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6章(28)

王宮側のアルフレッドの執務室の中には、既に三人の姿があった。 窓際にはアレンが立っており、外套の肩に夜露がうっすらと乗っており外を通って来た身体だとすぐわかる。主君が入ってくると同時に組んでいた腕を解き、窓から背を離した。レティシアは卓上に並べていた書類を両手で角を合わせるようにまとめて、背筋を伸ばす。儀の最中に纏っていたドレスから黒い軍服へと装いを完全に変えていた。解いていた金髪も普段同様に後ろで結い上げられている。シエルだけは椅子を逆側に、背に顎を乗せるようにして座っていたのを、アルフレッドの姿が見えるなり焦りはせず立ち上がった。軍礼服は既に崩されており、襟も袖も普段通り僅かばかりに崩した着方をしている。 「離宮へお送りしました」 まず口を開いたのはアレンで、結果を一番最初に置いた。 「門は内から閉じさせております。殿下のご命令通り、西にあった馬車は使わず、私室まで送り届け、侍女が二名ついております」 その報告をアルフレッドは頷いて返した。 それから、レティシアが手に持つ紙の束へと視線を移せば、彼女が心得たように報告を始める。 「主犯の男は純アルファではありませんでした」 事実を一つ置いて、彼女は一度瞳を伏せた。 「私が少将からの伝令を受け、ノアくんと移動を始めたところで、フェロモンに中てられた貴族とオメガの娘とかち合いました。貴族は完全に理性を失い、オメガに襲い掛かる直前だったようで、オメガは私に助けを求めに来ました」 レティシアはそこで言葉を切ってから、三人の顔色を伺うことなく続けた。 「匂いを嗅ぎました。アルファのものでも、オメガのものでもない──人工の匂いです」 「……それって」 シエルが何かを言いかけてやめた。背の高い椅子にかけた肘はそのままに、少しだけ視線を逸らす。逸らした先は、アレンの立つ窓際とは反対の扉の側だった。 「P(シュード)アルファだ」 「そりゃ、金で買われやすいわけだ」 軽口の温度が自然と戻ったところでシエルはその先を呑み込んでいた。レティシアがシエルを見て、小さくため息をこぼすような素振りを見せる。 「シエル。あなたの素直さは長所にも短所にもなり得るわ」 「失礼しました」 レティシアの咎める声は普段よりも柔らかさを持った厳しさである。 本気で詫びているのか、いつもの茶化しなのか判別のつかない声で礼を失したことをシエルが告げるのに唯一言葉と視線を返したのはアレンだった。 「変なのが多いからな、お前の言葉は間違っていない」 「少将…そこで俺のフォローしないでくださいよ」 「個人的な感想を述べたまでだ」 シエルは少しだけ笑って、その笑いの中に救われた側の温度があったことをこの場の誰もが感じていた。 口の端を上げるだけで応えてみせたアレンに、シエルもレティシアもそれ以上は何も言わない。 「錯乱したオメガは、道具として放たれたのだと考えます。私の足止めのために」 レティシアは事実だけを並べようと言葉を口から紡いでいたが、何かを思い出しているのか語尾にほんの少しだけ力が入っている。 それをアルフレッドは指摘しなかった。彼女の話自体よりもその声色で、彼女がどのようにノアと分断させられたのか容易に特定できた。 「殿下、一つ申し上げたく…あの匂いを、ノアくんも同じ場で受けています」 書類を持ち直す音がした。先ほどまでとはまた声の色が変わっていたが、アルフレッドは目線を上げなかった。 「私には訓練がありますが…ノアくんには、それが一つもありません」 言葉が一度切られたのは息継ぎのためではない。 「発情期は来ておりませんが、Pアルファのフェロモンがどう作用するのかわかりかねます。何しろ、Pアルファの研究データについては軍務省にアクセス権限がありませんので」 どこまでも事務的な声をしていた。 あの時、ノアの背中を押したのは彼女の手だ。あの場ではそれ以外に選択肢はなかったが、結果としてその背中が向かった先にPアルファが立っていた。 「離宮までの道中、変わった様子はありませんでした」 窓際からアレンが口を挟んだ。