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6章(25)

誰ともとれぬ声が低く落とされた時、廊下の両端には動かない影が二つ残っていた。 東の柱の陰に立つ一つはルシアンだった。 アルフレッドとバルトロメウスのやりとりも、兵たちの動きも、搬送されていくいくつかの身体も眺めていた。しかし、眺めているだけでそこに何の感情も思考も走らせていなかった。 ルシアンの視線は番の顔を探してはいない。番はアルフレッドの上衣にすっぽりと包まれており、顔も項も、何一つ見えなかった。黒い裾から白い足首だけが僅かに覗いていて、時折それが居場所を探すように動くのを見た。細い子どもの足だった。 そして、足から上は全て上衣に包まれている小さいもの。完璧に自分を覆いつくすあの男が、それを脱いでまで覆い隠した。 ルシアンの目が緩く細められた。 中身を暴く必要はなかった。隠されている、あの男が隠しているという事実こそが最も雄弁に価値を語っている。あの男が隠す価値のあるものは、こじ開ける価値がある。 唇の端を上げ、笑みを刻む。何事もなかったかのように壁から背を離し、この夜の用を全て終えた男は丘の上の離宮へ帰る道をたどり始めた。 見るべきものは、もう見えていた。こじ開けるのは、いつでもよかった。 西の薄暗がりに立っていたのはシュヴァルツだった。 宝を守る動きは数えきれないほど見てきた。守る対象が既に決まっており、相手を見て間合いを取り、最小限の動きで終わらせる。考えて動くものである。あれほど思考の早い男だ、考えはいつでも身体より先に来る。アルフレッドは、その順序を間違えることはなかった。 しかし、今見ていた半歩は順序が違った。 アルフレッド自身が決めるよりも先に、身体が動いていた。あれは計算された思考ではなく、反射的な動きだった。 他の王族たちが宝石の強弱を測っている中で、シュヴァルツが測り直したのは弟だった。 十五年間見続けてきた。 北東棟で始まったあの日から、計算の外に出なかった弟の身体が今夜その計算を追い越していた。 廊下を離れようと歩き出した足は急がなかった。弟が覆った布は一度も揺れず、その中にあるものは一切見ていない。 見るべきものは、もう見えていた。残っているのは、まだ見ていないものだけだった。 アルフレッドは、去っていく異母兄たちの背中を完全に見送ってから、少し離れたところに立つ己の騎士を呼び寄せた。 「アレン」 そこに立っていた騎士が、すぐに傍まで来た。左胸の銀の翼が、月の光を受けて輝く。 「はい、殿下」 「ノアを任せる。門を潜るまで誰の手にも渡すな」 「承知いたしました」 それから、アルフレッドは既に運ばれて何もない場所へと視線を一度移したが、すぐにアレンに戻す。 「西門に馬車が一台回っているが、あれには乗せるな」 「は」 アレンはその理由は聞かずに、ただ従った。理由のない命令をこの主君は言わない。必要があればそれを添える。 七年前から続いてきた二人の関係の中では、この夜のこの命令にも、余計な詮索も説明もいらなかった。 その返事にアルフレッドが頷き、上衣に包まれたノアの身体をアレンの方へ移した。 ノアは小さく身じろいだものの声はあげない。 怪我人を運ぶことに習熟しているアレンは、片膝をつきながらノアの身体を適切に支えていた。 「ノア。顔を出すな、そのままでいろ」 その動きに問題がないことを確認してから、アルフレッドは近づいてきたシエルへ視線を移した。 シエルの後ろに、付き従うように歩いている男へと。 「アルフレッド殿下。ノアを助けてくれた奴、連れてきました」 「会おう」 シエルの後ろから姿を現したのは、軍人でも貴族でもない、金髪の男だった。 先ほどまで剣を振るっていた男の金糸は乱れたまま整えられておらず、夜気を含んだ外套を羽織っている。 腰には剣や銃はなく、代わりと言わんばかりに弦楽器の革帯が斜めに巻かれていた。彼が手に持っている剣はアルドヘイム軍に支給されている儀典用のそれであり、恐らくは途中で奪うか借りるかをしたのだと考えられた。 外套の下の途中だけが楽器の形には沿っていないのを、アルフレッドの目が観察する。 詩人の出で立ちだった。 力は抜けているように見えて、両足の重心はいつでも動ける位置にあった。 戦場に慣れているとは言わない。しかし、戦いの場数は踏んでいる。それを見抜ける者がこの場にはいた。 「アルフレッド殿下。