放った。
「殺すな、大元を知りたい」
「───は」
命令通り、それ以上男に攻撃をすることもなく、剣を首に当て威嚇をしながら拘束し始めた。とうに抵抗する力どころか、生命すら危うい男は何をすることもできず従っていた。縄が食い込むたび、男の喉からはまだ音が漏れていたが、それはもう言葉には届かなかった。
レティシアが一度アルフレッドの隣に並ぶ。
「切断部からの感染症が一番怖いから、頼んだわよ」
自分の主の言葉をより詳細に守衛へと伝え、続けて指示を出していく。回廊で錯乱したオメガを兵に預け、ノアを追ってここまで駆けてきた足は、まだ呼吸を整え切れていなかった。
しかし、彼女の身体は正しく動く。
炎に焼かれ倒れた男たちの息を三つ分、ひとつずつ検めた。息をしているのに、何一つ抵抗というものができない、そうなるような精度で練りだされた炎の魔術だったのだ。
レティシアは、無意識にもう一度息を呑んでいた。少し視線をずらせば片腕になった男が拘束される様子が見える。腕を斬り落とされたにも関わらず出血量が極端に少ないのは、刃に炎を纏わせていたからだ。斬りながら断面を焼灼する、その一閃も当然ながら、瞬時にその手段を選び取った思考の速度こそ、尋常ではなかった。
「中佐!ノアは…っ」
声の方が早かった。
西口から駆けて来たシエルは、普段の任務で使う大剣は背負っておらず、儀典用の剣だけを抜身のまま握っている。予定していた南西の合流地点を抜けてからここまで、鞘に収める間も惜しんで駆け付けて来たのだろう。その刀身には僅かに血の跡が残っており、レティシアは彼が置かれていた状況を正しく読んだ。
「殿下が」
レティシアは視線をやらずにそれだけを口にすれば、シエルが一度だけその方向を見た。無言で剣の柄を握りなおしていた。
拘束されている片腕の男、倒れている三人、そして主君の背中をもう一度見てから、答えを求めない問いを口にする。
「……こいつら、全員すか」
「見ればわかるでしょう」
レティシアが近くに立つ守衛と会話を始めて、シエルはようやく剣に付いた血を振るい落とし、鞘へとそれを収めた。
視界の端で担架を運ぶ守衛の背中が動いた。
運び出されていくその上に横たわるのは厩の匂いの染みた仕事着の年寄りで、不規則な浅い呼吸だけが胸を上下させている。担架の縁から力なく垂れた片手が守衛の歩みに合わせて小さく揺れる。
シエルの視線がその手に留まった。
軍服でも礼服でも何でもない、そんな人間がここにいた理由。レティシアと分かれ、自分の元にまで辿り着かなかった足。
シエルが視線を戻した時も、レティシアは守衛への指示を続けていた。
布に覆われたノアのもとには、彼らの声と音しか届かない。
視界が塞がれているから、誰がどこで何をしているのかはわからない。
だから、余計に自分が今どこにいるのだろうかという、おかしな思考が入ってきた。
周りで聞こえるのは知っている人たちの声だというのに、ノアには現実感がなかった。
知っている人たちのはずなのに。
ノアの知っている現実からかけ離れた状況を、彼らは日常として捉えているのだ。そのずれがノアにはまだ分からず、余計に思考が働かなかった。彼らにとってはこれが普通なのだ。戦いや暴力、犯罪、そうした類のものと常に隣り合わせで生きているのだ。未だに胸は重苦しく、締め付けてくるような痛みをノアに与えてくる。思考も身体の動きも縛り付けているのは、治まりきらぬ恐怖だった。
「医官は同時出発しているので、すぐ到着するかと」
「医官はいらん、ノアと外部の人間との接触は断れ。着いたらあの男の治療に回していい」
レティシアの報告に短く返してから、アルフレッドは彼女の姿を視界に映した。
黒いドレスの肩の縫い目は裂けており、左の袖口に小さな赤い跡があった。彼女の血ではないことがすぐにわかったものの、誰のものなのかは問わなかった。
ふと、廊下の奥から足音が響く──一人分だった。
走って来た速度の音が姿が見える手前で歩幅へと落とされ、姿を現したのはアレンだった。呼吸の速度は変わらず、肩も揺れていない。その身体のすぐ後ろに白いものが歩いていたのに、足音は一人分のままだった。
レティシアの耳がその数の不一致を拾い、一瞬だけ視線を移し…それ以上は掘ろうとしなかった。今数えるべき一致と不一致は、この足音ではないと判断した。
「途中だったのだけどねぇ。口説きかけの花を、ひとつ置いてきてしまった」
姿よりも先に声が届き、場違いに柔らかな声が廊下を歩いてくるのを全員が認めた。
誰に向けた言葉なのか、隣を歩くアレンは目線ひとつ返すことをせずに、アルフレッドに短く言葉を落とす。
「余計な拾いものをしたでしょうか」
「いや、使う」
アレンはそれ以上何も言わないまま、黒い上衣の中と、拘束された片腕の男、床に転がったもの、そして主君とを順に目に入れて、情報を順に拾っていく。彼の手は柄に置かれたまま、一つも動いていない。
布の内側にいるノアには相変わらず何も見えない。
ただ、この夜には合わない季節の風が布の裾から流れ込んでくるのを感じた。冷えた石と血の匂いの中を、春の温度だけが通り抜けてノアの身体に伝わってくる。
「フルール」
呼んでいない奴が、呼ばれたかのようにやって来た──。
アルフレッドは心底うんざりとした様子で名を呼んだ。
「また仕事かい?君、私を酷使し過ぎだよ」
「どうせ暇だろう」
「生憎、両手に花を抱えるのに大忙しだよ」
軽口を叩きながらも、フルールがノアの傍らに膝をつくのがわかった。
アルフレッドの黒い上衣がめくられることはなく、フルールはその裾から手だけを差し入れて、ノアの肩に触れた。触れられた手そのものには温度を感じないというのに、手が触れた肩だけは一気に温度を持った。
「さあ、力を抜いて。そんなに身体を強張らせていたら、疲れてしまうよ」
肩に触れていた春風のような柔らかな温度が、二つ数えるまでにノアの全身まで包み込んでいった。フルールの手のひらからもたらされた春の温度が、ノアの理解を待つことなく肩の激しい痛みを穏やかに溶かしていく。
「これは…?」
「治癒魔術だよ。傷跡も残さず綺麗に治せ、とのお達しでね」
痛みが引いていく。ノアの肩にあったはずの激しい痛みは、一つ残らず消えようとしていた。
しかし、痛みは引いていったというのに、ノアの身体の中に残ったものは何一つ消えてくれなかった。
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