先の報告の続きのようでいて、僅かばかりに内容の置き場所が変わっている。 「体温も呼吸も脈拍も、肩の治療を受けた後は落ち着いていました。侍女も特段心配している様子はありませんでした」 誰もがそれ以上を確かめる術は持っていない。Pアルファの人工的なフェロモンが、発情期が来ていないオメガにどう作用するかなど、恐らく研究すらされていない。どちらも数が少ないからだ。 ノアに特段影響がなかったのは発情期がまだ来ていないからだと仮定は置ける。三人が同じ場所に辿り着き、誰も口には出さなかった。そうして一つ目の話が片付いた後に、アレンが報告を切り替える。 「殿下の叙勲式の最中に、名簿に載っていなかった給仕役と、第十三皇子が視線だけを交わしているのを目撃しました」 「アシュレイ。本当に俺のことが気に入らないらしい」 アルフレッドは笑った素振りを見せたがそこに感慨はなかった。苦笑も皮肉もない、笑ってみせたというものである。 それを聞きながら、シエルは僅かに首を傾けアルフレッドに問うた。 「前からなんすか。アシュレイ殿下と、昔何かあったんですか?」 「視界に入ってくるようになったのはずっと前だな。五年前に俺の副官の素性に手を伸ばしたことがある」 俺の副官という言葉にレティシアは視線どころか睫毛一本動かさなかった。アレンも過去にあった出来事の一つとして聞いているだけで、言葉を加えない。シエルの視線が三人を一度順番に巡って、行き場がなくなったのかアルフレッドへと着地した。 「今夜のあれ、だいぶ執念ありますよ。何であの方、そこまで殿下のこと──」 「知らん」 「知らんって」 突き放したわけではなかった。拒絶でも何でもなく、アルフレッドは天気をそのまま見て答えるのと同じ調子だった。 「俺を引き摺り下ろそうとする目はどこにでもある。あの男は単純で読みやすい。双璧の儀で番が認められれば、もう打つ手がなくなる、だからこのタイミングしかなかった、それだけだ」 「理由とか気にならないんですか?俺ならすげぇ気になる」 「気にすべきものがあれば、とうに気にしている」 その答えにシエルは肩を竦めてみせた。 書類が一枚捲られる音が立ち、次の議題の合図となる。 「マルコはどうした」 アルフレッドの声の色が変わる。ほんの少しばかり低くなり、これまでの報告に対するものとは違う種類の問いだった。 「うちの営倉に入れてます。ノアには気の毒ですが…まあ、順当に処分ですかね」 シエルの話す声に苛立ちがあった。 今日の昼間も、儀に参加するための準備の最中にその人物とその場所の会話をしたばかりだ。ノアは楽しそうに仔馬の話をして、そして、自分が行くことであの年寄りの邪魔をしていないかと一歩引こうとしていた。限られた場所の中で楽しみの一つにしていた。それを壊したのがあの厩番だということが、シエルには許せないらしかった。 「……娘を、人質に取られていたそうです」 情に厚い男ではあるが、それに呑まれる男ではない。それを理解しているレティシアは、シエルの声の温度の変わりを注意することなく、淡々と報告として言葉を引き継いだ。 「離宮の内ではありません、城下に住む娘です。娘とその監視についていた者は、私の人員が今夜のうちに押さえました」 イグニス離宮に仕える使用人の身辺は隅々まで調べてあるものの、その先の枝葉までは垣根の外にあった。 娘の話を聞いてもアルフレッドは頷くことも言葉を口にすることもない。指示を出さないということは、慣例通りに処分されるということを表している。それを三人とも理解しており、同時にノアに伝えないということも既に頭の中に浮かべていた。マルコという年寄りは、ノアの中でいなくなった人になる。理由も行方も、誰が何をしたのかも開示されることはないだろう。 「南西の合流地点はお前だったな」 「西側から三名が。三名とも生け捕りにしました」 シエルに移った視線に目と言葉で答えた。 「制圧してすぐに渡り廊下に向かいました。着いた時には、殿下が」 それだけだった。シエルの報告にアルフレッドは一度だけ頷き、その後は何も付け加えなかった。 遅れたとも、間に合わなかったともシエルは言わなかった。言えばそれは言い訳になる。