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6章(29)

炎の精霊の名を冠する離宮は、深い静寂に包まれていた。 昼間の明るさと音は夜の闇の中へと姿を溶かしており、この中には王宮にあった祝祭の楽も襲撃による血の匂いも何もない。王宮の地下へと閉じ込められたものも、音も気配も含め離宮は全てを拾わない場所だった。 廊下の燭台は深夜の数まで正確に落とされており、人が動く気配も音もほとんどない。乾きかけた礼服の染みが歩くたびに布を引き攣らせた。 静まった廊下の中に、落ち着いた呼吸が二つ分あった。 主の姿を認めるなり、扉の前に立っていた二人の侍女が遠くからその腰を折るのが薄闇の中でもよく見えた。アレンの報告通りの光景である。近くまで歩いて行けば、中の灯りが点いたままなのが見えた。 「下がっていい」 言いながらアルフレッドの手は既に扉を押していたため、彼女たちの返事は聞かなかった。 微かに軋む音をさせる扉を後ろ手で閉め、一度だけ寝室の全体を見渡す。部屋の中は暖められすぎていた。 誰かが火を絶やすことなく、眠らずにいる子のために灯りを減らすことをしなかったのだろう。寝台の脇も、窓際も、扉も、全ての燭台に火が灯っている。この時間の、眠りに入るための明るさでも温度でもなかった。 寝台の縁にノアは浅く腰かけていた。 寝台に入った形跡はちっともなく、枕の位置も乱されていない。上掛けが片方の太腿の上にまで引き上げられているが、それも自分の身を包むために掛けたというよりは、手近にある何かを掴んだ結果のように見えた。 上掛けの端だけを掴んでいる。意味はなく、掴んだきり離せないでいるような手だった。 右腕は身体の前で太腿の上に緩く置かれており、肘から先が体幹側へと寄っている。自然な形ではなかった。庇うような痛みはもう残されていないはずだというのに、その右腕は少しも動かなかった。 もう片方の手が時折襟元に上がり、寝衣から見える鎖骨のあたりに触れて離れ、また上がろうとする。何かを確かめたい動きなのか、判断がつかないものだった。 アルフレッドは寝台の傍まで歩み寄り、膝を折った。ノアと視線が正面から交わる位置にまで身体が勝手に降りていた。 床の冷たさが膝の布越しに伝わってきたことで、そこで初めて自分が屈んでいることに気づく。気づいた後も体勢を変えることはしなかった。 ノアが顔を上げた。 その視線がアルフレッドへと向いた時、アルフレッドは庇われた右腕を見ていた。その間に、ノアの淡い睫毛が一度だけ跳ねて、また視線が下がる。下げた視線のすぐ先に軍礼服の膝が入ってきて、黒い染みの上で目の動きを止めた。数秒の後に視線がまた動く。唇にほんの僅かな隙間ができて、薄く唇を開いた。白い喉が動いて、声になる手前の、息を吸う動きをしたものの、そこから音は一つも出てこなかった。出なかった声をもう一度出そうとはせずに唇を閉ざし、その後で目を伏せる。伏せた亜麻色の睫毛が頬の上に細い影を落とすのを、右手から顔を上げたアルフレッドが見た。 ノアは、名前を呼ばなかった。 いつもであれば、扉が開いた時点で名を呼んでいた。呼ぶのが先か立ち上がるのが先か、そうしながらこちらへと寄って来る。今夜は座ったまま、上掛けの端を握ったまま、名前を呼ぶこともせずにただ瞳を伏せていた。そのことにアルフレッドは引っかかりを感じたものの、別のものへと思考を動かしていた。 庇われた右手、襟元に上がる細い指。身体も唇も震えていない、泣いてもいないのに、上掛けを握る左手の関節は白くなっている。 怖かっただろうと思った。 当然である。あの村から出たこともない子だ。初めて行った王宮の中で組み敷かれ、知らない男に服の下を探られた。 凶器を向けられ、目の前で剣が抜かれ、争い合うのも、人の腕が落ちるのも見た。血の匂いも、炎の熱もあった。夜の間中、震えて眠れないくらいのことは起きるのが当然だろうと考えた。 