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6章(26)

アルドヘイム王宮の奥、宴も祝いのざわめき一つ届かない地下の中に石室が沈んでいる。 灯りは壁に埋められた小さな燭台の火だけで、時折細く揺れる。石造りの壁が冷気を放ち、長い年月の間に石と鉄の匂いを吸い込んだ空間は肺の中を重く満たした。 廊下から地下牢まで降りる階段はここを境に上の世界の音を遮断するように設計されている。ここに入れられた者が何をされても、何を言っても、上には届かない構造である。そのために作られた場所と言えた。 階段を下り終え、奥まで進んで行けば、そこにたった一つの影が燭台の灯りを受けて伸びているのが見える。 襲撃者は冷たい石の床に転がされていた。 この底に収められている人間は一人きりである。両隣も向かいも全て空けられており、看守がいなければ襲撃者以外の呼吸が音になることはない。 鎖は使われておらず、意識を細い糸のように覚醒へと繋ぎ止められたまま、それでも何をする力を持てるはずもなくただ横たわっている。失った腕の処置は最低限済まされていたが、焼かれた切断面と汗と煤で汚れた顔はそのまま残っていた。 治癒魔術も施されただろう。しかしそれらの行為は、決してこの男を回復させるための手段ではなく、命を保つための処置である。あの廊下で自らが下した一つの命令が忠実に実行されていることを確認できた。 男はまだ意識を保っている。しかし、痛みは消えず思考は回っていない状態であることが窺い知れた。 浅く、引き攣れるような呼吸が石を敷き詰められた部屋に微かに反響する。 「───お前……」 男の濁った黒い瞳が、床からアルフレッドを見上げはっきりと存在を認識したのがわかった。 その時ばかりは僅かに焦点の合った瞳の中で、憎悪と恐怖が複雑に交じり合う。自分を斬った相手への憎しみと、その男に今から何をされるのかという恐怖だった。 男の目に映る感情を見ながら、アルフレッドは男の傍らに片膝をついた。 アルフレッドの動作には容赦も同情もなかった。同時に、怒りも憎しみもなかった。 ただ淡々と、机の上に散らばった物を片付けるような凪いだ様子だった。 薄く血が溜まっている床に膝をつく行為に躊躇はなく、軍礼服の膝が汚れようとも気にした素振りは一つもない。 「なに、を…」 男が身を強張らせる力すらない中で、低く声をあげる。 アルフレッドの手が上がった。 男の額に触れるか触れないかの距離に人差し指と中指の二本だけを前髪の上から額にかざしていた。 強い光も、火も伴わないものだった。 淡く細い、他の人間からは何も見えないような繊細に編み込まれたものである。 アルフレッドの指先と額の間を橋渡すものの正体が魔術であることを知るのは、この場ではアルフレッド本人だけだった。 風も立たず、燭台の炎すらその魔術には少しも揺れない。 密室の中だけで完結する魔力の運用は、廊下に立つ衛兵にも一切気づかれない。しかし、その気づかれない一番の理由は、中にいるのが今宵この襲撃犯を捕えた第七皇子本人だということにあった。 戦場で炎を使えば強大で、派手で、誰の目にも、そして遠目でも明らかな威力を持つ。この炎こそが幾たびの戦場でアルフレッドの代名詞として謳われてきたものだった。 その姿とは裏腹に、今この指先から流れる魔術は音も光もなく、ただ炎の魔術同様に精密な領域に介入するための技術を要した。 「──お前は今夜、ノアという少年の額に巻かれた布の下を確認した」 男の表情も言葉も反応ひとつ返すことをせずに、アルフレッドは低く言葉を口にし始めた。 その言葉が、男に向かって言っているものなのか、それとも自分自身に言い聞かせるように、何かの手順を確認するかのように言っているのか、明確に区別することができない声色だった。 声に抑揚がなく、感情の色も乗らない。揺れることも立つこともなく、一定の調子で言葉を続けようとする。 「少年の額には宝石などなかった。布の下にあったのは、ただの皮膚だ」 男の頭の中ではアルフレッドの言葉が全く違う温度になって沈められていっていた。 黒い瞳が焦点を失い、ぼんやりとした様子で天井を向いた。薄暗い天井に燭台の影が揺れている。小さく動くそれを見ながら、男の頭の中では何かが外され、そこに別の何かが継ぎ足されていくようにして形を変えられていった。 「第七皇子は番を偽った」 痛みも苦しみも熱もない。 失ったはずの右腕の切断面は熱くも痛くもなく、血も流れていない。痛みが消えているように感じていた。しかし、本当は消えてなどいない。痛みを認知する経路の一部を、他者によって書き換えられているその途中だった。 額にかざされた指から流れるものには傷とは別の何かがあった。回るような、景色が移り変わるような、色が変化するような、言葉にできない感覚がずっと続き、言葉が形になって直接頭の中に入り込んでくる。 「宝石を持たないただの少年を、番だと偽って連れてきていた。それが、今夜お前が見た真実だ」 その言葉を聞き終えていたのか判断できないが、頭の中が軽くなったような、蝶番があうような綺麗な感覚が走った。 言い表せない何かに何度か瞬きをしたところで、アルフレッドの指先が男の額から離れる。 離れる動作にも何一つ含まれない。急ぐことも止まることもない。片付け終えた手を身体の側へと戻す当たり前の動作とよく似ていた。 そうして、男の瞳が戻る。 天井を向いていた二つの視線が降りてきて、再び自分の前で立ち上がったアルフレッドを見上げていた。 しかし、見上げた先にいる人物は先ほどまでと変わらないというのに、男の中の憎悪も恐怖も薄まっていたのだ。代わりに、強くはまった蝶番がもともとどんな形をしていたのか、思い出そうとしている目があった。 男には自分の身に何が起きたのか一つもわからない。朦朧とした頭の中で、一つの認識が別の形に置き換わっていることに、気づく手段は何もなかった。 剥いだ布の下に宝石などはなく、ただの皮膚だった。 あの第七皇子は、宝石を持たないただの少年を宝石を持ったオメガだと、番だと偽って連れてきていた。 それが、この男が今夜認識していることになった。 男の瞳を覗き込むことも、自分の魔術の結果を確かめることもせず、アルフレッドは男に背を向けた。 視線を外す速度も、歩き出す歩幅も何も変わらない。 アルフレッドの背後で呼吸の音が変わった。 「なぜ、だ…」 掠れて、ほとんど言葉になりきれていない声だった。 削られた認知の底から戻されて最初に浮いてきた思考や感情が、何にも加工されずそのまま声になっていた。 「廃棄場の……出来損ない、を……。俺は…俺の、方が……完成した…」 アルフレッドは声が続いていても振り返らなかった。 呼吸を変えることも、歩く速度を変えることもしなかった。扉に手をかけた時、男の声が一段細くなり、弱々しいものになる。 「…本物は……なぜ、俺、では──…」 扉の閉まる音が、言葉を途中で断ち切った。

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