しかし、シエルは今宵の持ち場を守り通し、一人も抜けさせなかった。通していないはずなのに、届かなかった。それだけが、この場でのシエルの声をいつもより硬くさせている。 「残りの拘束者は」 「回廊で生き残った二名と、渡り廊下の物置から出てきた三名は王宮の兵へ預けました。西側の三名は、マルコと同じ軍の管轄で押さえております」 アレンが言った。 「雇い主はあの男だと言っておりますが、金の出所までは知りません。供述はそこ止まりです」 「そのままにしていい。あとはこちらで出せる」 卓の上で書類が一枚伏せられる。 襲撃者たちの情報が粗方整理できたところで、レティシアが口を開いた。 「あの男、本当にただの吟遊詩人でしょうか」 切り出したその声には、警戒の色がはっきりと乗っていた。 あの場に辿り着いた時に見えた得物、身のこなし、そしてあの場の空気を意に介さないような話し方。宝を見たいとはっきりと告げた。それも、名指しで。その時の声と温度が、レティシアの中ではずっと残り続けていた。疑念の種は、見えないところでどんどん根を張ろうとしている。 「この夜は常に祭典の場でした。そこにあの男は弓を持ち込んでいた…検問を抜ける手管を持ち、それをあの場で使った。私の銃は、殿下の許可のもとにありました。しかし、あの男の弓には誰の許可もありません」 彼女の疑念も警戒も全て正しかった。この夜はあの男がこちらの利として動いていたが、次の夜にどうなるかわからない。胡乱な詩人の向かう先がわからないことを言っていた。 「腕が立つように見えましたね」 短く補足の言葉を足したのはアレンだった。彼はガストの戦いを一度も見ていない。あの時見ていたのはレティシアだけである。 それでも、あの立ち姿を一度見ただけで、詩人の出で立ちの下にあった重心の使い方を、アレンは確かに測っていた。 「旅人なら、それなりに戦慣れしていてもおかしくはない」 「その身分を証明できるんすか?」 肯定も否定もしない、まさしく中立の言葉だった。それこそが彼の判断の方向を定めている。 あの場で最も詩人の傍に立っていたシエルは腕を組みながら尋ねた。 「吟遊詩人であることは確かだ」 言いながらアルフレッドが一枚の書類を卓の上へ滑らせる。それは、この場にいる全員にとっては見覚えのある書式だった。 「アクアデーク十二…俺の不在中に、イグニスの宴の間で歌っている。王家の許可証を持った巡業だ。十離宮を順番に巡る──毎年な」 「不在、ねぇ……それ、偶然ってことですか」 シエルの瞳が細められ、声が僅かに掠れた。 「ノアの姿を見たか、俺が番を連れて来たという噂を聞いてかまをかけてきたか、ただの巡業か…判別はできん」 判別できないという事実が、あの男への関心となる。 判別できる人間なら掃いて捨てるほど存在しており、それは対処の方法が明確だった。 「だが、確かなことがある。奴は既に二度、俺の塀の内側に入っているということだ。一度目は許可証で、二度目は検問を抜けて……塀は、あの男を止めない」 レティシアは口を開きかけて閉じた。最初に口にした自分の言葉が、そのまま主君の話の根拠になっていた。 そして、彼女はアクアデークの十二、その場にいた。詩人の詩を聞いているノアの姿を見て、声をかけた。あんなにも近くにあの男は来ていた、何も疑われることなく離宮の内側に既に入り込んできていた。 吹き抜けから見ていたノアに気づいたのか。しかし、ノアの容姿の特徴も名前も、離宮の外には出ていなかった。離宮の使用人以外に、ノアをアルフレッドが連れて来た番として像を結び付けられる者は存在しないはずである。王族の離宮に見慣れぬ年若い人間がいた…それだけでも、洞察力が優れていれば正体に辿り着くか。レティシアの唇が僅かに強く結ばれる。 「巡業は毎年だ、断る理由もなければ、断ったとしても来年もその次も来る。奴は許可証と楽器を持って正しい姿で門をくぐれる……向こうの足で来させるより、最初からこちらの床に置く」 アルフレッドの長い指先が書類の面を叩いた。一度だけで、ほとんど音も立たなかった。 「専属を狙う巡業の詩人を、番を救った褒賞に添えて召し抱える。