今宵は大変な災難でございました」 声は穏やかだった。その姿と違わず、流れるような声が言葉を紡いだ。誰の耳にも残るのに、その特徴を言い表せない、そんな声だった。 事実を確認する言葉の通り、彼の言う災難という言葉には皮肉も同情も含まれていない。 「番を助けてくれたようだな」 「ミンストレル・ガストと申します。ただの流浪の身…本来ならば、殿下のお目にかかることもありませぬ」 名乗る声にも卑屈さも傲慢さもない。 アルフレッドというアルドヘイムの王族を前にして、身分の差をただの事実としてしか扱っていない言い方をしていた。自分を低く見せることをせず、何かを増やすも減らすもしない物言いである。 彼が名乗った『ミンストレル』は人物名ではなく、詩人という職業名だ。 ただの流浪の身という自称が、嘘ではないが全てでもないことをアルフレッドは既に見抜いていた。 「私は持ち場に戻らねばならない。簡易であるが、この場で礼を言おう。この者に褒賞を」 「誠に僭越ですが、私には過ぎたものでございます」 「ならば、他に望みがあるか」 アルフレッドが尋ねた時、ガストの目線がアルフレッドの肩を越え、アレンが抱えている上衣へと向いた。 ほんの一瞬だった。 視線の動きとしてはほとんど追えないものでも、目の前に立つ男は全て見ていた。 レティシアも、アレンも、シエルも、この場にいる全員が視線の動きを見ていた。 「───今一度、あなた様が秘めている宝を拝見したく」 言葉が落ちた瞬間、廊下の空気が硬くなった。 「おい」 シエルが横から短く、それでいて鋭い色を乗せた声で剣呑な態度を露わにした。 レティシアの手は、それよりも早くドレスの裾の下に潜む銃に触れていた。目線は一つも動かない指先だけの動きである。 詩人までの距離を正確に数え終えていたのはアレンだった。何歩踏み込み、どこで鞘から抜けば一突きで終えられるか、目だけで既に計算を完了している。 アルフレッドはその動きを全て見たうえで、表情一つ変えることをしないまま詩人を見てすぐに答えた。 「悪いが宝は持ち合わせていない。あまり、興味がないのでな」 ガストはその完璧な否定を自分の問いの答えとして受け取った。 僅かに身を硬くさせていた三人の肩の線が緩やかになる。ガストはアルフレッドの答えに驚くことも、笑うことも、何もしなかった。 「さようでしたか。失礼いたしました、どうかご容赦を」 ガストはすぐに引いた。退き方には未練がなく、頭を下げる角度も王族への礼として規定通りに深いものだった。 声も慇懃な形の中で詩を読む男の柔らかさが入っている。 しかし、顔を上げた瞬間の表情には別の何かがあった。それを全て読むか、読まなくてよいか…その判断がすぐにできない事実こそが、この男の値打ちだった。 「規定に則り褒賞を与えろ」 「は。かしこまりました」 守衛騎士がガストの隣につき、そのまま下がろうとする。 「詩人」 アルフレッドの声で下がりかけたガストの足が止まった。呼び止めるほどの強さではなかった。その視線が一度だけ、羽織っている外套の下の輪郭をなぞるのをガストは感じた。 「今宵、この王宮では何もなかった。──持ち帰るものも、置いていくものも、な」 ガストは先ほどよりも深く一礼していた。 「は。詩人の荷は、歌だけでございますので」 その言葉を最後に、ガストは守衛と共に今度こそ下がっていく。 足音だけでそれを認識しながら、アルフレッドは布の塊の傍へ屈んでノアの肩に正確に触れた。 「アレンと一緒に行け」 その一つだけを言って、すぐに手を離し立ち上がる。 「アルフ……」 ノアの声は思ったよりもずっと小さかった。しかし、どんな声でも名前を呼べば彼はいつも声を返すか立ち止まってくれた。 それなのに、足音は止まらなかった。 ノアの声に気づいていたのかいなかったのか、アルフレッドは構うことなく背を向けた。 僅かに持ち上げた布の隙間からはレティシアやシエル、そして兵たちを連れて歩く黒い背中が見えた。上衣がない分、身体の線が普段より幾分か鮮明に見えるアルフレッドの背中は、見ている間にどんどん小さくなっていった。 ノアは伸ばしかけた手のひらを握り、胸元に寄せた。上衣の中で握った指先が鎖骨の辺りに触れ、その冷たさに少しだけ震える。 アルフレッドの体温が触れた肩だけが僅かに温かかったのに、それもすぐに冷えていってしまった。

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