「痛みはないな」 夜の中に溶けるように声を落としながら言えば、ノアは小さく、本当に小さく頷いた。目は伏せられており、視線は合わないままだった。 「…なら、いい」 これ以上、夜に起こった出来事も光景も言葉にする必要性は何もなかった。 怖かったかと聞いて、大丈夫かと声をかければ話した分だけこの子の中で今夜起こった出来事の像が濃くなってしまう。触れさせず、言葉にさせず、話を聞かせず、朝まで意識を手放すこと。それが最短で、最もこの子どもにとって消耗が少ないと判断した。 三日と読んでいた。 あの男は必ず動く。その日に、この子を王宮に連れて行けなければ、第七皇子には番などいなかったという話にすり替えられる。逆算すると、朝までには立って歩ける程度にはこの子どもを戻しておく必要があった。 ノアの額には、綺麗な白い布が緩く巻かれている。 治療の後に自分で巻いたのか、後ろの結び目が少し横にずれていて、端の長さが不揃いなのが目に見えてわかった。アルフレッドが手を伸ばして、白い両端に指を添わせる。近づいた距離に、ノアが小さく身じろいだ。 「動くな」 短く言うと、ノアは動かなくなった。 歪な結び目を解けば、布が大きく緩んで一度額から滑り落ちる。そこに現れたものをアルフレッドは見なかった。指で持った白い布の皺を伸ばし、額の真ん中で位置を測ってから後ろへと腕を回した。 亜麻色の柔らかい髪をかき分けながら結ぶ動きの中で、ノアの小さな頭が僅かに傾いた。自然な動きに沿うもので、抵抗でも驚愕でもなんでもない。 しっかり結ばれたリボンの表面を指先で少しばかり撫でてから、アルフレッドは一度手を動かすのを止めた。 少し前に、地下の石に囲まれた部屋で、男の額にかざした時と同じような形をこの指で作っていた。あの男の頭の中の認識を書き換えるのには時間も苦労もいらなかった。 額から頭を撫でるような動きで滑らせていったその手は後頭部で止まる。起きて座っている人間の後頭部を支える理由などないものの、アルフレッドはその手で後頭部の柔らかな髪をもう一度撫でた。 「目を閉じろ」 言われるがままにノアはすぐ目を閉じた。閉じることに、人の言った通りにすることに、何の躊躇いもない速さだった。意識ではなく、言葉を聞いた瞬間の反射だと思った。いつもそうだった。人の言葉も行為も、疑うことなくすんなりと受け入れてしまう。 青紫色の瞳が瞼に覆われるのを見てから、アルフレッドは指先に魔力を通した。あの時と同じように、火も光も何もない、形を持たない力の流れだった。 ノアの細い睫毛が二度ほど震えて、それきり動かなくなるのを見届ける。 肩から力が抜けて、上掛けを握っていた左手が解け、その白さが薄れる。自分の意思で支えられなくなったノアの身体がゆっくりと前へ傾いた。 その身体を抱きとめて、そのまま数秒止まっていた。腕の中に収まったものは驚くほど軽く、そして熱を持っている。眠りの底へと沈んでいく人間の重さがこれほど頼りないものだということを実感させられて、身体を抱く腕に力が入った。呼吸が規則正しく、深くなっていくのを六つ数えるほどまで待つ。その間、両腕でその身体を抱いていた。 庇う形のままにあった右腕を身体の脇に戻してやり、呼吸の深さを測る。少ししてから、ようやく寝台の上にその身体を横たえた。右の肩には触れなかった。治っているものに、これ以上自分が何かを加える理由などなかった。 少しも緩んでいないリボンを指先でなぞり、ゆっくりと腰を上げた。立ち上がる動作の中で、膝の布から音を立てて乾ききった血が落ちる。 扉の脇にある燭台の火だけを残して、それ以外の全て落とした。少しずつ色を落としていく空間の中で、寝台の上へもう一度だけ視線を投げ、そこに少しの間留める。 何を見るでもなく、ただその姿を見てから、アルフレッドはバルコニーへ出る扉の方へと足が向いていることに理由をつけないまま、そちらへと歩いた。

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