誰も疑問には思わない筋書きだ」 聞きながら、シエルは毎度のことながら己が主君の思考と決断力の早さに笑ってしまいそうになる。その場その時で状況など小さなところで変化し続けるというのに、動いたその分を正確に読んで正確な手段を選び取る。 「イグニスの宮廷詩人として奴に交渉を。近くに置いて、ノアへの接触の仕方を見る」 アルフレッドの言葉にレティシアが頷いた。その頷く角度の中に、複雑な温度があるのはわかっていた。 遠ざけるのではなく、あえて近づける。禁じるのではなく、条件をこちらが決める。 その意図の全てを彼女は理解していた。理解をしていても、肯定まではできていなかった。それでも、副官としての立場と役割が、言葉を口にせずに頷くことを要求していたのだ。 三人が反対の意を口にしないのを短く確認した後に、アルフレッドは声を切り替える。 「アシュレイが必ず動く。恐らく三日のうちだろう…それまでに、証拠を整理しておけ」 指示を出す声だった。三人の姿勢がそれぞれ無意識に些細な変化を見せる。 守衛の配置変更の命令書、傭兵との接触の記録、名簿に存在しない名前。全てが一つの印章の登録番号へ繋がる証拠である。 「──北東の警備に、うちの人間は入れるな」 一言だけの指示だというのに、他のものよりも密のある声だった。指示を聞いたシエルが顔を上げて、低い声で言う。 「……ノアを襲った奴ですよ」 「王宮の兵で足りる」 「逃げられませんか。あの人は出入りできますよね、奥の通路から」 確かめるでも、反論するでもない。主君に不信感があるのではなく、ただそう言わずにはいられないといった声だった。 アルフレッドは答えなかったものの、アレンが少しの間を挟んでから、「承知いたしました」と短く言い切った。主の意図を理解したうえで、時刻も理由も言葉で確認しない。番を襲った主犯の見張りに主君の部下を一人も立たせないというのは、通常の軍人であれば真っ向から止める判断だというのに、アレンは止めなかった。 「配置を組んで、全員に伝達します」 「任せた」 シエルはそれに対して何も言わない。言葉にしないことで、彼らの判断を共有していた。 うちの人間を入れないということは、穴ができる。開いた穴を、誰かが──そこまで考えてから、シエルは思考を止めた。普段であれば計算より先に来るものの方が多いはずだというのに、今夜はやけに頭の回りが速かった。主君の動きに引き上げられている自覚があった。 その時にはもう、アルフレッドは背を向けていた。 規則正しい動きだったが、その中に違うものがあることに気づいた。足を向ける方向だった。 彼が向かおうとしているのは、並木道の先にあるイグニス離宮へ通じる方角である。気づいたシエルが漆黒の背中へ声をかけた。 「殿下。一度、離宮に戻りますか?」 「ああ」 「じゃ、王宮の方に伝えておきます。多分、軍務卿が来ると思うんで」 やりづれぇんだよな、と小声で呟きながらシエルは後頭部を掻く。 今日、自分たちが寝台に潜れる時間はいつになるのか…そもそも、もう日付を跨いだかもしれない。自分たちにやるべき作業が多く残っているということは、この主君にはそれ以上のものがあるはずだった。 しかし、離宮に一度戻る理由もわかっていた。レティシアがあれだけ言ったのだ、あの子どもの具合を確かめに行くのだろう。であれば、軍の最高責任者に先に伝えておくのが筋だった。 「言付けはいらん」 アルフレッドはそれだけを言って歩き出した。 その意図を掴み切れず、シエルはただ力の抜けたような声でそうですか、としか返せなかった。レティシアは音一つ立てずに頭を下げ、アレンは胸にある銀の翼に手を当てて、騎士の礼の動作を完結させていた。アルフレッドはそれらを背中で受けるだけで、見届けないままに月光と燭台が照らす中へと歩みを進めて行く。 いくつかあったものの中で、最後の一つ以外は託した。最後の一つだけが、まだ彼の中に残り続けていた。 他のものとは違う位置にある、順番を無視してしまうもの。 その位置も理由も言葉で説明をすることをしないままに、ただ足だけが正確にその方向へと向いていた。

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